2節「ラ・シレーナ」
帝都に着いたのは、雨の降る夕暮れだった。
城壁は高く、街路は広く、冷たい石造りの建物がどこまでも続いていた。道には馬車が溢れ、商人が声を張り上げる。人間の出す生活音が四方から聞こえた。私は荷馬車の隙間から、その光景を眺めていた。
かつて夢にまで見た都だった。母に買ってもらった地図の上で、幾度となく指を滑らせた。宮殿には黄金の天井があり、広場には大理石の噴水があり、貴婦人たちは毎夜舞踏会に出かけるのだと聞いていた。
実際、帝都は美しかった。
雨に濡れた石畳には街灯が映り、運河には色とりどりの小舟が浮かんでいた。すれ違う馬車の窓からは、毛皮をまとった婦人や、立派な帽子をかぶった紳士の姿が見えた。
───こんな形で、来るつもりじゃなかったんだけど。
荷馬車は大通りを離れ、細い路地へ入った。
大きな石門をくぐり、やがて、赤い煉瓦造りの大きな屋敷の前で止まった。門には鉄の蔦が絡み、窓には深緑の鎧戸がついていた。玄関の上には、金色の薔薇をあしらった看板が掲げられている。
「随分と遅かったじゃないか」
声とともに扉が開くと、女が一人現れた。年の頃は五十ほどだろうか。濃紺の衣をまとい、豊かな髪を高く結い上げていた。耳には真珠が揺れ、指には幾つもの指輪が光っていた。
「雨で道が悪くなりまして」
「言い訳は結構」
「はは、手厳しいな」
女は荷馬車を見回し、舌打ちをする。値踏みする様子を隠しもしなかった。
「なんだ、いい女がいるって言うからわざわざ出てきてやったのに」
「まぁまぁまぁ、そう言わずに。上物もいますよ」
男はそう言って、私を前に引きずり出した。髪が巻き込まれ、思わず顔をしかめる。
「これが?」
「ええ。お話ししたとおり、良家の娘でして」
「良家の娘ねぇ」
「先の戦の…」
女は私の顎を持ち上げた。それから、頬についた泥を親指で拭う。
「痩せすぎたね。こんな骨ばった娘どうしろってんだい」
「食わせれば見違えますよ」
「どいつもこいつも同じことを言う…」
女は私に向き直り、両親は?と問うた。黙り込めば、顎を払い飛ばされた。
「高飛車だね」
「……恐らく両親ともに既にいないかと」
「だろうね。痩せぎすで高飛車、良家と言っても小国の貴族といったとこかね」
投げかけられる数々の侮辱。お前たちのせいではないか
、とも思うが、もう全部どうでもよかった。
「目は悪くない、か───いくらだい?」
「銀30枚でどうでしょう」
「ふざけんじゃないよ」
女は笑いもせずに言った。
「30払えば、もっとましな娘が3人買える」
「ですが、これほどの器量で、しかも教養がある娘は滅多に───」「教養なんて、ここで教えれば済むことさ」
「では、25枚で」
「16枚」
「それでは商売になりません」
「なら持って帰りな」
女は扉を閉めようとした。
「お待ちください!」
商人が慌てて声を上げた。
つい先日、銀貨11枚で買われたばかりだった。それが、今では30枚になっていた。ちょうど私と母が逃げる時に持っていた路銀が20枚くらい。逃げるために、母が大切にしていた食器や宝石類を質に出して捻出した金だった。
母もまた、若い頃からいい教育を受けた令嬢だった。大切な嫁入り道具、手放したかったはずもない。その後の逃亡生活も、身を切るように苦しかったことだろう。
人をなんだと思っているのだ───と怒りが拳にこもる。
「20枚」
「17枚」
「19枚でどうでしょう」
「18。それ以上は出さないよ」
女はそう言って、商人を見据えた。商人はしばらく考え、とうとう頷いた。
「……負けましたよ」
負けたと言った男の顔は、どう見ても負けたとおもっているようには見えなかった。
革袋が開かれた。
銀貨が数えられた。
私は二度目の売買を、黙って見ていた。
◇
女はここを、帝国一の高級娼館───ラ・シレーナと呼んだ。
娼館の中は、ひどく暖かかった。
廊下には絨毯が敷かれ、壁には風景画が飾られていた。天井からは硝子の灯りが吊るされ、どこからか甘い香の匂いが漂っていた。
私は女の後ろを歩いた。奥の部屋から笑い声が聞こえた。男の声もあった。扉が少し開いていて、絹の衣をまとった女が、長椅子に腰掛けた男の杯に葡萄酒を注いでいるのが見えた。
女たちは美しかった。
髪には真珠を編み込み、耳元には見たこともないほど大きな宝石が揺れていた。
男たちは笑い、女たちも笑っていた。貼り付けたような、薄気味悪い笑顔だった。
「何を見ているんだい」
女主人が振り返った。
「あれは……」
「ここの娘たちだよ。お前と同じさ───ほらお前はこっちだ」
女に促され、私は再び歩き出した。
階段を上がると、廊下の様子が変わった。絨毯はなくなり、壁の漆喰はところどころ剥がれていた。燭台の数も少なく、足元には冷たい石が露出していた。
女は突き当たりの扉を開けた。狭い部屋だった。寝台が四つ、壁際に並べられていた。小さな窓には鉄格子がはまり、床には水の入った桶が置かれていた。
