第九話
倉庫前。積み込み用のパレットの脇。
アオイは膝に手をついて腰を突き出し、肩で息をしていた。
「ハァーッ…ハァーッ…」
「おら、へばってる場合じゃないぞ」
「もう無理ッ…ダメェ…ッ」
額から顎へ汗が伝い、コンクリートに点を打つ。
まだ荷は半分も載っていない。杏は段ボールを二つ重ねて抱えたまま、涼しい顔で通り過ぎていく。
「しょうがねえな。ほら休んでろ」
杏が顎で示した先には、倉庫の軒下に日陰があった。
アオイはふらふらとそこへ辿り着き、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。先程自販機で買った麦茶のペットボトル。頬に当てるとひんやり心地よかった。
その視線の先で、杏は黙々と段ボールを荷台へ積み上げていた。抱えて、歩いて、置く。抱えて、歩いて、置く。ペースがまるで落ちない。
倉庫の高い天井の下で、荷の山だけが規則正しく減っていく。しばらくして。
「積み込み完了。いくぞ」
軍手を外しながら杏が戻ってきた。
アオイは日陰から、ジットリとした目で彼を見上げた。
「ねえ」
「ん?サインはもらったぞ?」
「違うわよ。あんた、もしかして…ズルしてる?」
杏の動きが止まった。真顔だった。それから、雷にでも打たれたように目を見開いた。
「…なんてこった。その手があったか!」
「ただの脳筋か」
アオイは深いため息とともに立ち上がった。荷重を打ち消す魔法が使えるのに、汗だくで手積みをしていたのだ。
世の中には宝の持ち腐れという言葉があるが、腐らせる前に存在を忘れている男がここにいた。
トラックは荷物を載せて、また走り出した。
♢
疲れが勝ったのだろう。アオイは助手席で寝てしまっていた。シートに沈んだ小さな頭が、路面の継ぎ目を拾うたびにこくり、こくりと揺れる。
杏はエアコンの風向きを少しだけ変えてやり、あとは前だけを見て走った。
窓の外はいつの間にか茜色を通り越し、すっかり日も落ちてしまっていた。
——ふとアオイが目を覚ましたとき、景色は止まっていた。エンジン音がない。振動もない。どこかの物流センターの敷地らしい。隣を見ると、運転席には杏もいなかった。
「…?」
窓を下ろして顔を出す。夜の構内灯の下、バックブザーが聞こえてきた。荷下ろししたパレットを載せたフォーク。それを慣れた手つきで切り返している杏がいた。
アオイはドアを開け、ステップを降りた。
「手伝うよ」
「あん?もう終わったよ」
フォークリフトから降りてきた杏は、キーを指先で回しながら言った。降ろされた荷は、すでに綺麗に整列している。
「…起こせばいいじゃん」
アオイは口を尖らせた。杏はひらひらと手を振る。
「気にすんな。ちょっと車置かしてもらえるからさ。風呂行こうぜ」
「風呂?」
「この先に24時間営業のスーパー銭湯があるんだよ。風呂&仮眠に最適ってな」
運送屋の生活の知恵というやつだった。
♢
「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ァ゙」
風呂からあがった杏が脱衣所から出ると、休息所の方から人間のものとは思えない声が聞こえてきた。
声の主は探すまでもなかった。マッサージチェアに沈み込み、揉み玉に背中を蹂躙されながらくつろぐアオイである。
「これは極楽だわ〜ア゙ア゙ァ゙」
館内着の他の客が、ぎょっとした顔で距離を取っていく。杏はそんなアオイを横目にスルーして、奥のリラックスルームへ進んだ。
リクライニングシートに寝そべる。湯上がりの体に空調がちょうどいい。ウトウトと意識が溶けかけた頃、隣のシートが軋んだ。薄目を開けると、案の定アオイがやってきていた。
