苦悶
足に力が入らない。
通路を抜けたヒャクリキの眼前に、ある程度の距離まで伸びた地面がプツリと途切れた空間が現れた。
空間の地面の中央には、“首の無い女神像”が立っている。
歩き出そうとして通路の壁についていた手を離したヒャクリキは、バランスを崩して大きくよろめいた。
(ぐうっっ!!)
倒れてしまうのを防ごうとして反射的に足腰と体幹に力を込めた途端、ヒャクリキの腹部に、鈍い痛みと燃えるような熱が拡がる。
冒険者たちから距離を取ろうとして無理に走ったのが良くなかったのだろうか?
あの不可視の一撃を受けてから、腹部の痛みは酷くなる一方だ。
そして一撃によって体の中に埋まった“何か”。その“何か”は、まるでヒャクリキに苦痛を与える代金として、全身の力を奪って行くかのようだった。
(とにかく身を隠さなくては……)
ヒャクリキは空間内を見渡す。レンガや切り出された石で整えられていたあの大空間とは打って変わって、今いる場所はそのほとんどがむき出しの岩肌のままだ。
おそらく人の手が加えられていると思しき部分と言えば、通路からそのまま続く細い幅の石畳が、あの“首の無い女神像”まで、一直線に伸びているだけだった。
空間内のあちこちには、ヒャクリキの大きな体を十分隠せるほどの大きさの岩が鎮座している。その中の一つに目星を付けたヒャクリキは、そこへ向かって歩き始める……が、
(が……あぁっ!……クソっ!……酷く痛みやがる……)
襲ってきた痛みのあまりの酷さに、思わずヒャクリキは足を止め、ついには地面に片膝を着いてしまった。立ちあがろうとはするのだが、曲がった膝を伸ばせるほどの力が湧いて来てくれない。
痛みと熱の発生源である体に埋まったその“何か”は、間違い無く彼の内臓を傷付けていると思われた。
ヒャクリキの脳裏に、傭兵だった頃に見た野営地の光景が甦る。負傷兵がぎゅうぎゅう詰めで寝かされていた天幕の中で見た光景だ。
血に染まった粗布を体に巻いた負傷兵たちの姿と、彼らから漏れ出すあの呻き声が、脳内に甦って来る。
ヒャクリキが覚えている限りでは、腑を傷付けられた兵士はそのほとんど全てがそのまま助かる事無く、苦悶の中で命を落としていった。
腹に大穴が空いていたり、傷口から腸が飛び出したりしている兵士には、部隊に帯同する床屋も医者も、手を付けようとすらしなかった。運よく助かったのは、浅い矢傷で済んだ兵だけで、それらですらほとんどは結局のところ、傷口からの壊死や感染症で命を落としてしまうのだ。
やはりヒャクリキも、そうなるのだろうか。
(ふざけるな!……こんな……これしきの事で……くたばってたまるか!)
顔中に脂汗を吹き出しながら、ヒャクリキは四つん這いの体勢のまま、目当ての大岩に向かって這いずって行く。
今の自分はザラスの目にはどう映るのだろうか?
闘神の冷たい眼差しにとっては、今の俺のこの姿は、やはり無様に見えるのだろうか?
そんな事を考えながら、必死で手足を前に出し続けているその時だった。
いきなりヒャクリキの心臓が、ドクン!と聞こえるほどの音を立てて、大きく一つ、拍を打った。
…………そんな馬鹿な。
これは……
この感覚は…………
心臓はドクン!ドクン!と大きく拍動し始める。
ヒャクリキの意思や今の状況とは関係なしに、まるで心臓そのものが意思を持っているかのように、勝手にその強い拍動を加速させて行く。
(馬鹿な……こんな、こんな短い間隔で…………今までこんな事は無かったはずだ!)