「ここがお前の部屋だよ」
私は黙っていた。女はそれを見て、1度扉を閉じた。
「食事は朝と晩の二度。勝手に外へ出ることは許さない。呼ばれたらすぐに来ること。言いつけには従うこと。分かったね───返事」
「……はい」
「それから」
女主人は私を見た。
「ここでは、昔の身分は忘れな」
私は顔を上げた。
「お前がどこの家の娘だったかなんて、私も含めて誰も気にとめない。どうでもいい。王女だろうが、農民の娘だろうが、ここへ来れば同じことさ」
お前が商品として値打ちがあるうちは大事にする、とそう告げられた。
「そういえばお前、名は?」
答えたくなかった。こんな人間たちに名前を呼ばれるなんて、頭がおかしくなりそうだ。
「………まぁいい。そうだねぇ、お前は…リヴィアだ」
「え?」
「今思いついた。今日からお前はリヴィア。そう名乗りな」
自分の国では、聞かない響きの名前だった。そんな適当に決められるものなのか。
「返事は?」
「……はい」
女主人は満足げに頷き、帳面の17という文字に一本の線を引いた。上から羽でリヴィアと書き足す。
引かれたその線は、思いのほか真っ直ぐだった。
「今夜は休みな。明日から仕事を覚えてもらうよ」
「待ってください」
女主人が振り返った。
「何だい」
「私は、何をすればよいのですか」
女主人はしばらく私を眺め、それから、小さく笑った。
「まずは床でも磨いてもらおうかね」
扉がまた開かれた。押し込まれたと思えば、鍵の回る音がしてバタンと力なく扉が閉まる。入口の隙間から一筋の光が私の方まで伸びていた。閉じ込められた───そう思った。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
部屋には、ほかに二人の女がいた。
一人は寝台に腰掛け、もうひとりがその髪を梳いていた。
髪を梳いていた娘が私を見た。
「新入り?」
栗色の髪に、痩せ型で、少し灰色がかった瞳を持つ利発そうな娘だった。裾が汚れたドレスで、あちこち継ぎ接ぎだらけだ。
「名前は?」
「……リヴィア」
「私はカミッラ」
娘は櫛を置いた。
「そこ、空いてるわ」
指さした先には、窓際の寝台があった。私がそこに腰を下ろした瞬間、パチンと破裂音がした。
「手を止めるなカミッラ。時間が無いのに!」
「ごめんなさい姐さん」
「あぁ、痛い痛い!…はぁ、お前は本当に下手くそだね」
「ごめんなさい」
どうやらこの部屋には上下関係があるらしい。やな空気が周りを支配する。自分に矛先が向かないように、気配を消した。が
「おいお前」
「……」
「お前何座ってんだい。手伝え」
私に言われている、と気づくのに少し時間がかかった。女は私に道具箱から紅を取ってくるように言い、私は波風立てないように黙って従った。無駄な争いは避けたい。上下関係があるなら尚更。
「遅いんだよ。ほら、突っ立ってないで───」
私はたどたどしい手つきで、女に紅を施した。手が小刻みに震える。母に化粧も教わっておくべきだったな、と少し後悔した。
「はぁ?なんだいこれ下っ手くそだね!」
ラインはガタガタで、ムラもある。確かに申し訳なくなるぐらいの仕上がりだった。
「使えねぇ!」
女はそう言って私を突き飛ばした。突然のことで受け身も取れず、寝具の角に頭をぶつけた。
「うっ……」
「ったく、ノヴィツィアのくせに。マダムももっとマシな見習いを寄越せよな。…ってか汚いね。それで布団に上がったら承知しないからね!」
女はカミッラに化粧をやり直してもらったあと、ブツブツ文句を言いながら部屋を後にした。
「ごめんねぇ…姐さん最近ちょっと気が立ってて」
「あなたのお姉様なの?」
「え…?あー、いやそういう訳じゃないんだけど」
マダムが何も教えてくれてないのね、とカミッラは言う。
「マダム?」
「ここの女主人だよ。マダム、マダム・コルネリア。ここに来るまでに会わなかった?」
「……連れてきてもらった人が、そうかも」
「マダムに直接買われたのね。いいなぁ。きっと出世するよ。フィオーレや…プリマ・ローザだって夢じゃないかも!」
「プリマ……ローザ?」
「あぁ、ごめんここではね───」
カミッラは改めて、ここがどういう場所なのかを教えてくれた。高級娼館、『ラ・シレーナ』。国に認められた合法的な花街に位置する、帝国1とも名高い娼館らしい。出入りするのは貴族や高級官僚、果てには王族が顔を出すこともあるという、所謂大人の社交場。マダム・コルネリアが言っていたことは、身内の贔屓目ではないのだろうと察した。娼館では、様々な理由を抱えた女たちが働いている。口減らしで売られてきた者や家族を助けるために奉公している者、そして私のような訳ありの没落貴族もいるとかいないとか───。
「その中でも最高位に君臨する娼婦を、『プリマ・ローザ』って言うの。その他にもいくつか階級があって、売れると自然と上がるけど、人気が無くなると落ちていくの。姐さんは最近カンタータから落ちそうになってて…それで気が立ってるの」
