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薬の匂いは嘘をつかない~幕末に転生した女医、歴史の闇を暴きます~  作者: 楠木 悠衣


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第1話「死の匂いがする」

産科医・桐嶋杏、三十二歳。


大学病院で緊急帝王切開の執刀中だった彼女の人生は、その瞬間まで極めて普通だった。


少なくとも本人はそう思っていた。


「先生、胎児心拍五十台です!」


研修医の切迫した声。


麻酔科医の指示。


モニターの警告音。


開腹した子宮の向こうで待つ、まだ見ぬ命。


杏は術野から目を離さず、冷静に指示を飛ばした。


「吸引。鉗子ください」


あと数分。


あと数分で赤ちゃんを取り上げられる。


そのはずだった。


突然、視界が白く弾けた。


誰かに背中を押されたような感覚。


落下にも似た浮遊感。


そして——。


次に意識を取り戻したとき、最初に気づいたのは匂いだった。


病院の匂いではない。


消毒薬でもアルコールでもない。


潮の匂い。


生の海の匂いだった。


それに混じる土と草。


薪の煙。


そして空気の奥底に沈む、鉄臭い気配。


血の匂い。


杏はゆっくりと目を開いた。


見慣れた手術室の天井はなかった。


代わりに見えたのは、煤けた木の板張りだった。


「……は?」


声が漏れる。


身体を起こそうとして、違和感に気づいた。


軽い。


あまりにも軽い。


三十二年間使い続けた自分の身体ではない。


布団から伸びた腕は細く、しなやかだった。


日に焼けた少女の腕。


どう見ても自分ではない。


その瞬間だった。


記憶が流れ込んできた。


洪水のように。


知らないはずの景色。


知らないはずの人々。


知らないはずの人生。


楠本イネ。


父はシーボルト。


異国の血を引く少女。


長崎を追われ、宇和島近くの卯之町で暮らしている。


そして今は——十七歳。


杏は息を呑んだ。


同時に理解してしまった。


自分の記憶も残っている。


大学病院。


医局。


手術室。


患者たち。


すべて覚えている。


だがそれと同じくらい鮮明に、楠本イネとしての人生も存在していた。


どちらも夢ではない。


どちらも本物だった。


混乱しそうになる意識を押さえ込み、杏は深呼吸した。


三秒吸う。


四秒止める。


五秒かけて吐く。


極限状態で感情を制御するための習慣だった。


そこで声がした。


「お目覚めですか、お稲さん」


振り向く。


五十代ほどの男が正座していた。


穏やかな顔立ち。


だが目だけは鋭い。


患者を診る人間の目だった。


名前が自然に浮かぶ。


二宮敬作。


医師。


そしてイネを引き取った人物。


「ここは……」


「卯之町です」


敬作は静かに答えた。


「三日間、高熱で寝込んでおられました」


卯之町。


嘉永七年。


西暦一八五四年。


ペリー来航の翌年。


幕末。


日本が変わり始めた時代。


杏は思わず額を押さえた。


転生。


そんな馬鹿げた言葉しか思い浮かばない。


しかし現実だった。


目の前の木造家屋も。


少女の身体も。


流れ込んだ記憶も。


すべて現実だ。


敬作が気遣うように言う。


「水をお持ちしましょうか」


杏は首を振った。


代わりに尋ねる。


「先生」


「はい」


「患者はいますか」


敬作が目を瞬かせた。


「患者?」


「今、診ている人です」


数秒の沈黙。


そして敬作は答えた。


「産後三日の女性が一人」


杏の思考が一瞬で切り替わった。


産後三日。


発熱。


危険な組み合わせだ。


「熱は?」


「高いです」


「悪露は」


「多い」


杏は布団を跳ね上げた。


「案内してください」


「お稲さん?」


「急いでください」


医師としての本能が告げていた。


間に合うかもしれない。


まだ助けられるかもしれない。


幕末だろうが何だろうが関係ない。


目の前に患者がいる。


それだけで十分だった。

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