学園入学前夜(過去・入学前)
王立高等学園の入学式を来週に控えた、うららかな春の夕暮れ。
グランドール公爵邸の自室で、フィーネ・グランドールは姿見の前に立ち、どこか落ち着かない様子で何度もドレスの裾――ではなく、仕立て上がったばかりの制服の生地を指先でなぞっていた。
鏡に映っているのは、これまでの普段着のドレスとも、茶会や夜会で着るような華やかなドレスとも趣の異なる、白と青を基調とした清楚で気品あるデザインの制服を身に纏った自身の姿だった。
「お嬢様、本当によくお似合いですわ……」
後ろで着付けを手伝っていた専属侍女のジーラが、感極まったように胸の前で手を組む。フィーネは少し頬を朱に染めながら、照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう、ジーラ。……でも、本当に変ではないかしら? 私、このような仕立ての服を着るのは初めてだから……」
「滅相もございません! きっと学園のどのご令嬢よりも美しく可憐でいらっしゃいますわ」
ジーラの絶賛にほっと胸を撫で下ろしながらも、フィーネの胸の奥には、小さな緊張の波が波紋のように広がっていた。
来週から始まる王立高等学園での生活。自身と同年代の貴族子女が集うその場所は、社会に出る前の小さな社交場であり、貴族社会の縮図とも言える場所だ。
何より、フィーネには大きな不安があった。この世界で貴族として生まれながら、自分は一切の魔法が使えない「無能」であるということ。これまでも茶会などで度々陰口を言われてきた。
学園で、周囲の令嬢や令息たちからどのような視線を向けられるかと思うと、どうしても身構えてしまう。
(それでも……アヴィ様と同じ場所で学べるのだから)
脳裏に浮かぶのは、大切な婚約者――この国の第一王子、アヴィ・シルベスターの温かな笑顔だった。
幼い頃に婚約を結んで以来、彼はいつも優しく寄り添い、フィーネの孤独を優しく包み込んでくれた。
姿見に映る真新しい制服を見つめながら胸に手を当てると、不思議と不安がすっと和らいでいく。それと同時に、抑えきれない愛おしさが胸の中に溢れ出した。
(この姿を見たら……アヴィ様はなんて言ってくださるかしら)
「……ジーラ。私、少しだけ王城へ伺ってもいいかしら?」
「ええ? もう夕刻でございますよ?」
「ほんの少しだけでいいの。この制服姿を……一番に、アヴィ様に見てもらいたくて」
うっすらと頬を染めたフィーネだったが、ふと思い出したようにぱっと顔を上げ、言葉を繋いだ。
「それから……先日届いたあのお勧めのお茶も、持っていくのはどうかしら? アヴィ様、きっと今日もお仕事でお疲れでしょうから」
大切な婚約者を甲斐甲斐しく気遣う主の愛らしさに、ジーラは反論の言葉を失った。
「……ふふ、かしこまりました。すぐに馬車とお茶のご用意をいたしますわ」
苦笑交じりに頷くジーラの背中を見送りながら、フィーネは愛おしそうに胸元の制服をそっと撫で下ろすのだった。
◇◇◇
同じ頃、王城の一角にあるアヴィの私室で、彼は書類を手にしたまま、どこか上の空な様子で窓の外を眺めていた。
傍らに影のように控えるのは、生真面目な藍色の瞳を持つ侍従、ウィリアム・ドルマンである。
「……殿下、先ほどから同じページを三度ほどめくっておられますが」
「……はは、よく見ているね、ウィリアム」
アヴィは困ったように眉を下げて笑うと、持っていたペンを置き、深々とため息を吐いた。眩い金髪をすっとかき上げ、碧色の瞳に隠しきれない情熱と焦燥を滲ませる。
「来週からいよいよ学園生活が始まるわけだが……正直なところ、私は楽しみ半分、不安半分なんだよ」
「お気持ちはお察しいたします。フィーネ様もご入学なさるのですから」
「そのとおりだ。学園に入れば顔を合わせる機会は増えるが……同時に、私の目の届かない場所で、四六時中フィーが他の男たちの視線に晒されるということだ。考えただけで頭が痛い」
どれほど王子としての権力があろうと、他人の視線や恋心までを物理的に遮ることはできない。
「……フィーは、自分が魔法を使えないことを随分気にしているけれど、正直そんなことを気にしている者たちはごく少数だからね」
要は魔法が使えないことくらいしか、フィーネを見下す要素がないというだけなのだ。彼女の人柄も能力も容姿も……認めている人々の方が圧倒的に多い。
「彼女を深く知れば知るほど、彼女を手に入れたいと思う者たちが増えるのは間違いない……」
頭を抱える主の姿に、ウィリアムは内心で呆れつつも「殿下のフィーネ様に対する過保護は今に始まったことではない」と静かに諦めの息を吐いた。
その時、部屋の重厚な扉が控えめにノックされ、侍女の声が響いた。
「殿下、グランドール嬢がお見えになられました」
「……フィーが?」
アヴィは唐突に告げられた名に首を傾げた。いつもの彼女なら、事前に連絡をしてから訪ねてくるからだ。
(……何かあったのだろうか?)