「カンタータ…」
「1人でお客を取れる、1人前の娼婦の称号だよ。私たちはノヴィツィア。見習いってとこね。ノヴィツィアはカンタータ以上の娼婦のお付になって、身の回りの世話をしながら勉強するのよ」
雑用係の間違いではないか、と私は思った。少なくとも先程の女の態度は、私たちに何かを教えるものではなかった。
「よし、じゃあまずは……お風呂かしらね」
カミッラは私の手を引いて部屋を出た。
その夜、私は久しぶりに暖かいお風呂に浸かることができた。カミッラは右も左もわからず、心身ともに弱りきった私を丁寧に洗ってくれた。それなのに、後から冷水のかかるのを待つ様な不安を私は拭うことができなかった。
◇
ラ・シレーナの朝は、帝都のどの家よりも遅かった。
東向きの窓には厚い天鵞絨の帳が下ろされ、正午を過ぎても廊下は薄暗かった。夜通し焚かれた香は冷えた空気の底に沈み、薔薇の甘さに、葡萄酒と蝋の燃え残った匂いが混じっていた。時折、どこかの部屋で水差しの倒れる音がした。眠りを妨げられた女が悪態をつき、また静かになった。
館が目を覚ますのは、午後の鐘が三つ鳴る頃だった。まず下働きの娘たちが、窓を開けて回った。昼の光が差し込むと、夜のあいだに隠されていたものが、少しずつ姿を現した。
絨毯に染み込んだ葡萄酒。長椅子の下に転がった真珠の耳飾り。卓上に残された果物の皮。絹の寝具に散った紅い花弁。鏡の隅には指の跡がつき、暖炉には燃え残った手紙があった。
ノヴィティアの私たちや下働きの人間たちがそれらを片づけた。汚れた敷布を剥ぎ、杯を洗い、床を磨いた。花瓶の水を替え、しおれた薔薇を抜き取り、新しい花を挿した。割れた硝子は取り除かれ、破れた衣は縫い直された。
そうして夕刻になる頃には、館は再び、何事もなかったような顔を取り戻すのだった。
ラ・シレーナは、帝都の西に広がる花街の一角にあった。
淡い蜂蜜色の石で築かれた三階建ての館で、正面には半円形の露台が張り出し、鉄柵には蔦と百合の細工が施されていた。玄関を飾る二本の円柱は、遠い南方の島から運ばれた大理石だという。通りに面した窓には深紅の帳が垂れ、夜になると、その向こうに女たちの影が揺れた。
門には館の紋章が掲げられていた。
金の冠を戴いた一輪の薔薇。薔薇は帝国を象徴する国花で、愛と情熱のシンボル。
帝都の者で、その紋章を知らぬ者は少なかった。
もっとも、館の中に暮らす女たちは、誰一人として冠など戴いていなかったけれど。
夕刻になると、部屋を持たない女たちが化粧部屋に集まった。
そこは館の二階にある広い部屋で、壁一面に鏡が据えられ、窓辺には香油や白粉の瓶が隙間なく並んでいた。櫛には銀の細工が施され、化粧箱の蓋には螺鈿が嵌め込まれていた。天井から吊るされた硝子の灯が、鏡の中で幾重にも増えて見えた。女たちは鏡の前に腰掛け、互いの髪を結い、衣装を選んだ。
栗色の髪には真珠を編み込み、黒髪には金の飾り櫛を挿した。白粉をはたき、頬に紅を差し、首筋には薔薇水をつけた。部屋は女たちの薄がるいで満ちていた。
「その首飾り、どなたからいただいたの」
「昨夜の侯爵様よ」
「まあ、あの方ったら。先月は私に同じものをくださったわ」
「同じものですって?」
「ええ。石の色までそっくり」
女たちは笑った。別の鏡の前では、若い妓女が衣装を広げていた。
「あら、私があげたやつ着てくれるのね」
「どうかしら」
「綺麗よ。でも、もう少し胸元を開けた方がいいわ」
「そう?」
「今夜のお客様は、そういうのがお好きなの」
娘は頷き、鏡の前で襟元を直した。嘘である。今夜いらっしゃる伯爵様はそうしたあばずれのような姿は好まなかったはずだ。私はここに来て初めて、女の園というものを知った。美しく煌びやかだが、その内は打算と駆け引きに満ちていた。
私は部屋の隅で、何を言うでもなく使い終わった化粧道具を拭いていたのだった。
もう準備も佳境に差し掛かっていた頃、一人の女が入ってきた。
ルチアという名の妓女だった。黙って鏡台の前に腰を下ろす。細い三日月のような眉に、品のよい一重の瞳、小さく色の薄い唇。どことなく寂しげで、儚げな面立ちの人だった。いつもからよく喋る方ではなかったが、遅れてきた上に挨拶がないのは珍しかった。
他に手が空いている人も居なさそうだったので、私が付いた。すると、左の頬が腫れていた。どうやらこれの治療をしていて遅くなったらしかった。
髪を梳いていた隣の女が、鏡越しに彼女を見た。
「あら、どうしたの」
「昨夜、少しね」
ルチアは笑った。笑ってはいたが、その目には悲しみの色が宿っていた。
「お客様が酔っていらして」
「まあ、災難だったわね」
「ええ」
それきりだった。娼婦お互いに深入りしない。
ルチアは引き出しから白粉を取り出し、腫れた頬に塗り重ねた。しかし何度か重ねても、赤みは消えなかった。隣にいた女が、自分の化粧箱から小さな瓶を取り出した。
