第50話:出発の準備と、手放せない汚れ
審議停止の公示が王城の掲示板に貼り出されたのは、午前十時だった。
屋敷に届いたのは、その三十分後だ。フロード補佐官の使いではなく、王城の公式文書として、正式な封蝋付きで来た。
シリルが受け取って、書斎のテーブルに置いた。
「公示です、お嬢様」
「拝見しますわよ」
私は封を開けた。
ガルベス子爵の公職停止、及び腐敗貴族連合に関わる一連の不正について、王城調査委員会が正式に設置されたことを告げる文書だ。文末に、フロード補佐官の名前が連署されている。
(整いましたわよ。……王都の掃除の正規手続きが、ようやく回り始めましたもの。あとは、委員会が法的な手順で処理を進めますわよ)
私は文書を折り畳んで、シリルに返した。
「保管してくださいまし」
「はい。……昨夜の夕刻、農道を経由した子爵の移動を把握しました。国境に近い宿場に差し掛かったところで、フロード補佐官の手配した衛兵が身柄を確保しています。農道の件は、Sが早い段階で経路を絞り込んでいたおかげですもの」
「同時に、ガルベス子爵の身柄が、今朝の十時半に調査委員会に正式に引き渡されたとの連絡も入っています」
「よろしいですわよ」
私は窓際に立った。
(今回のガルベス子爵は、焼却ではなく法廷という正規の処理場に持ち込んだことになりますわよ。……汚れによっては、燃やすより証拠として残す方が、後の掃除に役立つことがありますもの)
中庭では、リタが石畳を確認していた。いつもの点検作業だ。ただし今朝は、中庭の隅を重点的に確認している。昨夜からの警戒が、まだ続いている。
(隅を確認するのは、正しいですわよ。……ガルベス子爵という大きなゴミが片付いても、隅に溜まった細かい埃は残っていますもの。エステ文官補の件も、まだ解決していませんわよ)
「シリル、エステ文官補の件は今朝の段階でどこまで進んでいますかしら」
「フロード補佐官が、調査委員会の範囲に含めるよう申請しています。……ただし、今日の段階では、単に早朝登城という事実のみです。D-3の内通者として確定するには、もう一段階の証拠が必要ですもの」
「泳がせるということですわよ、今は」
「はい。……委員会の調査が進む中で、証拠が浮かび上がる可能性があります。焦って追えば、逃げますもの」
(その通りですわよ。……細かい埃は、急いで拭えば散りますもの。静かに、自然に集まるのを待つ方が、隅から隅まで集められますわよ)
扇子を膝の上で開いて、閉じた。
「では、今日は王都の件をフロード補佐官に委ねてよいですわよ。……こちらは、別の準備を始めますもの」
シリルが、少し間を置いた。
「フォル・ネビュラですか」
「ええ」
* * :
テーブルの上に、書類を広げた。
シリルが地図を一枚出した。王都から南の街道を経由して、フォル・ネビュラに至るまでの地図だ。
「王都からフォル・ネビュラまで、街道を使えば馬車で四日から五日です。……ただし、目立つ移動になりますもの」
「目立たない経路はありますかしら」
「二つあります。一つは、南の街道を途中まで使って、最終区間だけ漁師の船で港から港へ移動する方法です。二つ目は、商人の荷馬車に便乗する形で、商業経路を使う方法ですもの」
(どちらも、それなりに時間がかかりますわよ。……港の澱は、今すぐ撹拌されているわけではありませんもの。ガルベス子爵からヴェルミへの警告が届いていない以上、フォル・ネビュラはまだ静かなはずですわよ。急ぐより、準備を整えてから行く方が正しいですもの)
「どちらの経路が、より少ない痕跡で動けますかしら」
「商業経路です。……荷馬車の一行は、商業区画の動きに埋もれますもの。ただし、速度が遅くなります。最短で六日から七日かかりますもの」
「リタは商人の格好が得意ですかしら」
扉の横から、チャキ、という音が一つした。
(リタは何でも得意ですわよ。……確認するまでもありませんでしたもの)
「では、商業経路で動く方向で準備を進めてくださいまし。……出発は、早くても明後日以降ですわよ。今日と明日は、委員会に提出する残りの書類の最終確認と、エルナ様への出発連絡を整えますもの」
「承知しました。……それから、一点だけ確認させてください」
「どうぞ」
