プロローグ*透明人間の日常
吉川優太、15歳。
中学3年生である彼の存在を一言で言うならば“透明人間”だ。
* * *
3年3組の窓際の最後列が優太の指定席だ。
そこに座っている自分のことを今日も誰からも視線を向けられることがなかった。
4時間目の終わりのチャイムが鳴って、数学の授業が終わった。
「腹が減ったなー」
「購買に行かない?」
周りからその声が聞こえる中で優太は教科書とノートと筆記用具を机の中に入れると、カバンから今朝コンビニで買ったおにぎりとお茶を取り出した。
「ーーあっ…」
近くにいたクラスメイトがカバンにぶつかったので優太は声をあげたが、彼は自分の方に視線を向けることもなければ謝罪の言葉を口に出すこともなかった。
まるで、自分がそこに座っていることは愚かそこに存在していることすらも知らないかのように。
全ての授業が終わって優太は学校から家へと帰った。
家のドアを開けて靴を脱いで中へと足を踏み入れると、1階の隅っこにある自室へと足を向かわせた。
「周助さん、よくやったわ!
今回の期末テストも学年1位だったなんて、さすが周助さんだわ!」
リビングの前を通ろうとした時に母親の声が聞こえた。
そっと覗いてみると、食卓のテーブルで楽しそうに成績表を見ている母親と得意気な顔をして眼鏡をクイッとあげている3歳年上の兄がいた。
「このまま行けば、T大合格も間違いなしだって先生が言ってたよ」
「さすが周助さん!」
得意気に言った兄と褒め称えている母親がいるリビングの横を通り過ぎると、優太は自室へと足を向かわせたのだった。
静かにドアを閉めて制服からTシャツとジーンズに着替えると、優太は数学の宿題を片づけるために机に向かったのだった。
暴力や暴言や無視などのいじめを受けている訳じゃない。
学校に行けば誰からも存在を認識されない、家に帰れば母親は名門校に通っている優秀な兄のことを気にかけているばかりで自分に見向きすらもしてくれない、父親は仕事が最優先なので常に家にいないのが当たり前だった。
(ーーまるで、透明人間だな…)
誰も自分のことを認識していなければ、目もあうこともない、名前すらも呼ばれることがない自分の存在を一言で表現するならば“透明人間”だ。
宿題が片づいて机の上のデジタル時計に視線を向けると、18時を過ぎたところだった。
優太は片づいた宿題をカバンの中に入れると、自室を後にした。
リビングに顔を出すと、お盆の上に乗せられた夕食が食卓のテーブルの上に置いてあったので優太はお盆を手に持つと、また自室へと戻った。
食卓の椅子は3脚しかないので、食事は基本的に自室で食べるのが当たり前だ。
ローテーブルの上にお盆を置くと、
「いただきます…」
と、優太は両手をあわせて呟くと食事を始めた。
食事を終えてお盆を持ってリビングに戻ると、母親と兄が楽しそうに談笑をしながら夕食を食べていた。
優太はシンクの中に食べ終えたばかりの食器を置くと、お盆を電子レンジが置いてある棚に入れて楽しそうなリビングを後にしたのだった。
自室へと戻ると、優太はカバンの中から文庫本を取り出した。
学校でも家でも透明人間のような存在である優太の唯一の心の拠り所は、本の世界だ。
読書が趣味の優太はファンタジージャンルを好んで読んでおり、特に好きなのが異世界転生ものだった。
これまでいた世界からある日突然勇者として異世界に転生してしまった主人公が仲間たちと共に魔王討伐の旅に出る『天空の勇者』シリーズや交通事故で命を落として転生した先が漫画の登場人物である悪役令息だったことから破滅の未来を阻止するために奮闘する『悪役令息の奮闘記』シリーズを特に好んでいた。
『天空の勇者』シリーズの最新刊をようやく手に入れることができたので優太はそれを読み進めた。
魔王討伐に向けて剣を片手に戦う勇者のその姿や破滅の未来を阻止するために奮闘する悪役令息のその姿は、まさに優太が憧れている“誰かに必要とされる人生”そのものであった。
「ーー俺も異世界に転生したいな…」
本のページをめくりながら、優太は呟いた。
* * *
その日も優太はいつものように起きて着替えを済ませると家を出た。
コンビニで安い菓子パンとミルクティーの昼食を購入すると、優太はいつものように学校へと足を向かわせた。
横断歩道の信号が青に変わって足を踏み出したその時だった。
「危ない!」
悲鳴のような声が聞こえたので視線を向けると、優太の目の前にトラックが迫っていた。
「あっ…」
クラクションとブレーキ音が鳴り響いたかと思ったら、優太の躰は大きく宙に浮いていた。
「おい、人がトラックに轢かれたぞ!」
「救急車を呼べ警察を呼べ!」
そんな声が聞こえたような気がした。
躰はぶつかったはずなのに、痛みは不思議と言っていいほどになかった。
(ああ、俺は死ぬんだな…)
と、優太はそんなことを思った。
(目覚めた先が異世界だったらいいな…)
優太はそう思いながら、目を閉じた。
プツン…と、耳の音で何かが切れたような音がした。