「これを使いなさい。青痣によく効くの」
「ありがとう」
「今夜も同じ方?」
「ええ」
「なら、気をつけなさいね」
ルチアは頷いた。
誰かが窓を閉めた。
部屋にはまた、香油の甘い匂いが満ちた。
夜のラ・レシーナは、昼とはまるで別の建物だった。
すべての燭台に火が灯され、広間には楽師が並んだ。銀の杯には葡萄酒が注がれ、厨房からは焼いた肉や香草の匂いが漂った。階段には花が飾られ、絨毯には香粉が撒かれた。
門前には次々と馬車が止まった。貴族の紋章を掲げたものもあれば、目立たぬよう紋章を覆ったものもあった。従者たちは主人を降ろすと、馬車を通りの奥へ移した。
訪れる男たちは、誰もが立派な身なりをしていた。大粒の宝石を指にはめた商人。軍服の胸に勲章を並べた将軍。聖職者のような黒い衣をまとった、学者然とした老人。
館に入ると、彼らは一様に声を和らげた。女たちの手を取り、詩を口ずさみ、さも古くからの恋人であるかのように振る舞った。廊下では竪琴が鳴り、広間では女たちが踊った。いつも笑い声が絶えることはなかった。
けれど、その夜が明ければ、客は皆、それぞれの家へ帰っていった。
妻の待つ屋敷へ。
子どもたちの眠る寝室へ。
あるいは、国政を論じる議場へ。
女たちは扉の前で彼らを見送り、最後の馬車が角を曲がるまで微笑んでいた。
そうして門が閉じられると、ようやく高く真っ赤なヒールを脱いだ。
ある者はその場に腰を下ろし、ある者は何も言わず自室へ戻った。
夜、硝子が割れる大きな音がして私は飛び起きた。念の為に音の方を確認しに行くと、階段の踊り場では、若い妓女が一人、外した耳飾りを掌に載せていた。ルチアだった。
片方の留め金が壊れ、耳朶から細く血が流れていた。
「また引っ掛けたの?」
通りかかった女が尋ねていた。
「ええ」
「マダムに見つかる前に直しておきなさい」
ルチアは頷き、耳飾りを握りしめた。
私はその傍らへ行き、床に落ちていた小さな真珠を拾い、彼女に渡した。
「ありがとう」
ルチアは言った。
それから私の手に、血のついた真珠をもう一つ載せた。
「これもお願い。留め金が見つからないの」
彼女の部屋を覗くと、硝子の杯が粉々に砕け散っていた。この中で探すのは至難の業だな、と思った。
「お時間を頂ければ」
「えぇ、お願い」
私が部屋を掃除しながら留め具を探していると、そこへ騒ぎを聞きつけたマダムがやって来た。
「はぁ」
彼女は室内を見渡した。
「また硝子を割ったのかい」
ルチアは俯いた。
「申し訳ございません」
「怪我は?」
ルチアは小さく頷いた。コルネリアは使用人に布と水を持ってくるよう命じた。そして、床に散らばった破片を見下ろした。
「この杯、高かったんだよ」
その夜、ルチアはマダムの部屋に呼ばれた。
翌朝、彼女の名は出勤の帳面から消えていた。
病に伏せたのだという者もいた。
別の館へ移されたのだという者もいた。
誰も確かなことは知らなかった。
ただ、割れた杯の代金だけが、彼女の借金に加えられていた。
その頃、洗濯場では一人の娘がよく働いていた。
名をマルタといった。私より二つ年上で、笑うと片方の頬にえくぼができた。北方の村から売られてきたのだという。
彼女は仕事の合間によく歌を歌った。私は知らない言葉の歌だった。
「何の歌ですか?」
ある日、私が尋ねると、マルタは少し考えた。
「子守歌よ」
「誰の?」
「母さんが歌ってくれたの」
彼女は笑った。
「妹がいるの。まだ小さいんだけど、私がいないと眠れないのよ」
私は濡れた敷布を絞りながら、彼女の話を聞いていた。
「いつか迎えに行くんだ」
「ここを出られるの?」
「お金が貯まればね」
マルタは小さな木彫りの鳥を見せてくれた。翼の短い、不格好な鳥だった。
「妹がくれたの」
彼女はそれを大切そうに手のひらへ載せた。
翌月、マルタは一人の貴族に買われた。その貴族は遠方に領地を持つ男で、館を訪れるたびに彼女を指名していた。
ある晩、マダム・コルネリアがマルタを呼び出した。
翌朝、彼女の寝台は空になっていた。木彫りの鳥だけが、枕元に残されていた。
「マルタは?」
私が尋ねると、掃除係の女が答えた。
「昨日、お屋敷へ引き取られたよ」
「荷物は?」
「必要なものは持っていっただろうさ」
私は鳥を拾い上げた。
「これは?」
「何それ。捨てといて」
女は敷布を剥がし、新しいものを広げた。
「今夜、新しい娘が来るからね」
私は木彫りの鳥を手に持ったまま、しばらくそこに立っていた。後からマルタがこの身請けを嫌がっていたとカミッラが教えてくれた。
窓の外では、雨が降っていた。
このようにラ・シレーナでは、人がいなくなることは珍しくなかった。
ある女は裕福な商人に引き取られ、ある女は病を得て地方へ移された。年を重ねて客がつかなくなった者は、別の館へ売られた。そのたびに寝具が替えられ、化粧箱が片づけられた。