「フォル・ネビュラに向かう際の、目的の優先順位です。……ヴェルミの処理、Lの正体確認、ラマン・ブックスの老人との接触、エルナ様のお父上の件。複数の目的が重なっていますもの」
私は少し考えた。
(整理しますわよ。……今の段階で分かっていることを、掃除の手順に置き換えますもの)
「最初にやることは、ラマン・ブックスへの接触ですわよ。……ガルベス子爵がLと会った場所として名前が出た以上、まず現地の情報源を確保することが先決ですもの」
「次に」
「港の保管庫を管理しているヴェルミの実態を確認することですわよ。ただし、すぐに処理はしませんもの。……港の底の澱が、どのくらいの量で、どのくらいの範囲に広がっているかを確認してから、処理の方法を考えますわよ。焼却できる種類なのか、まず分別が必要なのかが分からないうちに洗剤を使えば、周囲を傷めますもの」
「エルナ様のお父上の件は」
「それは、ラマン・ブックスとヴェルミの調査の中で、自然に見えてくることを期待しますわよ。……無理に掘り起こそうとする種類のものではありませんもの」
(エルナ様の父上は、三年間どこかにいるということですわよ。……消えた人間は、必ず痕跡を残しますもの。丁寧に拭いて消したつもりでも、隅に一滴だけ残っていることがありますわよ。それを見つけるのが、今回の仕事ですもの)
「承知しました」
シリルが、地図を丁寧に折り畳んだ。
* * *
午後の早い時間に、エルナへの書状を書いた。
『Gへ。
フォル・ネビュラに向かう準備を始めます。出発は、今から二日後の予定です。
現地での接触先について、ラマン・ブックスを最初の経由点として考えています。お父上の件の受取証が、そこに保管されている可能性があると教えていただいた件について、現地での確認を最初に行う予定です。
一点確認させてくださいまし。Sは現在、王都にいますかしら。それとも、すでに移動していますかしら。
C』
封をして、シリルに渡した。
「エルナ様への経路で届けてくださいまし」
「はい。……夕方には返信が来ると思います」
* * *
午後の後半に、一通の書状が届いた。
エルナからではなかった。
フロード補佐官からだ。
シリルが開いて、内容を確認してから、少し表情を変えた。
「お嬢様」
「何ですかしら」
「ガルベス子爵が、今朝の拘束後の最初の聴取で、一つだけ自発的に話したことがあるそうです」
(自発的に、ですわよ。……黙秘を選ばずに話したということは、話すことで何かを守ろうとしている、ということですもの)
「内容はどうですかしら」
「『Lに会ったことは、一度しかない。フォル・ネビュラの霧の深い夜に、ラマン・ブックスで会った。老人ではなく、三十代と思われる人物だった。顔は見えなかった』というものです」
私は扇子を持ったまま、少し止まった。
(ラマン・ブックスで、ですわよ。……ガルベス子爵がLに会ったのが、ラマン・ブックスだということですもの。フォル・ネビュラの港に古書を四十年扱ってきた老人が店を構える、あの場所ですわよ)
(ただし——老人ではなく、三十代。エルナ様の父上は、三年前に「仕事を辞める」と言って消えた人物ですわよ。顔が見えなかった、という言葉が気になりますもの)
「シリル、もう一点補佐官に確認していただけますかしら」
「どうぞ」
「ガルベス子爵がLに会ったのは、いつ頃のことか分かりますかしら」
「書状に記載があります。……『三年前の秋』と子爵が言ったそうです」
(三年前の秋ですわよ。……エルナ様の父上が「仕事を辞める」と手紙を送って消えたのが、三年前ですもの。時期が一致しますわよ)
(ただし——これは、まだ仮説ですもの。ラマン・ブックスで会ったLが、ネーベル・アルバ様だと断言するには、まだ足りないですわよ。フォル・ネビュラで確認するまでは、どちらとも言えませんもの)
私は窓の外を見た。
午後の光が、庭の石畳を斜めに照らしていた。
(エルナ様には、まだこの話を送らない方がよいですわよ。……確認もしていない情報で、父上の件に関して期待を持たせることは、しませんもの。フォル・ネビュラで確かめてから、ですわよ)
「シリル、この話はエルナ様への書状には入れないでくださいまし」
「承知しました。……理由は聞きませんが、正しい判断だと思います」