強烈な不快感と焦燥感に襲われながら、ヒャクリキは思う。
実際こんな事は今までに無かった。
これまでの彼の経験を思い返してみても、“ソーマ”の禁断症状、その発作は、一度起きてしまえば少なくとも半月は襲って来ないはずだった。
しかしヒャクリキの心臓はそんな彼の思いを嘲るかのように、壊れてしまいそうなほどに強く早く、拍動を続けている。
四つん這いの体勢を維持することすらできなくなったヒャクリキは、ついに地面に突っ伏してしまう。もはや体に力を入れる事すらできなくなっていた。
(どうして今なんだ⁉︎ どうしてこのタイミングで⁉︎ どうしてこんな事が⁉︎ 嗚呼!クソッ‼︎ ついに!ついにザラスが、俺を見限ったとでも言うのか⁉︎)
今のヒャクリキを襲っているのは“ソーマ”の禁断症状の苦しみだけでは無かった。
不可視の一撃がもたらした痛みは相も変わらず、いやむしろさらに酷くなってヒャクリキの腹部で暴れている。
ヒャクリキの視界が白く霞む。口の端からは泡になった唾液が漏れ始めた。
(嗚呼!ザラス!ザラスよ‼︎ 何故こんな仕打ちを⁉︎ 貴方を疑ったこの俺を、やはり貴方は許していなかったという事なのか⁉︎)
全身がブルブルと震える。いや、ヒャクリキは既に、自身の身体が酷く震えている事すら認識できていない。
ヒャクリキはまるで芋虫のように体をくねらせながら、そのまま苦しみの中でただひたすらに、揉みくちゃにされていた。
どれだけの時間そうして身悶えしていただろうか、ヒャクリキの意識は今にも霞んで消え入りそうだったが、襲って来ていた禁断症状の波が、いきなりフッと、それこそ寄せた後に帰って行く波のように和らいだ。
ヒャクリキは閉じていた目をハッと見開く。
(違う!今は恨み言を言っているような場合では無い‼︎)
地面に寝そべった体を捩りながら、ヒャクリキは動くようになった左手で必死に腰のベルトに取り付けられた小さな鞄を開き、その中をまさぐる。
指先の感覚を頼りに目当ての物を取り出すと、今度はそれを口まで運び、歯で先端に付いている樹脂を噛んでちぎり取る。
そして樹脂の下から現れた小さな針を、そのまま首筋に突き立てた。
(早く!早く効いてくれ‼︎ この腹の痛みと併せてもう一度あの波に襲われたら、俺はもう、おそらく正気を保てない‼︎‼︎)
またその目を強く瞑って、火を起こしていないので意味が無いとは知りながらも、口からは小さな声で呻くようにしてザラスに祈る。
万が一を想定して持って来た“ソーマ”は、医療用に調整されているためか効いて来るのがやはり遅い。
一瞬、一瞬が、まるで永遠に感じられるかのような緩慢さでヒャクリキの横を通り過ぎて行く。
(…………‼︎……効き始めた⁉︎ よし!今だ!今のうちに……)
ぶり返し始めた禁断症状の苦しみと腹部の痛みとの、その両方が消え始めたのを感じたヒャクリキは、意識して全身に力を込めると肘と膝を使って、また大岩目掛けて這いずり始める。
痛みが完全に消えてしまえば、今度はあの酷い脱力感に全身を覆われる事になる。何とかしてそれまでにあの大岩の影に身を隠さなければいけない。
……遠い。
歩けば2、3歩で到達できるような距離が、今は何と遠く感じられる事だろう。
腹部で重く疼いていた痛みが、まるで溶けて行くかのように消え始めている。
それと同時に手足に込められる力が、同じく溶けるようにして喪われて行くのが感じられる。
ヒャクリキは膨れ上がるように大きくなっていく焦りに追い立てられながら、必死で肘と膝を動かし続けた。
視界の中の大岩の岩肌が、亀の歩みような鈍重さで、ジリジリと近付いて来る。
(…………よし!ここなら通路側からは死角になるはずだ‼︎)
奮闘の甲斐あって、何とかヒャクリキは大岩の側に到達する。
そして最後の力を振り絞り、寝返りを打つようにして、その体を大岩の肌に沿わせるように、仰向けになって寝そべった。
既に手足の感覚が消えている。意識しても力が入らない。動かない。
ヒャクリキの視界には空間の天井が映っている。
もう痛みは感じない。禁断症状も完全に収まっている。
(どうにか難を逃れた……とは言えんな。ダンジョンの奥側に逃げるというのは、もしかすると間違った選択だったのだろうか?……)
一難去った事による安堵感と同時に、感じ慣れた脱力感がヒャクリキを包み始めた。
これでしばらくはここから動く事はできない。
(冒険者に見つかってしまう前に力が戻ってくると良いが……)
こうなってはもう、運命に身を委ねるより他に無い。
そう思うとヒャクリキは大きく一つ息を吐いて、ゆっくりと目を閉じた。