しばらくすると、新しい娘がやって来た。同じ鏡の前に座り、同じ白粉を使い、同じ客のために髪を結った。
私はいつの間にか、去っていった女たちの名前を覚えきれなくなっていた。
ある朝、私は二階の客室で、破れた敷布を取り替えていた。
寝台の下に、白い絹の手袋が片方落ちていた。
小さな手袋だった。指先には、細い金糸で花の模様が刺繍されていた。
私はそれを拾い、しばらく眺めた。
母が昔、私にくれた手袋に似ていた。
あの手袋はどこへ行ったのだろう。
屋敷が焼けたとき、一緒に燃えたのかもしれない。
私は絹の手袋を畳み、ほかの忘れ物とともに銀の盆へ載せた。
廊下を歩いていると、向こうからマダムがやって来た。
「リヴィア」
「はい、マダム」
「今夜は忙しくなる。広間の銀器をもう一度磨いておきなさい」
「かしこまりました」
マダムは私の持つ盆に目を留めた。
「…その手袋」
「客室に落ちていました」
「そう」
彼女は手袋を取り上げた。
「これはもう、いらないね」
そう言って、傍らの屑籠へ落とした。私はそれを見ていた。
「何をしている。早くお行きな」
私は頭を下げた。
階段を下りる途中、広間から竪琴の音が聞こえた。母が私に教えた曲だった。音を間違えるたび、母は私の手を叩いた。私は幾度となく、その手を振りほどいて逃げ出した。
今なら、最後まで弾けるだろうか。そんなことを考えた。
広間には、夕暮れの光が差し込んでいた。磨き上げられた銀の燭台が、窓辺にずらりと並んでいた。
私は一つを手に取り、布で磨き始めた。
やがて陽が沈み、館の灯がともった。
今夜もまた、客が来る。
女たちは髪を結い、紅を差し、鏡の前で微笑む練習をしていた。
どこかの部屋で、誰かが笑っている。
どこかの部屋で、誰かが泣いている。
そしてラ・シレーナには、今夜も真紅の薔薇が届けられるのだった。
◇
私が逃げ出したのは、ラ・シレーナに来て2ヶ月目のことだった。
その夜も館では宴が催されていた。大広間には楽師が招かれ、葡萄酒の瓶が次々と空になった。客たちの笑い声に混じって、女の甲高い声がときおり響いた。
私は厨房で銀器を洗っていた。昼間から降り続いていた雨は、夜半になってようやく上がったらしい。裏口の小窓からは、湿った石畳が街灯を映しているのが見えた。
使用人たちは皆、宴の支度に追われていた。
料理人が私に皿を運ぶよう命じたとき、私は返事をしなかった。
その代わり、誰も見ていないのを確かめて、裏口の閂を外した。
扉は驚くほど簡単に開いた。
私は靴を片手に持ち、外へ出た。
背後では、まだ竪琴が鳴っていた。
帝都の夜、花街は驚くほど明るかった。
大通りには街灯が並び、娼館からは陽気な歌声が漏れていた。馬車が石畳を駆け抜け、酔った男たちが肩を組んで歩いていた。
私は人目を避けて路地へ入った。細い道をいくつも曲がり、橋を渡り、また走った。靴底が石に当たる音が、ひどく大きく聞こえた。息が切れ、胸が痛んだ。何度か立ち止まっては振り返ったが、追手の姿はなかった。
やがて家並みが途切れ、小さな広場に出た。
中央には古びた噴水があり、その向こうにはここに売られた時に通った石門が見えた。
「どうした、お嬢さん」
門番に見つかった。私は逃げようとしたが、身体がもう動かなかった。
「お願いです。ここを通してください」
門番は私の身なりを眺めた。信心深そうな、柔和な青年だった。
「お前は娼婦だろう」
「……違います」
「ご両親は?」
「死にました」
門番は小さく十字を切った。
「そうか」
私は門番の衣の裾をつかんだ。
「何でもします。もう、耐えられないのです」
「落ち着きなさい。どこから来た」
私はしばらく黙っていた。
「……ラ・シレーナです」
門番の表情が変わった。
「許しは?」
「いいえ」
「では、通せない」
門番は私の手をそっと外した。
「それがこの街の決まりだ」
「でも、私は───」「世の中には守らねばならない秩序というものがあるんだ」
門番は穏やかに続けた。
「まずは戻りなさい。悔い改めれば、きっとお許しいただける。私が捕らえることになる前にここを去れ。自分で戻った方が罪は軽く済む」
私は門番を見つめた。背後では朝の礼拝を知らせる鐘が鳴っていた。
「神様も、そうおっしゃるのですか」
「………あぁ」
私は高くそびえ立つ石門を見た。奥には金色の祭壇があり、何本もの蝋燭が燃えていた。
しばらくして、私は小さく頭を下げた。
「失礼しました」
そして、来た道をゆっくり引き返した。
娼館に戻ると、近くの路地でで二人の男に腕をつかまれた。
「随分と探したぞ」
私は男の手を振りほどこうとした。
「離して!」
「大人しくしろ」
男は私の腕をねじり上げた。その力強さに私は叫び、暴れ、男の手に噛みついた。
次の瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
