第一章 3
2026年2月1日 改稿
「ご馳走様でした!」
赤いソースがべったりとかかっていた皿は、綺麗に純白を取り戻していた。
「よく、あんな凄いの食べられるね。ソースがやばい」
宗田の横には空になったピッチャーが置いてある。
「そうですか? 全然普通に美味しいですよ。大袈裟ですねー」
唯はけろりとした顔で言う。
味覚がバグった彼女を怪訝そうに見ながら、ひりひりと赤くなった舌を冷やすように水を口に含む。
「そ、そうっすか」
そして、デザートまで食べ終えると唯はふぅっと息を吐きお腹を軽く擦る。
「満足です」
うっとりと目を細め唯は呟いた。
「お腹いっぱいだね」
宗田が返す。
「そう言えば、宗田さんは大丈夫ですか?」
その言葉を聞いたとき、押し込めていた胸のざわめきが騒ぎ出した。
「大丈夫……かな」
そう返すのが精いっぱいだったようで、その後の言葉が続かなかった。
視線を下に落とし、机の一点を見つめていると唯が心配そう声をかける。
「あの……いつでも相談に乗るんで話してください」
優しい言葉に胸のざわめきが少しだけ静かになる。下に向けた視線を上げると眉じりを下げてこちらを見る唯の姿があった。
「ありがとう」
そう言って笑顔で返したが、どこかぎこちなく歪んでしまった。
「ごめんなさい……」
バツが悪そうに唯が頭を下げる。
「気に――」
宗田が気にしないでと言おうとした時だった。
――ザ……ザザザ。
宗田は顔を上げた。唯も同じように俯いた顔を天井へと向ける。
――我は魔王。
はっきりと聞こえると、宗田と唯はお互いに見つめ合う。
店内の音が消えた。
どうやら、この声は二人だけでなく全員に聞こえているようだった。
静まり返った店内に、数人が今の声に関して話をしているのが聞こえた。
——この世界を掌握した。
その声は奇妙な色をしていた。
男とも女とも、老いとも若さともつかない。
まるでキャンバスに無数の色を叩きつけ無理やり”声”という形にしたような、不思議な響きだった。
——今宵日付が変わる時それは始まる。
——人類と我の戦争だ。
——さあ、殺し合おう。
——我は富士の山で待っている。
声の主は一気に紡ぐと、それ以降一切の言葉を発しなかった。
静まり返る店内に少しだけ音が生まれた。それに呼応するように、ざわめきが広がる。
「今の……何?」
唯が呟き、宗田が視線を向ける。
多くの血を失ったように白い肌が青い。指先が落ち着きなく動き、少しだけ震えているように見えた。
「神崎さん、大丈夫?」
単純な言葉を絞り出すのが精いっぱい。ざわざわと胸の内で何かが這いまわっているような感覚に、宗田も自分の指先から体温が失われて行くのを感じた。
「大丈夫ばない……です」
少しでも不安をなくそうとそう言うが、声が震えていた。
「とりあえず……店を出ようか」
店内の他の客は今の声の話で持ち切りだった。”戦争”に”殺し合い”その言葉を聞く度に唯の肩がピクリと反応する。
この悪循環を断ち切りたいと、少し強引に席を立つことにした。
「あの……お金」
会計を済ませて外に出ると、唯がつぶやく。
「いいよ。今日はご飯に誘ってくれたお礼に俺が払うね」
消え入りそうな声で「ありがとうございます」と言って笑顔を見せる。
しかし、それは誰から見ても張りぼてのようにむりやり作られている事が、見て取れた。
「それでさ。さっきの事、落ち着いて話さない?」
「そう……ですね。でも、どこで話しますか?」
唯は不安気に周囲を見回す。まだ店内のざわめきが耳に残っているのか、肩が小さく震えていた。
「……うち、来る?」
言ってから宗田は少しだけ息を呑んだ。
軽い誘いのつもりではない。唯を落ち着かせたい、それだけだった。
一瞬だけ唯の目が見開き、視線を落とす。
「……いいんですか?」
店の前の空気は、昼間より冷たく感じた。
あれだけ暑かった空気は温度が感じられない。だけど、自然と汗だけが頬を垂れ地面に落ちた。
黒い小さい染みは音もなく広がり、今の二人の心のように黒い影となった。
少しばかり時間をおいて、唯は顔をあげる。
宗田を見つめる瞳は、落ち着きなく至る所を見ている。
「……お願いします」
そう言った唯の声は細く、触れれば消えてしまいそうだった。
「それなら、行こうか」
唯の歩幅はいつもより小さく、靴音も控えめだった。
半歩後ろを歩く彼女に「大丈夫」と声を掛けようとしたが、喉の奥へとし返された。
世界が遠くに感じられた。車の音に人の話し声、そのどれにも膜が張られたように二人が異物となったように感じられる。
アスファルトを歩く音が異様に反響する。
どうにも世界がおかしく感じられ、心の底がざわりと震えた。
コツンコツンと階段を上ると、足が金属の音を鳴らす。
「着いたよ」
静寂の世界は唐突に終わりを告げた。
「あ……はい」
唯は俯きながら視線だけを宗田に向ける。
「中に入ろうか」
ギィッとした扉のきしむ音。
唯を部屋の中へと案内する。




