第67話 聖域
辿り着いた場所には、かなりの量の雪が降り積もっていた。
大人が足を踏み入れれば、膝近くまで埋もれる程の深さだ。さらにその下には圧縮されて固くなった氷の層がある。
しかしその男は、柔らかな新雪の上をごく自然に、ブーツを雪の中にうずめる事無く歩いていた。
まるで固い床の上を歩くように。
まるで自分の重みを忘れているかのように。
切れ長の目をした色白の男だった。黒地に銀の縁取りをした、軍服のようなロングコート。そして、後に撫で付けられた銀の髪。
男は何かを探しているように周囲を見回しながら歩き、垂直に切り立った山の斜面の前で足を止めた。
「見つけたぞ、アイビス」
銀髪の男、イビスは、独り言のように彼女の名前を呼ぶ。
ぐずり、とイビスのすぐ隣の空気が黒く滲んだ。
虚空に湧き出した不気味な黒い染みは、美しい白い肌と長い銀糸の髪をもつ少女の姿を形取る。
「なーんだ、コッチにあったのかぁ・・・」
まるで幽霊のように姿を現した少女、アイビスは、登場の仕方にそぐわぬ明るい声色で頬を膨らませる。とんとん、と軽い足取りで、彼女は目の前にある雪の壁の前に立った。
「じゃ、さっさと入り口ぶっ壊して"石"をいただいちゃおっか?」
その言葉の直後、彼女の周りの空気がチリチリと焼け始め、一拍の間の後、辺りの雪が、地面が、木々が、高熱と共に弾けた空気で吹き飛ばされた。
アイビスを中心に、ごく狭い範囲の雪は全て吹き飛んでいた。彼女達の足元の雪も消し飛んでおり、アイビスとイビスは積もっていた雪の高さだけフワリと宙に浮く形となった。
ふたりの目の前に、雪の下から古びた石扉が姿を現した。
彫刻等の飾り気が一切無い、無骨な二枚の岩戸が、山の斜面に張り付くようにして埋まっている。
ふたりは剥き出しになった土の地面にストンと降り立つ。アイビスが首を傾げた。
「あら、変ね。山肌ごと消し飛ばすつもりだったのに・・・」
イビスは石扉の前に立つと、身の丈程もある大剣を取り出す。それはアイビスの姿と同じ様に、虚空から滲み出すように現れた。
力の抜けた構えから、鋭く大剣を石扉に叩き付ける。剣が扉を叩いた衝撃は辺りの空気を振るわせ、木々の枝葉をざわめかせた。その軽い予備動作からではあり得ない衝撃だった。
しかし、石扉はびくともしない。それどころか、脆そうな岩の表面に傷一つ付いてはいなかった。岩肌に張り付いた、手で払えば落ちてしまうような土くれや苔にすら変化が無いのだ。
「時間が止められている」
イビスは石扉を撫ぜながら独り言のように呟く。
「いや、この扉だけじゃない。この周りの地面、全ての時間が止められてる・・・どれ程強力な力をぶつけても、これでは無駄だ」
「・・・じゃあ、時間の止まっていない所から壊す? この山まるごと吹き飛ばせば、どっかから入れるでしょ?」
無茶苦茶な提案をするアイビス。しかし不可能な事ではない。むしろ彼女にとってはそれが一番簡単な方法に思えた。しかし、イビスは首を振る。
「この術をかけたのは、時間と空間を操るエルカカの民だ。
ここはあくまで"入り口"で、空間を捻じ曲げ"中"を別の場所と繋げているという可能性もある。下手に手を出せば、ようやく見つけたこの入り口を壊してしまう事になりかねない」
「じゃあどうするのよ? せっかく見つけたのにさ・・・」
イビスは大剣を手放すと、それは地面に落ちる前に水に溶かした墨のように虚空へと還る。そしてすぐ近くにあった丸い石に腰を掛けた。それきり、黙り込んでしまう。
「なにそれ・・・ひょっとしてあいつらが来るの待つつもり?」
「どのみち最後の石を持って、明日には奴らがここに来る筈だ。
扉は奴らに開けてもらえばいい。それが一番確実だ。
お前の案で神殿を探して先回りしてみたが・・・無駄だったな」
「だって悔しいじゃん!! いつまでもあいつらの後を付いて行くだけなんてさ!!