石畳に膝をついた。
男は血の滲んだ手を振りながら、悪態をついた。
「この小娘が」
私は髪をつかまれ、立たされた。
通りには人がいた。果物を売る女がいた。荷車を引く男がいた。使いばしりの小僧もいた。
何人かが足を止め、こちらを見た。
けれど、誰も何も言わなかった。
男が私を連れて行こうとすると、人々は道を空けた。私はその間を歩かされた。
露店の軒先には、瑞々しい林檎が並んでいた。ひどく赤い、品のない林檎だった。
ラ・シレーナへ戻ると、私は地下室へ連れて行かれた。
薄暗い階段を下りた先には、石造りの小部屋が幾つか並んでいた。湿った壁には苔が生え、床には藁が敷かれていた。
窓はなかった。
男は私を壁際に立たせた。
「逃げた娘がどうなるか、知らなかったのか」
私は答えなかった。男は細い鞭を手に取った。
「10だ。マダムのご命令だからな」
私は歯を食いしばった。
最初の一打で、背中が焼けるように熱くなった。
二打目には膝が折れた。
三打目からは、数えることをやめた。
石壁のどこかで水が滴っていた。
鞭が振り下ろされるたび、その音が途切れたように聞こえた。
終わる頃には、立つこともできなくなっていた。男は鞭をしまい、私を床に残して出ていった。
私は藁の上に横たわった。背中に衣が貼りつき、身じろぎすると、痛みが走った。涙だけは流すまいと、必死にこらえた。
しばらくして、階上から音楽が聞こえてきた。竪琴だった。私はその旋律を知っていた。
母が好んでいた曲だった。指使いを間違えるたびに、母は私の手を叩いた。私はそのたびに腹を立て、もう弾かないと泣いた。あれほど嫌っていた手習いだったのに、その音色に私思わず泣いた。
冷たい床に頬をつけ、曲が終わるまで、そこにいた。
◇
それから3日後の午後、私はマダム・コルネリアに呼び出された。
軟禁から解放され、部屋から出ると、陽の光が目に痛かった。階段を上るのにも時間がかかった。背中の傷はまだ塞がっておらず、薄い衣が触れるたびに痛んだ。
初めて入るマダムの執務室には、薔薇が飾られていた。窓辺には小鳥の籠が吊るされ、金色の羽を持つ鳥が一羽、止まり木に留まっていた。
マダムは机に向かい、帳簿をつけていた。
「お入り」
私は扉の前に立った。彼女は顔を上げなかった。
「歩けるようになったか」
「……はい」
羽根ペンが紙の上を滑った。
「ずいぶん手間をかけさせてくれたね。人を二人出して、半日も探させた」
私は黙っていた。
「その分のお金も、お前の借金に加えておくからね」
一通り書類に記入した後、マダムははようやく顔を上げた。
「ところで、どこへ行くつもりだった?」
「……どこまでも」
「どこまでも?」
マダムは鼻で笑った。
「ここでなければ」
「それで、行く当てなんかあったのかい」
「ありません」
「お金は」
「ありません」
「知り合いは」
「……おりません」
彼女は再び帳簿へ目を落とした。
「それで、どうやって生きるつもりだったんだ。石門すら出られない見習いのくせに」
私は答えられなかった。
しばらく沈黙があった。窓辺の小鳥が、短く鳴いた。
「お前が思うほど甘くないんだよ」
マダムは淡々と言った。
「逃げれば自由になれると思ったか?でも、外へ出たところで、お前に食事を与えてくれる人がいるわけではない。寝床を用意してくれる人もいない。お前がどこの貴族の娘だったかなんて、誰も興味を持たない」
私は拳を握った。
「……知っています」
「いいや。お前は何も知らない」
私は顔を上げた。その瞬間、抑止できないほどの怒りに駆られていた。
「……何も知らないですって?父は殺されました。母も死にました。私の国は滅びました。家も、土地も、何もかもなくなったんです。私は……私は何もしていないのに!!」
マダムは呆れたように目を伏せた。
「どうして私が売られなければならないのですか。どうしてあの男たちは、私の顔を見て笑っていられるのですか。どうして、誰も───」
喉が詰まった。私は一度唇を噛み、続けた。
「どうして、誰もおかしいと思わないのですか」
マダムは椅子に腰掛けたまま、私を見ていた。
「この館の女たちも、そうです。殴られても、傷つけられても、何もなかったように笑っている。昨日まで隣で寝ていた娘がいなくなっても、誰も気にしない。どうしてですか」
私の声が震えた。
「男たちは好きな女を買って、飽きれば捨てる。女たちは買われるために着飾って、笑って、互いに争って……。そんなことのために、私たちは生まれてきたのですか」
マダムは何も答えなかった。
「私は、嫌です」
言葉が止まらなかった。
「こんなところで一生を終えるなんて、嫌です。誰かに買われて、飽きられて、捨てられるなんて。私は——」
「お前、何か勘違いしてないかい?」
マダムの威圧に思わず黙る。這い出でるような低い声を受け、鳩尾の奥に鈍痛を感じた。
