「徒労と失望」
ヒャクリキは広場に設置された石造りのベンチに、いかにも重そうに、どかりと腰を降ろした。
近くに座っていた中年男性と買い物帰りらしき母子が、ヒャクリキを見るなりさっと立ち上がって、そそくさと足早に離れて行く。
時刻は夕方、太陽は今にも地平線に飲み込まれようとしている。
夕焼けがドラセルオードの街を照らして、立ち並ぶ建物の表面には黄金色とぼんやりとした黒色とが貼り付いていた。
ヒャクリキの目の前を横切る通りを歩く人びとは家路を急いでいるのだろうか、それとも今から酒でも飲みに行くのだろうか?
いかにも気怠げに歩く者、仲間と数人で固まって歩く者、走り去る子供たち、ヨロヨロと片足ずつゆっくりと前に出しながら歩いていく老人。
老若男女、様々な人間がヒャクリキの視界の中を右から左、左から右へと流れて行く。
ヒャクリキの大きな体とボロ雑巾のような格好が物珍しいのか、目の前を歩く者たちの中には通りすがりに彼の方をチラチラと見て来る者が少なくない。
ただ、そういった者たちはその誰もが、ヒャクリキの顔を見た途端にまるで何か見てはいけない物でも見てしまったかのように、すぐに目を逸らして足の動きを早めるのだった。
そんな視線が全く気にならないほど、ヒャクリキは疲れ切っていた。
それは至極当然の事で、思い返せば冒険者組合で逮捕されてから、つい先ほど解放されるまで、丸二日はまともに食事をしていない。
さらにはほとんど眠る事さえできていなかった。
後ろ手に枷を嵌められて動く事を禁じられ、留置場の硬い床にじっと座り続けていた体は、あちこちの関節が油を切らした器械のように軋んでいる。
留置場に居た衛兵たちの、ヒャクリキに対する態度は酷いものだった。
運ばれて来た食事は目の前でこれ見よがしに床にぶちまけられ、何かと言えば檻の格子の隙間から棒を挿し入れて、反撃できないヒャクリキを小突き回すのだ。
さらにはヒャクリキが眠気に襲われてうとうとし始めると、バケツに汲んだ水を檻の外から浴びせて、彼が眠るのを何度も妨害して来た。
そのたびにヒャクリキは抗議の意思を視線に込めて睨み付けるのだが、絶対的優位に身を置いている衛兵たちは、彼に侮蔑と嫌悪の視線を向けるばかりで、嘲るような薄ら笑いを、誰も彼もがその顔に浮かべていた。
取り調べでは同じ事を何度も聞かれた。
「貴様は本当は何者なんだ?どこを根城にしている盗賊なんだ?」から始まり、ヒャクリキが過去にしていた仕事や、犯罪歴を事細かに、かなりしつこく聞かれ続ける。
ヒャクリキは何度も順を追って、傭兵稼業から足を洗った後に《ドラゴン・ベイン》に加入した経緯や、そこでやっていた仕事、そして戦闘にも参加していた事を説明した。
しかし取り調べを担当した執行官は、彼の話を全く信じようとしなかった。
むしろ執行官は苛立ちを隠さない態度で、「嘘を吐くな」「貴様が犯罪者なのはわかっている」などと、最初から決めてかかる様子でヒャクリキの言葉を聞こうとはしない。
終いには「《ドラゴン・ベイン》の名を騙るとは、厚かましいにも程がある」などと激高する始末だ。
結局のところ、今回の事件はあの冒険者組合の職員への軽い暴行の容疑に留まり、組合側から訴えられるなどという事も無かったので、ヒャクリキは何とかお咎めなしで解放されたのだった。
ヒャクリキは夕陽に焼かれる石畳を見つめながら、大きなため息を一つ吐く。
彼は腰を降ろした事を後悔していた。もはや立ち上がる気力さえ、微塵も湧いて来なくなっている。
ふと顔を上げ、通りを行く人びとを眺めながら、ヒャクリキは思う。
(この約1年半という時間は、一体何だったのだろうか?)