最後くらいあいつらの前に立ち塞がって『フハハハ、待っていたぞ!』的な事しないとカッコ付かないわよ!!」
「・・・・」
悔しそうに地団太を踏むアイビスを見て、イビスは溜息を吐いて疲れたようにうなだれる。
この場にトキとレイチェルが居たら、こう言ったかも知れない。
エアニスとチャイムを見ているようだ、と。
実際、エアニス達の動向は殆どイビス達に筒抜けだった。イビスとアイビスが身を置くルゴワールは、世界中に根を張る犯罪組織なのだ。たった四人の動向を追い続ける事など彼らの情報網を使えば簡単だった。
にも関わらず、彼らが今までこの場所を特定できなかった理由は、単純に案内人であるレイチェルがエアニス達の前ですら、神殿の場所はバイアルスの山にあるという事以外、一切口に出さなかったからである。
バイアルスの山といっても広い。いくつもの国を跨ぐ、巨大な山脈だ。
レイチェル達が最後の街としてファウストに立ち寄ったという情報から、二人は街から歩いて行ける範囲で、レイチェルの目的地である神殿を自力で探し、ようやく見つける事が出来たのだ。
「組織の人間はもう用済みか・・・邪魔になる前に俺達と関わった者だけでも消してしまうか・・・」
「あぁ、それにらとっくに片付けてきたわよ。本部ごと」
アイビスがあっさりと言った。アイビスは深い溜息をついて眉間に指を当てる。
「・・・いつだ」
「さっき。この入り口さがしてる途中に、あ、あいつらもう必要無いなー、って思って、ベクタまで飛んで本部のビルに一発かましてスグ戻って来た。
まだ世界中に沢山残ってるんだろうけど、本部がああなっちゃえば暫くは石探し所じゃなくなるんじゃない?」
因みにバイアルスからベクタまで歩いて行けば何ヶ月もかかる場所である。
しかし、体という実体が希薄な魔族にとって距離という概念は大した意味を持たない。自分の知っている場所ならば、己の存在を一瞬で移動する事が出来るからだ。
生物と違い、存在を物質に依存しない純粋な魔族だからこそできる事だった。
身体を脱ぎ捨て、自分の記憶を頼りに存在を目的地へと移す。身体は移動先に漂う魔力や物質で再構築すればいいのだ。
存在は、質量を持たない。
純粋な魔族は己の意思次第で、いつでも何処にでも存在する事が出来る。言い換えれば、彼等は何処にでも居るのだ。
在り方が、人間と根本的に違う。古典的な表現で表すのであれば、それはまるで幽霊のようだった。
イビスの痛むはずの無い頭がズキズキと痛むような気がする。
「・・・勝手な事をするな。それに、思いつきで行動するな」
「だって、ルゴワールの人間達も"石"を欲しがってるんでしょ? 邪魔されたり、万一横取りされたりしたら事じゃない」
「そうだが・・・」
まだ利用価値はあるかもしれないだろう。
と、言うのを止めて、それきりイビスは口をつぐんだ。アイビスに言って聞かせる事は自分には出来ないと分かっているからだ。
二人は並んで石の上に座り、時が経つのを待つ。頬に手を当てて、むくれた顔でアイビスが呟く。
「ヒマじゃない・・・?」
「たった一日だ。一瞬だろう」
「魔族の時間感覚で言わないでよ。もうすっかりこっちの世界の時間感覚に慣れちゃってるんだからさ。
あーあ。街にでも遊びに行ってこようかしら?」
何気ない彼女の言葉にイビスは目を伏せる。そして、彼にしては珍しく言い淀むようにして口を開いた。
「・・・お前、何だかんだでこの世界が気に入ってるんじゃないのか?
もし、そうだとしたら」
「そんな筈無いじゃん」
言葉を遮るようにアイビスは言う。
「あたしにとってこの世界なんでどうでもいいの。
あたしが居るべき世界は、イビス。貴方が選ぶ世界よ」
ごく当たり前のように。特別な感情など何も無いように。彼女は凛とした声でそう言った。
それを見たイビスは複雑な心境だった。罪悪感を、覚えた。
「すまない。付き合わせてしまって」
「そんな言い方しなくてもイイのに。別にあたしには"こっち"も"向こう"もカンケーないし?