「一生?ふざけんじゃないよ。ここは帝国1の娼館だ。今売れてる女達だって、あと2、3年もすれば一瞬で川べりで二束三文で体を売り続ける女に成り下がる───いいかい?世の中にはね、売られる値打ちすらない女がごまんといるんだ。年を取った女、醜い女、病気の女。そういう女がどうなるかお前は知ってんのかい?」
私は答えなかった。
「街の裏路地に立って、酔っ払い相手に銅貨をねだるのさ。それもできなくなれば、鼠の死骸と一緒に溝へ捨てられる。誰も名前なんか覚えちゃいない。死んだところで、墓のひとつも建たない」
マダムの葉巻の先が赤く燃えた。
「それに比べて、お前はどうだい。毎日温かいものを食べて、清潔な寝台で眠って、絹の服まで着せてもらっている。お前がこの前割った香水瓶ひとつで、外の女ならひと月は食っていけるんだよ」
「そんなもの、望んでいません」
「望んでいない?」
マダムは初めて声を荒らげた。
「贅沢なことを言うんじゃないよ。腹を空かせたことのない人間ほど、食べ物に文句をつけるものさ」
私は顔を上げた。
「私が何を失ったか、あなたに分かるのですか」
「分からないね」
あまりにもあっさりとした返事だった。
「分かる必要もない。お前がどんな家に生まれ、どんな暮らしをしていたかなんて、ここじゃ何の役にも立たないんだよ。王女だろうが乞食の娘だろうが、男が金を払えば同じ寝台に上がる。それがこの街の決まりだ」
「それを、おかしいとは思わないのですか」
「思ったところで、何が変わる?」
マダムは煙草を揉み消した。
「お前はまだ、自分が不幸の底にいると思っているようだね。だがね、リヴィア。お前の足の下には、まだ何百、何千という女がいるんだよ。お前が嫌がって捨てる暮らしを、喉から手が出るほど欲しがっている女たちがね」
彼女は私を見据えた。
「この館に入ってから、お前が飢えたことは一度でもあったかい。寒さに震えて眠った夜は?客の前に出せないほど殴られたことは?ないだろう。誰のおかげだと思っているんだい」
「それは、お前たちが私を売るために───」「当たり前じゃないか」
マダムは私の言葉を遮った。
「慈善事業じゃないんだよ、ここは。お前を養うのに金がかかる。服にも、食事にも、手習いひとつにもね。お前が一文も稼がないうちから、うちは随分と金を使っている。それでも足りないと言うのかい?」
私は握りしめた拳をほどけなかった。
「お前は自分が奪われたものばかり数えている。けれど、自分に与えられたものを数えたことはあるのかい。お前がこの街でどれだけ恵まれていることか…」
マダムはゆっくりと立ち上がり、私の顎を持ち上げた。
「それを何だい。逃げ出して、捕まって、今度は生まれてきたことまで恨むのか。お前のために働いている女たちに、少しは申し訳ないと思わないのかい。随分と恩知らずなお姫様だこと」
その手を振り払いたかった。お前に私の何がわかる、お前たちが───と。
「同情が欲しいだけならさっさと出ていきな。もっとも、お前の借金が返せるならの話だがね」
「同情なんか……」
「じゃあなんなんだい。お前は何が欲しいんだ」
分からなかった。私は、どうしたい。何が欲しい?
「言ってみろ」
「私は…あたしは……っ」
_______________全部欲しい。
心が震える。その言葉を口にした時、マダムの口元が少し緩んだように見えた。
「全部……ねぇ」
「そうだ。何もかも全てが欲しい。私が奪われたもの───いやそれ以上が欲しい」
それが私の全てだった。復讐なんて生ぬるい。私の全てを奪った者たちに、そのことを心の底から後悔させてやりたかった。
「……悪くない目だね」
マダムは肩を震わせながら言った。最初にもそんなことを言われたな、とふと思い出す。
「教えてください」
「あぁ?」
「私は、どうすればいいのですか」
マダムは私の顔から手を離し、踵を返した。
「知るか、自分で考えるんだね。ただ───」
お前は、本当に運がいい───マダムはそう言って花瓶から薔薇をひとつ取り出した。花を撫で、香りを嗜むとそのまま一思いに握りつぶした。
「ここは帝国1の娼館、ラ・シレーナだ」
───ここは帝国1の娼館、ラ・シレーナ。
それが娼館の主、マダム・コルネリアの口癖だった。
初めは、ただの1娼館に過ぎなかったラ・シレーナをここまで盛り立てたことを誇りに思ってるのだろうと、ただそう思っていた。
しかし、全てを欲したあの頃の小娘に、あえてその言葉を繰り返した彼女の真意が、分からない私ではなかった。
◇
それから幾度か季節が巡った。
私がプリマ・ローザの名を賜ったのは、18の春だった。
ラ・シレーナにおいて、それは女に与えられる最高の栄誉であった。私の名は館の外へも広まり、やがて帝都の人々は、私の顔を知らずとも、私の好む色や香りを知るようになった。
私が髪に紅い絹紐を結べば、翌月には貴婦人たちがこぞってそれを真似た。気まぐれに袖を短く仕立てさせれば、宮廷の仕立屋は同じ注文に追われた。ある詩人は私の瞳を讃えて詩集を編み、ある侯爵はただ一度の面会を求めて、先祖伝来の宝石を手放した。
