20 想い馳せた場所
一度だけ、リディア様と喧嘩をしたことがある。
アリステリア公爵殿下の内弟子としてリディア様が迎えられるのにお世話係としてついてきて、ロメリアを訪れて4年ほど経った頃の話だ。
当時のリディア様は『ヴェスタリアの黄金』と謳われた才能とロメリアでの教育が噛み合ったのだろう、その才覚を爆発させてご自身の研究テーマに没頭しておられた。
それ自体はパラケルスの従者である私としても喜ばしいことだった。問題はご本人が加減というものを知らないところであった。
アリステリア公爵に与えられた研究室に閉じこもり、出てくるのはせいぜい図書館に用がある時くらい。
睡眠をとる時などは気絶したように机で寝るので本人が寝た後に就寝の支度を私がする始末であった。
リディア様は甘ったれで食事や間食、研究の小間使いにと、とにかく見境なく「コゼット! コゼット!」と呼ぶので私は24時間体制の壮絶な御守りを課せられる羽目になったのだ。
私も15歳やそこらの年で成人を迎えたとはいえまだまだ小娘であったのだから、ある日限界を迎えたのは自然なことだったと思う。
その時に泣きついたのが既にアリステリア公爵邸から出て寮で生活していたキアラだった。
事情を察するとキアラは私を匿い、アリステリア公爵とリディア様との関係を取り持ってくれた。
それをきっかけに、『特別生』としてロメリアの講義や図書館への出入りを許されていた私は僅かばかりの自由の身として初めて羽を伸ばしてみることにしたのだ。
オットー・クラフトという男に出会ったのもこの時期だ。
キアラの研究パートナーでもある彼は、物腰が柔らかく、賢く、それでいて芯が通った人物で、本当に好印象な人だった。
顔が好みのタイプだったのも、まぁ、あるとは思う。今思えば、ホームシックを併発していたのだろう私のような小娘は年上の頼りがいのある学者にコロッとやられた。
キアラに用意された部屋よりもむしろオットー先生の研究室にいる方が居心地が良かったので、「研究の手伝いをする」などと言っては入り浸ったのだ。
この時の私は、もう頭の中にはリディア様のことなどはなく、お花畑でいっぱいになっている有様であった。
興味のない魔法陣の講義をせがみ、彼の息遣いにも気を取られていた。
だけど、気持ちを伝えようと思ったことはなかったのだ。
恩人であるキアラが彼に向ける視線に特別なものがないのかをいつも勘ぐってしまっていたから。
私はキアラを尊敬していたのだ。
心の底からの尊敬であった。
オットー先生やアリステリア公爵殿下、リディア様に向けるよりもはっきりと強いものだ。
キアラ・アリステリアは信念の人だった。
アリステリアの家に生まれ天才たる姉に比較され続けてなお、本人は決して主流ではない、むしろ誰も目を向けないような研究に打ち込んでいた。
『ルサルカ病』、あるいは『ルサルカ脚』と呼ばれる庶民の間で流行った病の治療法を探していたのだ。
それは『貧しかった農村が豊かに』なるとしばしばみられる奇病で、四肢にしびれが起き、脚は水に引かれるように上がらなくなり、やがては衰弱して死に至る。
悪辣な国教会の司祭などは「神に与えられた分を超えた罰」などと語ったが、キアラはそのような言を聞くたびに激怒した。
「人が豊かになるのを神が罰されるはずはない。だから、学問は必ずこれを解決できるはずだ。」
キアラは口癖のようにそう語った。
私は心の奥で姉と慕っていたキアラの邪魔にだけはなりたくなかったのだ。
その思いに比べれば、実らない恋などなんのことはないものだった。
やがて時間が経ち、ついにリディア様の癇癪が限界を超え、私はロメリアの学生たちに頼み込まれてリディア様のもとを訪ねた。
学生たちにはリディア様が「コゼットに会えなくて寂しい!!」と暴れまわっていると聞いたものだから、少しは私がそばにいるありがたさに気づいて詫びの一つでもいれてくれるのかと思ったが、まぁ、そんなことは全然なかった。
リディア様に会うと、彼女は目に涙を溜めながら眉間に皺を寄せ、への字に曲げた口まで鼻水を垂らして、何も言わずに私をじっと見つめるのだ。
スカートなどは目一杯握りこんでしまって皺はもう取れないだろうと捨ててしまうほかないほどだった。
本当に甘ったれなこの方は自分からは謝れないから、私が謝るのをじっとこらえて待ったのだ。
この時リディア様は9歳の少女であったし、私がそうであったように平気なフリをしていてもホームシックになっていたのもあるのだろう。
貴族の令嬢とは思えぬその姿に私はもう全身の力が抜けて、しょうがないと諦めるしかなかった。
アリステリア公爵邸に戻って日常生活の世話をする代わりに研究の手伝いはしない、とそんな条件で「何も言わずに置いて行ってごめんね」と謝ったのだ。
リディア様はぷりぷりと一通りのお小言を言ってから私にしがみつき、お気に入りの服は鼻水と涙でグズグズにされてしまった。
それから少しの間は空いた時間でオットー先生とキアラの研究室を訪ねたがやがては足が遠のいてしまった。
忙しい、などと言い訳をしていたがそれまで3人で過ごしていた場所が二人の場所になってしまえば、関係性も変わってしまったのではないかと勘繰って怖かったのだと思う。
恋をするのも、愛するのも、一人の相手に向けられるものだと思っていたのだが、
きっと、私にとって『恋愛』とは、3人で過ごした『あの場所』を言うのだと思う。
キアラが研究をやめたことを聞いたのは、私が疎遠になってしばらくが経った頃であった。




