1章 1節 「亡国」
全て、奪ってやろうと思った。
私が奪われたもの、いやそれ以上を───。
◇
国がひとつ、滅びた。
当時、大小様々な国が覇を争い、ひしめき合っていた。それぞれ互いの領土を欲し、諸侯は王冠を戴く機会を窺い、昨日結ばれた盟約が翌朝には破られることも珍しくなかった。国境は地図に描かれるよりも早く移ろい、ある国の勝利を告げる鐘が鳴る頃には、別の国で敗戦を知らせる鐘が鳴っていた。婚姻は剣に代わる武器となり、信仰は戦の大義となった。ひとたび王が倒れれば、血を分けた兄弟さえも玉座を争い、幾百年と続いた王家が一夜にして絶えることもあった。───負ければ塵一つ残らない。後の世の書物の1行でも飾れたのであれば、幸福であろう。
それでも人々は種を蒔き、子を育て、明日もまた同じ国に暮らしているものと信じて眠りについた。
私の故郷も、そうした国々の一つだった。
だから、これはどこにでもある、ありきたりな話だ。
美しい国だった。
春には丘一面に白い花が咲き、夏には川の水が澄み、秋には市場に林檎が並んだ。冬は短く、雪の降る日は滅多になかった。家々の屋根は赤く、夕暮れになると鐘楼から祈りの鐘が聞こえた。しかし、それだけのこと。
そんな中でも貧しい者は飢え、富める者は奪い合い、貴族たちは狭い領地をめぐって絶えず諍いを起こしていた。父は隣家の当主を毛嫌いしていたし、母は毎年の収穫高に頭を悩ませていた。私は退屈な田舎暮らしが嫌で、いつか都に出て、絹の衣を着て暮らすことばかり考えていた。
「こら!戻りなさい!!」
外へ出ようとする私の腕を、母は掴んだ。
「痛い!」
「どこに行く気?まだ手習いがあるでしょうに!」
「あんなの何の役にも立たないわ」
「これ以上困らせないで頂戴!いいですか?良家に嫁ぐには───」「興味ないわ。」
母の手を振りほどき、私は屋敷を飛び出した。背後でまだ何か叫んでいたが、聞こえないふりをした。どうせいつもの小言だ。淑女たるもの、良家の娘たるもの。母の話はいつもそこへ行き着く。
私は淑女になどなりたくなかった。
少なくとも、父の知り合いの、腹の出た男に嫁ぐために詩を覚えたり、刺繍をしたりするような女には。
坂道を駆け下りると、市場は朝の賑わいに満ちていた。
焼きたてのパンの匂いがした。魚屋の主人が隣の店の女房と言い争い、荷車を引く男が道の真ん中で立ち往生していた。いつもと変わらない、退屈な光景だった。私は市場の端にある果物屋で足を止めた。店には青々とした野菜が所狭しと並んでいる。
「あら、お嬢様。また奥様と喧嘩かい」
店番の老婆が笑った。小さな頃から良くしてくれる、気前のいい人だった。
「喧嘩じゃないわ。意見が合わなかっただけよだって母様は、私の言うことを何にも聞いてくれないんだもの」
老婆は呆れたように首を振ると、籠から林檎を一つ取って私に投げた。
「ほら。食べてお帰り」
「ありがとう……お代は?」
「今度いただくよ」
私は林檎を受け取り、大事に抱えた。老婆はそれを見て安心したように目を細める。狭い国だ。私の家は男爵家だったが、皆私のことを実の子供のように可愛がってくれたし、それが当たり前だった。
「……ねえ、帝都に行ったことはある?」
「あるとも。若い頃にね」
「本当?」
「嘘をついてどうするんだい」
私は身を乗り出した。
「どんなところだった?」
「うーん……まぁ、人が多かったねえ」
「それだけ?」
「道が広くて、家が高くて、何もかも高かった。お前さんの好きそうな絹の服も、そりゃあ見事だったよ」
「やっぱり!」
「だけど、あたしゃ二度と行きたくないね」
「どうして?」
「人が多すぎるんだよ。隣で誰かが死んだって、気づきもしないんだから」
「そんなの、どこだって同じだわ」
「…そうかねえ」
老婆はそれ以上何も言わなかった。
私は林檎をかじりながら、市場をあとにした。道で買い食いなんて、母にバレたら面倒なことになりそうだがそんなこと気にする気分でもなかった。
川沿いの道を歩いていると、丘の向こうに白い花が咲いているのが見えた。春になると決まって咲く、名前も知らない小さな花だった。
子どもの頃は、よく母と摘みに来た。
花を編んで冠を作るのが好きだった。母はいつも私より上手で、私が拗ねると、自分の作った冠を私の頭に載せてくれた。───あの頃の母は、今ほどうるさくなかった気がする。
私は道端にしゃがみ、一輪の花を摘んだ。白い花弁は薄く、指で触れるとすぐに傷んだ。
こんなもの、帝都の貴婦人たちは身につけたりしないだろう。
あちらでは、黄金の髪飾りや、海の向こうから運ばれてきた真珠を使うのだという。
私は花を指先で弄び、やがて川へ投げ捨てた。水面を流れていく白い花を見送りながら、いつか必ずこの国を出てやろうと思った。
もっと広い世界があるはずだった。