帝都の女たちは私のようになりたがり、男たちは私を自分だけのものにしたがった。私はそのどちらにも、さして関心がなかったが。
ただ、以前よりもよい部屋を与えられ、より高価な衣装をまとい、以前よりも多くの人間が私に頭を下げるようになった。
マダムはそれを出世と呼んだ。
私も、そういうことにしておいた。
それから、カミッラは相変わらず私の傍にいた。
彼女もとうに一人前の娼婦となり、客を取れるようになっていたはずだが、私の髪を結う役目だけは誰にも譲らなかった。
毎朝、鏡の前に座ると、彼女は決まって私の髪に櫛を通した。
「私のことはもういいのよ。カミッラ。あなたじゃなくても、他のお付を食わせるぐらいの甲斐性はあるつもりだわ」
「知ってるよ。でも、他の子じゃあきつく結いすぎてしまうでしょう」
櫛の歯が頭皮に触れるか触れないかの加減を、彼女は誰よりもよく心得ていた。私がいくら高価な櫛を買い与えても、彼女は昔から使っている黄楊の櫛を手放さなかった。
私は新しいものを買うよう勧めた時も、まだ使えますもの、とカミッラは答えた。私はそれ以上何も言わなかった。
ラ・シレーナには、捨てるには惜しいものがいくつもあった。使い古した櫛も、ほつれた手袋も、かつて誰かに贈られた安物の指輪も、女たちは大切に持っていた。
客から贈られる宝石は、翌朝には質屋へ売り払うくせに。
王宮から使者が訪れたのは、秋の終わりであった。
その日は朝からひどく雨が降っていた。中庭の噴水には落葉が浮かび、濡れた石畳に、窓から漏れる灯りがぼんやりと映っていた。
私は自室で、カミッラに髪を梳かせていた。そこへマダムが入ってきた。珍しく、扉を叩かなかった。
「リヴィア。お前に客だよ」
「今夜の約束はありませんけれど」
「客といっても、ね。…宮廷からの使いさ」
マダムは封書を一通、私の膝に置いた。厚い羊皮紙に、赤い封蝋。その中央には、翼を広げた双頭の鷲が刻まれていた。
見覚えのある紋章だった。
かつて私の故郷では、あの鷲が描かれた軍旗を見ただけで、人々は家の戸を閉ざした。故郷の橋を渡った時の光景がありありと浮かんでくる。
「来月、宮廷で大きな晩餐会があるそうだよ」
マダムは窓辺へ歩いていった。
「異国の使節やら、属国の王族やらを招いてね。宴の余興に、ラ・シレーナの踊り子を所望だとさ」
「それで?」
「お前を名指しだよ」
私は封書を開いた。
───皇帝陛下の御前にて、舞を披露する栄誉を賜りたく。
そのような文句が、ひどく丁寧な筆跡で綴られていた。
私は思わず笑った。
「娼婦を宮殿へ招くのに、踊り子とは随分な言いようね」
「宮廷には宮廷の体面があるのさ。貴婦人方の前で、娼館の女を呼びつけたとは言えないんだろうよ」
マダムは肩をすくめた。
「もっとも、お前が踊るとなれば話は別だ。今じゃ公爵夫人までお前の真似をしているんだからね。どんな顔をするか、見ものじゃないか」
私は招待状を折りたたんだ。正直、気が乗らなかった。
「断っても?」
「構わないよ」
マダムはあっさり答えた。
私は封書を机の上に置いた。
「ならば、───お断りします」
「そうかい」
それきり、マダムは黙った。雨が窓を叩いていた。
しばらくして彼女は手袋をはめ直し、鏡に映る私を見た。
「お前はまだ、故郷を覚えているのかい」
私は膝の上で指を重ねた。
「……ええ」
「そうかい」
彼女は、それ以上尋ねなかった。
あの人は、昔からそうだった。他人の不幸を慰めることはしなかったが、面白半分に覗き込むこともなかった。
「まあ、よく考えておおき。宮廷に顔を売る機会なんて、そうそうあるものじゃないからね」
そう言って、マダムは部屋を出ていった。
扉が閉まると、カミッラが私の髪を梳く手を止めた。
「お断りになるの?」
「そのつもりよ」
「そう」
彼女は再び櫛を動かし始めた。その顔は少し残念そうにも見える。私は鏡に映った彼女の顔を眺めていた。
「カミッラ」
「うん?」
「あなたは、宮殿へ行ってみたい?」
彼女は少し考えた。
「ええ。一度くらいは」
「どうして?」
「どれほど美しいところなのか、見てみたいの」
私は思わず振り返った。
「美しい?」
「聞いたことがあるの。天井には金箔が貼られ、床は一面の大理石で、冬でも庭園に花が咲くのだとか。食卓には海の向こうから運ばれた果物が並ぶそうよ」
カミッラは恥ずかしそうに笑った。
「一度だけでも、見てみたいと思わない?」
私はしばらく彼女を見つめていた。カミッラは私より年上だったが、宮殿どころか、帝都の外へ出たことさえなかった。私が幼いころ当然のように歩いていた大理石の廊下も、彼女にとっては物語の中の景色なのだ。
そのことが、妙に胸に残った。
「……そうね」
私は鏡へ向き直った。
「一度くらい、見てもいいかもしれないわね」