イビスが居れば何処でもいいの。イビスが居る場所があたしの居場所なの。あたしはイビスの言う事なら何でもするよ?」
そう言って、彼女は隣に座るイビスの首に腕を回す。
こういった仕草が、すっかり"こっち"の世界に毒されてしまっている証拠だなと思いながら、彼女の腕を押し退ける。
「・・・じゃあもう少し大人しくしてくれ。お前が好き勝手するから今回の件も奴らに無用な警戒を与えてしまった」
「えー・・・だって単にルゴワールの人間達パシリにして成行き見てるだけじゃつまんないわよ。
船の上で直接やり合った時とか、観光都市で爆弾取り合った時とか、このあいだのエルバークでの戦争ごっことか・・・なかなか面白かったでしょ?」
「必要の無い事だ。それにエルバークの件は反省しろ。下手をしたらエルカカの娘は殺されていた。そうなれば、石の封印を解く事が出来なくなっていたんだぞ」
「死ななかったわよ。どうせ」
妙に確信じみたように言う。そしてイビスも、自分で言っておきながら本心はアイビスと同じだった。
あの人間達は強い。能力も、そして存在も。
人間の身にして、魔族であるイビスやアイビスに並ぶ程の存在の力を持っている。
大きな存在の力を持つ者は、それだけで世界を、他人の運命を捻じ曲げる。身体を破壊してしまえば終りの脆弱な人間だと思って掛かれば、呑まれてしまうのはこちらだろう。戦う能力が高いとか、強靭な肉体を持っているとか、強大な魔導が使えるとか、そういった力は関係無いのだ。
あの人間達の身体に込められた存在の力がどれほどの物か。
彼らの存在が、この世界のどれだけを占めているか。
自分たちより、この世界に存在を認められているか。
魔族にとって戦う力とは、そういった物なのだ。
この世界にとって異物であるイビス達にとって、敵はエアニス達だけではない。
この世界そのものなのだ。
「・・・街に出るなら目立たないように姿を変えて行け」
「はーい」
間延びした返事をすると、アイビスの姿は現れた時と同じ様に空気へと溶け出す。身体を形作っていた墨のような何かは、虚空で渦を巻くと、再び人の体に形を変えてゆく。
それは、普段の彼女の姿では無かった。
頭の両側で結っていた銀髪の髪は、濃い栗色の髪に変わり、真っ直ぐ腰まで垂れている。抜けるように白い肌や、華奢な体つきは普段のアイビスと変わらなかったが、顔つきは普段の彼女より少し大人びている印象があった。素朴というよりも質素な服を着た、街中に溶け込むありきたりな姿だ。しかし、瞳の色だけは姿の変わる前と同じ、吸い込まれるように深い紫色をしていた。
「ん。どうかしら? 合格?」
長いスカートをふわりとなびかせながら一回転し、イビスにその姿を披露する。声も普段のアイビスのものと違う。容姿も口調も、全体的に大人びた印象に変わっていた。
「どうだろうな・・・大丈夫だと思うが・・・」
人間社会での"目立たない姿"というものが良く分からないイビスは、曖昧に答える。
「じゃなくてー!」
アイビスはふりふりと腰を左右に揺らし、普段の姿に比べると格段に大きくなった胸を反らせながらモデルのようにポーズをとる。
「綺麗?」
「・・・早く行け」
「ぶー」
当然、姿が変わった所で中身は変わらない。イビスはシッシと手を振ってアイビスを送り出した。
とんとん、とステップを踏みながら歩き出し、街まで空間を飛ぼうと思ったその時。
「動くな!」
岩陰から突然伸びてきた長い銃口が、アイビスの身体に突きつけられた。
「・・・え?」
そこには、ボロボロの兵隊服を身に着けた若い男が居た。
ボロボロなのは服だけではない。顔も泥と油で汚れ、ブーツも壊れているのかベルトを不恰好に巻き付けていた。構えたライフルも傷だらけで、錆が浮いている。
まるで、長い間ジャングルの戦場で戦い続ける兵士のような姿だった。
「・・・だれ?」
「・・・」
イビスとアイビスは顔を見合わせ、首を傾げた。
◆