先が見えない刹那的な傭兵稼業から足を洗い、様々な仕事を転々とした後に冒険者チームの“従者”の仕事に就いたのは、それまでの人生とは違う「新たな生活」の基盤を作る、その元手となる資金を貯めるためだったはずだ。
しかし今こうして冷静に自分が置かれた状況を眺めてみれば、この1年半ヒャクリキがして来た事は「徒労」という言葉以外では表現しようの無いものだった。
資金を貯めるはずだったのに、今手元には一銭も残っていない。
一銭もだ。
そもそも“従者”の給金は期待していたほどの額では無かったし、毎月のようにダンジョンの攻略に付き合わされた際に受け取った臨時の報酬も、決して多いとは言えなかった。
それでもヒャクリキはそれらを酒に使ったり、チームのキャンプのあちこちで行われているダイスゲームなどの賭け事に興じるでも無く、娼婦を買う事さえも我慢しながら、コツコツと貯めては両替商で金の延べ棒に交換していた。
交換した延べ棒は鞄に仕舞って、いつも肌身離さず持っていた。行く先々の街に立ち寄った際などに銀行に預けようとしても、いつもヒャクリキは門前払いを食らってしまい、建物に入る事さえ許されなかったからだ。
その大事な鞄が、どこかに消えてしまっていた。
“従者”の仕事とダンジョン攻略と度重なる戦闘に追われる日々の中で、言い換えるなら命の危険と常に隣り合わせの地獄のような日常の中で、それでも多くを犠牲にしながら必死で貯めた数本の延べ棒を仕舞っていた、あの何よりも大事な、小さな鞄が。
ヒャクリキは大きな手で顔を覆う。
一体どうしてこんな事になってしまったのか。
一体、これからどうすれば良いのか。
あの大きなトカゲのような脅威生物と戦うまでは、鞄は確かにヒャクリキの腰に装着されていた。
つまりはあの場に居た《ドラゴン・ベイン》の誰かが持ち去った可能性が高い。
だからヒャクリキは何としても彼らを捜し出して合流しなければいけなかった。
“暗黒大陸”から出港する船に潜り込んでこの国まで戻り、道中は野生動物を狩ったり、襲って来た盗賊を返り討ちにして粗末な物資を剥ぎ取ったりしながら、どうにかこうにかこの街まで帰って来たのだ。
それなのに……。
チームの所在を知ろうとして訪れた冒険者組合で待っていたのはこの仕打ちだ。
もはや慣れっこではあるが、やはり冒険者組合でも、衛兵の詰所でも、留置場でも、ヒャクリキを待っていたのは嫌悪と侮蔑と悪意が込められた視線だけだった。
いつもの通り、彼を助けようとする者など、やはりどこにも存在しなかった。
冒険者組合が頼りにならないならどうするべきか?
何とかして王都まで行き、ヤツらを捜すか?
現実的にはそれしか方法が無い。
しかし……。
今のヒャクリキには、そうするだけの体力も、気力も、もはや残ってはいなかった。
路銀も無いのにどうやって王都まで行くと言うのか?
ヒャクリキは一度も王都まで行った事が無いので、どれだけの時間や費用が掛かるのか分からない。
道すがら盗賊の真似事でもして何とか凌ぐか?
その場合、もし街道の警備兵や街の衛兵に捕まったら、確実にそのまま縛り首を言い渡され、絞首台に送られるだろう。
王都に向かったとして、もしチームと行き違いになったら?
もし王都で運よくヤツらを見つけて鞄の在処を問い質したとしても、ヤツらはおそらくシラを切るはずだ。鞄が帰ってくる可能性は極めて低い。
そもそもヤツらが「こんな奴は知らない。ウチのチームのメンバーではない」などとまわりの者たちに言ったとしたら…………それこそまた衛兵が飛んで来るに違い無い。
ダメだ。どう考えてもダメだ。鞄の中に入っていた彼の財産が戻ってくる未来が、まるで見えて来ない。
何よりヒャクリキの今の疲れ切った頭では、まともにものを考える事すらもままならない。考える事自体が酷く億劫だった。
「ああ…………」
ヒャクリキはまた一つ、大きくため息を吐く。
この1年半は何だったのだろうか?そこに何の意味が有ったのだろうか?
1年半?いや…………それだけではない。
考えてみれば、今まで生きてきた時間こそ、一体何だったのか?何か意味が有ったのだろうか?
それなりの時間を必死に生きては来たが、この大きな体以外に、一体何を手に入れたと言えるのだろうか?
今のヒャクリキの中に残っているのは、戦士として生きてきた自負だけだ。
それだけが今のヒャクリキの存在と、ヒャクリキのカタチを弱々しく保つ支えとして、ここにポツンと残されている。
「嗚呼、ザラスよ…………俺はこれから一体、どうすれば良いのですか?……貴方は何故、何故あんな……あんな奇跡を…………この俺に…………」
どうやら日が沈んだようだ。あたりは薄暗くなり始めている。
闇に包まれて行く世界の中で、ヒャクリキは絞り出すように呟くのだった。