もっと美しいものも、もっと面白いことも。
私の知らない言葉を話す人々がいて、見たこともない宮殿があって、そこでは王侯貴族が毎夜のように宴を開いているのだ。その中に、私がいない理由などないではないか───。
私は立ち上がり、衣についた草を払った。
遠くで鐘が鳴っている。昼を告げる鐘にしては、早い気もするが、そろそろ帰らなければ、母がまた怒るだろう。
夕食の席では父にまで小言を言われるに違いない。
私はうんざりしながら、屋敷へ向かって歩き出した。
そのときはまだ、明日も同じように母に叱られ、父に呆れられ、退屈な手習いを抜け出して市場を歩くのだと思っていた。
人が幸福だった日々を思い出すとき、決まって美しい出来事ばかりを並べたがるのは、なぜだろう。
私が今でも思い出すのは、母の怒った顔や、父の不機嫌な咳払い、果物屋の老婆の皺だらけの手といった、取るに足らないものばかりだ。
それらが二度と戻らないものになるなど、考えもしなかった。
あの春、確かに私は故郷を出たくて仕方がなかったのだ。
◇
「───この娘は?」
「金貨15枚でいかがでしょう?」
「馬鹿言え。足元見やがって」
薄汚い男が私の顎を持ち上げる。指先から、獣脂と煙草の臭いがした。
「ですがよくご覧下さい。上物ですし、噂によれば貴族の娘だとか」
「きぞくぅ?」
「ほら先の戦の…」
男たちの下卑た笑いに嫌気がさす。しかし抵抗する力もそんな気力もなかった。
男は私の頬に触れ、顔を左右に向ける。
「歯を見せろ。───おい、聞こえなかったか」
男の指に力がこもる。私はゆっくりと口を開いた。
「悪くねぇな」
「でしょう。まだ12です」
「言葉は分かるのか」
「少しばかり。もっとも、歳以外は何を聞いても答えませんでしたが」
「気位だけは高いというわけか」
私はじっと男たちの顔を見つめた。額の皺。左の頬にある傷。小指にはめられた翡翠の指輪。忘れてなるものか、と脳裏に焼き付ける。けれど、その名前を尋ねることすら、今の私には許されない。
「10だ」
「せめて13枚はいただかないと」
「11枚。それ以上は出さん」
「……仕方ありませんなぁ」
銀貨が触れ合う音がした。乾いた、小さな音だった。
銀貨11枚───それが私に付いた最初の値段だった。貧しい農家なら、ひと月ほど凌げるだろうか。母の大切にしていた銀の食器は、私が3人いないと取り戻せない。人の一生とは、案外その程度のものらしい。
「名は」
私は口を開きかけた。
父の名を、祖父の名を、その前の代から続く我が家の名を告げようとした。けれど、男は私の返事を待たなかった。
「まあ、いい。どうせしょうもねぇ貧乏貴族だろ」
男は私の腕を引き、荷馬車へ押し込んだ。家畜を積むような、粗末なものだった。私の名簿には名前すら記されず、ただ『11』と書かれていた。自分に値がつくということなど、考えたこともなかった。
荷台の隙間から、外が見える。遠くにあの白い花の丘が見えた。もう、見納めかもしれないその景色を、私はまた焼き付けた。
父は戦に出たきり戻らず、母は逃げる途中で死んだ。屋敷は焼かれ、領地は奪われ、私が生まれたときからそこにあったものは、ほとんど何も残らなかった。私の全てがこうも呆気ないものだとは、思わなかった。
「お母さん……」
声がする方を見ると、荷馬車には先客がいた。
年頃の娘が三人と、まだ幼い子どもが一人。誰もが汚れた衣をまとい、疲れ切った顔をしていた。私は一番奥に腰を下ろした。
向かいの娘が、絶え間なく泣いていた。
声を殺そうとしているらしかったが、ときおり喉の奥から奇妙な音が漏れた。両手で口を覆い、何度も母親を呼んでいた。
私は膝を抱えた。
母は死んだ。
逃げる途中の、名も知らぬ森だった。
あの人は最後まで私の手を握っていた。日が高くなる頃、その手が冷たくなった。
私は母をそこに残した。
墓も満足に作ってやれなかった。ただ、近くに生えた花を供えた。
どうせなら、あの白い花が良かったな、と思う。春になるとよく母と摘んだ花。私はいつも途中で飽きてしまい、母の作った花冠を欲しがった。母は根気強く、茎を折らぬように、一本ずつ絡めていくのだと教えてくれた、あの花が───。
馬車は最初の川を渡った。
橋のたもとには、緋色の帝国旗が掲げられていた。かつて、我が国の紋章があった所に。
橋を越えると、兵士たちが笑いながら酒を飲んでいた。農夫が畑を耕し、洗濯女が川辺で衣を叩いていた。
荷馬車はどんどん進んだ。夕方になり、道端の花が薄紫に染まった。向かいの娘は、泣き疲れて眠っていた。
私は膝の上に置いた手を見た。母によく似た手だった。
指が短く、爪の形までそっくりだった。楽器を引くのに苦労する手だと、母はそれをずっと気にしていた。
私は手を握り、衣の裾に隠した。