山奥で人知れずそのような出来事があった翌日の夕方。
バイアルスの山頂付近に、登山道を登るエアニス達の姿があった。一行は山の中腹までエアニスの車でかなりの無理をして登って来た。車では登れない場所からは5人とも大きなザックを背負い、自らの足で山を登り、半日が過ぎようとしていた。
「なんか、最後の、最後に、すごい難関が待ってたわね・・・あたし、神殿ってトコに着くまでに力尽きるかもしんないんだけど・・・ぜぇ、ぜぇ、」
「そう思うなら無駄口は叩くな。息が乱れて余計に苦しくなるぞ」
「いやいや、会話を交わしながら進むほうが、気持ち的に楽しく山を登れるものじゃぞ」
「別に山登りを楽しみに来てるんじゃねぇよ」
エアニスとチャイム、ティアドラは空気の薄い環境下でもタフに雑談を続けていた。因みにトキとレイチェルは会話で呼吸のリズムを狂わせたくないのか、始終無言である。
足元には薄く雪が積もっていた。このあたりの気温は今の季節、氷点付近を前後しているため、解けかけた雪が凍り足場は最悪だった。足を滑らせないよう全員がブーツにアイゼンを括りつけている。服装も普段の旅装束では凍えてしまうため、全員厚着をして革のマントを羽織り、ボアのついたフードを被っていた。
過酷な環境に思われるが、天候は良好で風も無く、気温も氷点下を下回っていない。この季節の登山としては恵まれた環境だった。
「そろそろ・・・日も傾いてきたしさ・・・ゼェ、ヒュー・・・早いうちに、この辺りでキャンプ張らない・・・?」
「・・・そうだな。この辺なら広いし平らな地面も多いしな」
チャイムの提案をエアニスは受け入れた。本当はもうすこし距離を稼いでおきたい所だが、疲れているのはチャイムだけでなくトキとレイチェルも同じで、顔を見ただけでも疲れの色が見て取れた。
エアニスも疲れてはいたが、チャイム達程では無かった。エアニスは体が疲れない動き方を熟知しており、また半分とはいえ人より優れたエルフの体質を持っているため、酸素消費量が人に比べて少ないのだ。それと不本意ではあるが、体も大柄ではなく体重が軽いと言うのも登山に適していた。
ティアドラもエアニスと同じく息一つ乱してはいないが、こちらは何故こうも平気な顔をしていられるか謎だった。
エアニスがザックを降ろそうとすると、
「いや、待て。もう少しだけ登ってみぬか?」
ティアドラは歩みを止める事無く、さっさと山道を進み始めてしまった。絶望的な表情を浮かべるチャイム。トキとレチェルも、残念そうに肩を落とした。
「今日中に見せておきたい景色があるんじゃ」
◆
頂上へ辿り着くと、その景色は突然山の反対側に現れた。
ティアドラを除く4人は息を呑む。感嘆の声さえ上げる事は出来なかった。
眼下に広がる白い雪山。
遥か遠く、地平線の彼方まで、どこまでも真っ白な山が幾つも幾つも連なっていた。
雄大で、とても美しい景色。
それでいて途方も無く、自分の存在の小ささを思い知らされる景色。
エアニスは後を振り向く。
そこには、今まで登ってきた山道が続いている。眼下にはだいぶ小さくなったファウストの街が見え、その向こうには目の高さと同じ位の位置に山々の稜線が見てとれる。山の中腹あたりには雪は積もっておらず、大地の大半は緑で覆われていた。自分の居る場所が、それ程標高の高い場所と感じる事は無い。
そして再び山の向こう側に目を向けると、そこには眼下に広がるどこまでも続く雪山。山の上からの眺めというより、飛空艇から大地を見下ろした時の景色に近い。
自分の目前と背後で、別々の世界が広がっているような錯覚を覚えた。
「今わしらの立つこの場所が、標高4,200mじゃ。そしてこの先は大地が大きく沈んでおり、海抜マイナス500mから立ち上る2,500m級の山々が何処までも続いておる」