「別に隣じゃなくてもいいんだぞ」
「ってことは隣でもいいってことじゃない」
理屈が通っているような通っていないような返しとともに、アオイはシートを倒した。
浴衣の胸元がだいぶ無防備だった。
「せめて浴衣の中にシャツ着て下さい…」
「サイッテーっと言いたいところだけど、見るだけなら許してあげる」
「俺を犯罪者にするんじゃない」
「いや成人してますけど?あたしが魅力的なんだからしょうがなくない?」
「…時々起こるヒステリー発作はなんなのよ?」
「目に入っちゃうのと視姦は違うでしょが」
「はあ」
もはや反論する気力もなかった。天井の照明は絞られていて、館内放送の小さなオルゴール音だけが流れている。
しばらくの沈黙のあと、アオイが天井を見たまま口を開いた。
「でね?色々考えたんだけど…」
声のトーンが、少しだけ変わっていた。
(謹慎って言われたら反省するよなぁ)
杏は神妙な話が来るものと身構えた。命令無視。機体の重大損壊。二週間の謹慎。考えることは山ほどあるはずだ。
「アオイって呼んでもいいから…杏くんって呼んでも…イイ?」
「そっちかい!」
「へ?」
きょとんとした顔がこちらを向いた。本気で分かっていない顔だった。杏は口元まで出かかった説教を飲み込み、ふっと息を吐いた。
「なんでもない…今日はお疲れ様、アオイ」
「杏くんも、お疲れっ」
薄暗がりの中でも、その顔が綻んだのが分かった。
その後は、時々ぽつぽつと会話をしたり、互いにスマホを眺めたりしているうちに、二人とも寝落ちしてしまっていた。
♢
それから数日後。
配送を挟みながら走り継いだトラックの前方に、ようやく目的地の研究機関が見えてきた。山あいの盆地に、白い建物群が固まっている。
「見えたぞー。あれだあれ」
「ながかったー…!」
アオイがシートの上で伸びをした、その時だった。
——突然の地鳴り。
腹の底を揺らす震動とともに、研究所の向こうの山裾で土砂が跳ね上がった。もうもうと立ち込める地煙。それが風に流されて晴れていく。
現れた輪郭に、アオイの顔から血の気が引いた。
「ウソでしょ…!なんでアノマリー!?」
こんな場所に。ANGERの防衛圏から何百キロも離れた、この場所に。
「もしかして手遅れってやつ?」
「ちょっと!間に合わせなさいよ!」
「…荷台、切り離すぞ」
杏の声が一段強くなった。ブレーキ。エアの抜ける音。カプラーが外れる金属音を残して、トレーラーヘッドだけになったトラックが再加速する。
研究所のゲートを突っ切り、構内へ滑り込んだ。建物から白衣の研究員たちがばらばらと飛び出してくる。
「おお来たぞ!」
「いやアノマリーもきた!」
歓声と悲鳴が半々だった。杏は運転席から降り、腰に手を当てた。
「よし間に合ったな」
「いやコンテナないじゃないですか!?」
研究員の一人が、ヘッドの後ろの何もない空間を指差した。先ほど切り離してきた荷台は、当然ここにはない。試験段階の新型リアクターを、何に載せて持ち帰るというのか。
「この脳筋!どーやって持ってくのよ!」
「はあ。ちょっとまってねー」
アオイの怒声を軽く受け流し、杏はポケットからスマホを取り出した。地鳴りが続く中、慣れた調子で耳に当てる。
「あ、もしもし先輩ですか、お疲れ様ですー。首尾どうですか?あ、いけます?わかりましたー」
それだけだった。通話時間、十秒足らず。杏はスマホをしまい、呆気にとられる研究員たちとアオイをぐるりと見渡した。
「おいてめえら。今から見るもの聞くもの、すべて秘中の秘。墓までもってけや」
山裾で、アノマリーがまた一歩、大地を踏んだ。
その震動の中で——杏は静かに、胸の前で手を組んだ。