そんなことを思っている間に扉が静かに開かれ、姿を見せたのは――来週から通う学園の制服に身を包んだ、最愛の少女だった。
陽光を照り返すシルクのような白金の髪と、真新しい制服の美しいコントラストがアヴィの視界に飛び込んでくる。
「アヴィ様」
わずかに緊張したような面持ちでアヴィの名を呼び、おずおずと部屋へ足を踏み入れたフィーネは、恥ずかしそうに頬を染め、ドレスの裾を摘まむような慣れた仕草のまま、そっと上目遣いで彼を見上げた。
「申し訳ありません、先触れも出さずに……。その、い、いかがでしょうか……? 学園の制服が届いたのですが、アヴィ様に一番に見ていただきたくて……」
「――――っ」
その瞬間、アヴィの思考は完全にフリーズした。
目の前の可憐な制服姿と、自分に真っ先に見せたくて足を運んでくれたというあまりにも健気で愛くるしい発言。
強烈な愛おしさの暴力に、アヴィの心臓が激しく脈を打ち、呼吸することすら忘れて呆然と立ち尽くした。
「……アヴィ様……? あの、やはり、その、似合わないでしょうか……?」
返事がないことに不安を覚えたフィーネが、眉を下げる。その様子にようやく現実に叩き戻されたアヴィは、慌てて両手を振った。
「そ、そんなわけがないだろう……! すごく……本当に良く似合っているよ、フィー。あまりにも可愛くて……言葉が出なかっただけなんだ」
「……本当ですか? よかった……」
ほっと胸を撫で下ろし、花が綻ぶような眩い笑顔を見せるフィーネ。
アヴィはその笑顔を視界に収めた瞬間、必死で理性を総動員しながら、背後のウィリアムへ向かって無言で助けを求める視線を送った。
「(……どうしよう、ウィリアム。婚約者が可愛すぎるんだが……!)」
「(落ち着いてください、殿下)」
「(これが落ち着いていられるものか! こんなに可愛い彼女が学園なんかに入ったら……他の男たちが目を付けないはずがないだろう!?)」
無言の視線劇を繰り広げる主に、ウィリアムはただただ頭を痛めるばかりだった。
◇◇◇
「アヴィ様に、お勧めのハーブティーを持参いたしましたの。ご迷惑でなければ、私が淹れて差し上げてもよろしいですか?」
「勿論、喜んでいただくよ」
婚約者の気遣いに、アヴィが当然のように肯定の言葉を返すと、彼女は嬉しそうに「しばらくお待ちくださいね」と告げ、顔馴染みのアヴィの侍女と共に部屋を後にした。
彼女たちを送り出した後、アヴィはソファに深く腰掛け、再び頭を抱え込む。室内には、アヴィとウィリアムの二人だけが残されていた。
「……ウィリアム、真剣な話がある」
その重々しい声音とは裏腹に、主が何を悩んでいるのかを瞬時に察したウィリアムは、静かに諦めの吐息を漏らした。
「はぁ……なんでしょうか、殿下」
「学園での方針についてだ。正式に婚約しているとはいえ、我が国では、あくまで婚約は家と家の約束事に過ぎず、法的拘束力なんてものはない」
「それは……確かに、法的には婚姻が成立して初めて権利が発生いたしますが」
「そう、つまりだ」
アヴィはソファから身を乗り出し、切迫した表情でウィリアムに詰め寄った。
「法的拘束力がないということは、学園という有象無象が集まる場で、他の男たちが『自分にもチャンスがある』と勘違いしてフィーに近づく可能性が大いにあるということだ。あんなに可愛いフィーを、無防備に男たちの視線に晒さなければならないなんて……!」
狂おしいほどの独占欲と焦りを露わにする主。普段は誰よりも聡明で、どんな激務も冷静沈着にこなす第一王子が、フィーネのこととなると途端に余裕を失い、なりふり構わなくなる。
そのギャップを誰よりも一番近くで見てきたウィリアムは、再び深く息を吐いた。
「……殿下。フィーネ様が殿下以外の男に目移りするなど、絶対にあり得ません。あの方は殿下を心からお慕いしております」
「そんなことは分かっている! 問題は彼女の心ではなく、周囲の不埒な輩たちだ! 卒業までのあと三年……いかにして彼女の周りに予防線を張り巡らせるべきか……」
アヴィの碧眼に宿るのは、普段の柔らかな笑みとは違う、冷徹で狂おしいほどの熱い想いだった。
「いいかい、ウィリアム。学園内でフィーに近づこうとする男は、たとえ高位貴族の令息であろうと、全て事前にチェックして牽制する。私が気づかないところで彼女を危険に晒すつもりはない」
「……はぁ。承知いたしました。影ながら、私も全力を尽くしましょう」
ウィリアムが生真面目に頭を下げると、タイミングよく扉が開き、お盆を手にしたフィーネが戻ってきた。
「お待たせいたしました、アヴィ様。美味しいハーブティーが入りましたわ」
「ありがとう、フィー。さあ、こちらへおいで」
先ほどまでの凄まじい独占欲を微塵も見せず、アヴィは一点の曇りもない完璧で穏やかな極上の笑顔を顔に貼り付け、彼女を隣の席へと優しく迎え入れたのだった。