チャイムは自分の立つ地面が、それほどまでに高い場所にあるものだとは思っておらず、ティアドラの解説に驚いた。それほど高い山を登ってきたという感覚は無かったからだ。そこまで考え、チャイムはファウストの街がかなりの高地にあったのだという事に気づく。確かに、ファウストに至るまでの数日間は何度も山越えを繰り返していた。
「わしらが今居る山を境に沈みこんだ大地は、この先4,500km先で再び隆起を始め、今度は6,000m級の山脈が続く。それを越えたら、大陸の向こう側に抜ける事が出来る」
「・・・・」
途方も無い話だ。
バイアルス山脈の事は、知識の上では4人とも知っている。
太古の時代より、人間を拒み続ける自然の城壁。
しかし、いざそれを目前とすると、圧倒的な存在感に一種の恐怖のような物を感じた。ただただ美しいばかりのその後光景に、何故恐怖を覚えたのか、自分の事だというのにエアニスにはその理由が分からなかった。
何も無い大海原に、小船で漕ぎ出した時の心細さに似ている。しかし、本能的に感じる危機感は、その比ではなかった。
「どうじゃ? 壮観じゃろう?」
「壮観ってより・・・何か怖いわね・・・」
チャイムが答える。彼女もエアニスと同じ感情を抱いたようだ。トキやレイチェルも素晴らしい眺めに感動しているというよりは、底の見えない穴の淵に立たされたような、落ち着かない表情を浮かべている。
「・・・ふむ。正常な感想じゃな」
ティアドラは満足そうに頷く。
「とある見地の解釈によれば、この大地は徹底的に人間を排除しようとして、このような姿になったのだと考えられておる。じゃから、この世界に住まう者は本能的にこの大地を目にすると、恐怖を覚えるそうじゃ」
ティアドラの解説にエアニスが不思議そうな表情を浮かべる。
「・・・何だその理屈は。この山が生きてるみたいな言い方だな」
「ガイア仮説という奴ですね?」
トキがここぞとばかりに口を挟んできた。
「ふむ、流石メガネじゃな。知っておるか」
「光栄です」
「何ですか、それ?」
首を傾げるレイチェルにトキは指を立て、自慢するように自分の知識をひけらかす。
「この世界も、僕達のように一つの生き物だと考える仮設です。
人間が怪我をすれば、いずれ傷口は塞がりますよね。それと同じ様に、大地が大きく裂けたら、水や風がそこに土を運び、いずれは元通りになるでしょう?」
「・・・はぁ・・・考え方は分かりますが、突拍子も無い話ですね・・・」
「そして人間に意思があるように、この世界にも意思がある。
バイアルス山脈は、この世界の意思が人間を寄せ付けないために作った場所・・・という事ですか」
興味深いですね、とトキ。
「そうとでも考えなければ、この胸のざわつきは説明がつかんのじゃ」
「・・・・」
馬鹿馬鹿しいと反論しようとしたエアニスが押し黙る。事実、エアニスの胸にも何とも言えぬ不安感が未だにわだかまっているからだ。
「わしもその論理は正しい物だと思っておる。確かに、この地は人が立ち入ってはいけない場所なのじゃろう」
ティアドラはレイチェルに向き直る。
「エルカカの魔導師ならば分かる筈じゃ。この辺りの空間は、非常に脆く構成されているじゃろう?」
「!・・・えぇ、分かります。空間の結束が弱いというか・・・この場所なら、空間干渉の術を簡単に起動できると思います。
でも、その分制御が難しそうです・・・空間制御に失敗しても空間は元に戻ろうとする力が働きますが・・・ここはその力が弱い。失敗したらここでは何が起こるのかわかりません・・・空間の断裂を作ってしまったり、連鎖的に空間の崩壊を起こしてしまうかも・・・」
考えながら呟くレイチェル。空間の断裂とか崩壊とか、具体的に何が起こるんだろうと猛烈に不安になるチャイムだったが、口を挟める雰囲気ではなかった。
「よしよし、この不自然さを感じ取る事が出来るなら合格じゃな。
そう、ここは世界で唯一、空間の、世界の境界線が曖昧になっておる地なのじゃ。魔導的な見地から見ても、何故このように異常な空間が存在しておるのかは分からんが・・・
とにかく、ここはエルカカの魔導師が最も己の力を振るう事ができる場所なのじゃ」
ティアドラは再び振り返り、眼下に広がる巨大な山脈を見渡す。
「じゃから250年前、エレクトラはこの地の空間結合の脆さを利用し、世界に穴を空けて魔族を別の世界へと追放した・・・」
「別の世界・・・」
何気なく出てきた言葉に、チャイムは違和感を覚える。おとぎ話では "楽園"や、"レッドエデン"と呼ばれる世界。こことは違う、別の世界。
「追放・・・というには言葉が悪いか。彼らは元々この世界の住人ではないのじゃ。もう誰にも分からない程の大昔に、こことは違う世界からやってきたのだ。
言わば侵略者じゃ。この世界の者としては、お引き取り願うのが当然じゃろう」
「・・・そのくだりは初めて聞いたな。魔族は別の世界の存在だなんて、どんな言い伝えにも出て来ないと思うが」
そう言ってエアニスはレイチェルの顔を見たが、レイチェルもふるふると首を振った。エレクトラの直系である彼女も知らない話なのか。
「・・・あくまでも言い伝えじゃ。それにどう考えても、奴らの存在はこの世界の生物進化とはまったく別の概念で成り立っておるしな。そう考えたほうが自然というものじゃ。
機会があれば、お主らを狙っているという二人組みの魔族にでも聞いてみるがいい」
ティアドラはやや強引に話を打ち切ってしまった。何処かその様子に違和感を覚えたエアニスだったが、彼らが何処から来たのかという事など別にどうでも良かったので追求はしなかった。
魔族だろうが人間だろうが、そんな事は関係無い。敵である事が分かっていれば、こちらがやる事は変わらない。
「とまぁ、それが"神殿"をこの地に選んで建てた理由じゃ。明日からは本格的に山に踏み入る。その前にこの景色を見て貰いたかったんじゃ。覚悟を決める為にの」
「はっ、要らん気遣いだ」
「いやー・・・あたしはこの話を聞いておいて良かったと思うなー・・・。いきなりそんな話されたらビビるもん。・・・いや、これから一晩でこの話を飲み込めるかと言われれば微妙だけどさ・・・」
「いやいや、大変面白い話でしたよ」
「・・・この一晩でここの空間構成詳しく調べないといけませんね・・・空間干渉の魔導式も少し書き換えないといけないかも・・・はぁ・・・」
そう言いながらも4人は降ろしていたザックを背負い、歩みだす準備をする。
シャノンの娘も、頼もしい仲間に恵まれたものじゃな。
彼らの気負わぬ様子を見て、ティアドラは嬉しそうに笑った。
「さて、ここから少しだけ山を降りれば平地がある。浅い洞窟もあるからキャンプには丁度良い場所じゃ。もうひと頑張り頼むぞ!」
◆
山頂を越え山の反対側に回ると、途端に積もっている雪が分厚くなった。雪はガチガチに凍り付いていたが、アイゼンを履いていれば濡れて土と混ざり合った雪道よりむしろ歩きやすかった。
ティアドラの言う通り、頂上から半時も下らない場所で平坦な岩場を見つけた。
平らな一枚岩が水平に山の斜面へと突き刺さっているような場所だ。山の斜面には手掘りの浅い洞窟があり、何度か野営に使われた跡が残っていた。ティアドラや、神殿を訪れるエルカカの民がいつも使っている場所らしい。
5人は岩に降り積もった雪を落とし、洞窟の中で2つの簡易テントを張る。更に外気を遮断する為に洞窟の入り口にカーテンのようにシートを張って火を焚き、中の空気を暖めた。焚火の煙はティアドラが魔導を使い器用に煙だけを外へ吐き出していた。
持ってきた食材で作ったスープと、ブロック型の携帯食料を夕食として一行は早めに眠る事にした。
疲れたからといって仲良く全員で眠る訳にもいかないので、エアニスとティアドラが交代で見張りをすることにした。トキとチャイムとレイチェルは、誰の目から見ても疲労の色が見て取れたので、三人には気にせず良く休むようにと伝えた。
あの二人組の魔族に対しての警戒としては手薄過ぎたが、青年の姿をした魔族、イビスは、エルバークの街に現れ「石の眠る神殿で待つ」と言った。ならば、ここで寝込みを襲うような姑息な真似はしないだう。
真夜中を過ぎた辺りまでティアドラが見張りをし、その後はエアニスが見張りを引き継いだ。今の時刻は早朝と呼ぶには少し早い時間。空は薄っすらと白じみ始め、山々の稜線が見えるようになってきた。
自分のマントを羽織り、さらにその上から毛布を被ったエアニスが白いため息を吐く。毛布の下の左手にはオブスキュアが立てかけられており、手を伸ばせばすぐ届く場所にショットガンが転がっていた。見張りをしてても結局何も起こらず朝を迎えそうだ。あの魔族二人組みと決着をつけるであろう今日くらいは、しっかりと眠って体を休めておきたかった所だが、まぁ仕方ない。
エアニスが欠伸とともに伸びをしていると、洞窟の中からチャイムが出てきた。
「ふっあぁぁ~~~ムチャクチャ寒いわねー・・・」
エアニスと同じように、マントと毛布を被り、両手で自分の肩を抱くようにして震えていた。
「おはよ」
「お、おぉ・・早いな」
「ん、正直良く眠れなくてさ」
「・・そうか」
チャイムはぎこちなく笑った。エアニスの受け応えも何処かぎこちない。
彼女は今日がこの旅最後の日となる事に緊張しているのだが、エアニスは二日前の祭りの夜以来、チャイムと二人きりになるのが初めてだったから緊張しているのだが。
「何も心配する事なんてねーよ。あの邪魔な魔族どもを黙らせて、レイチェルの仕事を、背負ってる運命とやらを終わらせてやろう」
「あてにしてるわよ。あたしやトキじゃ、あの魔族に対抗する手段が無さそうだからね・・・」
「任せとけ。さっさと終わらせて、ティアドラの家で打ち上げパーティーでもやろうぜ」
「そーね」
チャイムはにっこりと笑う。
すると山の稜線が輝き、その明るさに彼女は目を眇めた。大地に日の光が差し込み始めたのだ。
雪で白く染まった山々が日の光に照らされ、赤紫色に輝きだす。昨日はこの途方も無い景色に恐れさえ感じていたが、今目前で移り変わる景色は、素直に美しいと感じられた。
微笑みながら日の昇る方角を見つめるチャイムの横顔を、エアニスは見ていた。そして、彼女の横顔から視線を外す事が出来なくなっている自分に気づく。
「あのさ、」
エアニスが口を開きかけた。
チャイムがエアニスに振り向く。
「ん?」
「・・・この旅が終わったら、一緒に 」
バスン、とくぐもった音と同時に、チャイムの体が見えない何かに突き飛ばされて、山の岩壁にぶつかった。
岩壁で跳ねたチャイムの体は、そのまま力なく地面に崩れ落ちる。それきり、ぴくりとも動かなかった。
「・・・」
目の前で起こった事が理解出来なかったエアニスは、すぐに行動を起こす事が出来ない。
ようやく遠くから、ターン、と銃声が響いた。弾丸よりも遅れて届いた、狙撃銃の発砲音。
チャイムが狙撃銃で撃たれたのだ。
「チャ・・」
ゆらり、と腰を浮かすエアニス。
それは普段のエアニスからしたら有り得ない失態だった。撃たれた相手が仲間だからといって動揺してしまうなど、素人の反応だ。しかし、自失となったエアニスの緩慢な動きは狙撃手にとっても予想外のもので、それが幸運に繋がった。
エアニスの耳元で、背にしていた岩壁が弾けた。エアニスの頭のあった場所を弾丸が通り過ぎたのだ。弾丸が当たらなかったのは幸運以外の何者でもなかった。
「くそっ!!」
飛び散った岩の破片に頬を切られたエアニスは、頭から冷水を被せられたかのように本来の思考を取り戻した。
チャイムが撃たれてから銃声が聞こえるまで、かなりの間があった。狙撃手はかなり遠くにいる。恐らく、向い側の山だろう。銃弾が流されない風の無い早朝、そして日の出の瞬間を狙っていたのだ。
どのみち、こちらから手を出せる相手ではない。エアニスは反撃を諦め、自分の体を盾にしながらチャイムを洞窟の中へと引きずり入れた。