(シリルは、分かっていますわよ。……いつも通りですもの)
* * *
夕方に、エルナからの返信が来た。
Sが直接届けに来たようで、マルダが玄関で受け取って持ってきた。
『Cへ。
出発の知らせ、受け取りました。
Sは今、王都にいます。ただし、明日の朝には南に向かう予定です。先に移動して、街道の中間地点で合流することが可能です。Sに現地での案内を任せていただければ、フォル・ネビュラの動きにより詳しい人間として動けます。
ラマン・ブックスの主人について、一つだけ伝えておきます。名前はゾーラ・ペイジ。フォル・ネビュラで古書を四十年扱ってきた老人です。父とは旧知の間柄です。父が消える前に、最後に連絡を取っていた人物でもあります。ガルベス子爵の聴取でその名が出たと聞いていましたが、私の方からも伝えておくべきと判断しました。
G』
(ゾーラ・ペイジ。……エルナ様の父上が、最後に連絡を取っていた人物ですわよ。フォル・ネビュラで四十年古書を扱ってきた老人が、霧の刺繍の外套を本棚の後ろに掛けていたということですもの)
(この老人が、何を知っているかですわよ。……受取証だけでなく、それ以上のものを持っている可能性がありますもの)
「Sと合流できますわよ」
シリルが頷いた。
「合流地点の確認と、商業経路の荷馬車の手配を、今夜中に進めます」
「お願いしますわよ」
* * *
夜になった。
書斎の灯りの中で、旅の荷物の最終確認をした。
私が持っていくものは、少ない。
手袋を、通常のものより丈夫な素材のものに替えた。港では、荷物の積み下ろしによる接触が多い。薄い素材では、すぐに傷みますもの。
扇子を一本、旅用の短いものに交換した。
それから、書類入れを確認した。
(木箱から回収した三枚と、ガルベス子爵の鞄から出た書面。それから、セドゥン商会の送金書面の写し。フォル・ネビュラで使う可能性のある証拠書類を、全部持っていく必要がありますもの)
書類を一枚ずつ確認していた時、手が止まった。
ガルベス子爵の鞄の底から出てきた、あの一枚の細い紙だ。
『蓋が開いた。退けよ。』
シリルが保管していたものを、今夜の書類整理の際に改めて見ていた。
(これは、届かなかった言葉ですわよ。……ガルベス子爵が、ヴェルミに向けて送ろうとして、送れなかった言葉ですもの)
(届かなかったから、ヴェルミはまだ知らない。……「蓋が開いた」という事実を、港の底の澱が知らないまま、私がフォル・ネビュラに向かうということですわよ)
私は、その紙を書類入れに入れた。
(持っていきますわよ。……使い方は、現地で考えますもの。ゴミの出し方の指示書は、時として回収物にもなりますわよ)
書類入れを閉じた。
その時、自分の手が目に入った。
手袋を嵌めた手だ。
(……)
(第1章の掃除が、整いましたわよ。委員会が動いて、書類が揃って、証人の保護も確保した。これだけのものを集めるのに、どのくらいの数の人間を動かしたかですわよ。ヴァルス・スラム、宿場の男、フロード補佐官、エルナ様、Sの兄妹——)
(動かした、ではありませんわよ。……流れに落とされて流されてきた人間を、別の流れに誘導したということですもの。それが掃除人の仕事ですわよ。汚れを焼却するだけではなく、流れそのものを整えることですもの)
(でも——)
私は、手袋の上から自分の指先を見た。
(ガルベス子爵が「殿下は関係ない、一人でやった」と言った時、私は確認しましたわよ。庇っている誰かがいる、と判断しましたもの。それは正しい判断ですわよ)
(ただし——庇われた誰かが、本当に「関係ない」可能性も、ゼロではありませんわよ。確認しないまま、「関係ある」という方向で動いているということですもの。それは、汚れを確認する前に洗剤を使うことと、同じ種類の危うさですわよ)
(……これが、A-1の話ですもの)
私は手袋の指先から目を離した。
(今は、考えすぎですわよ。……フォル・ネビュラの準備をしますもの)
扇子を取り上げた。
開いた。
閉じた。
(この一章分の掃除で、私が「落ちない汚れ」として持ち歩くことになるものが、いくつか増えましたわよ。それが何なのか、まだ全部は分かっていませんもの)
(分からないまま、次に向かうということですわよ。……掃除人とは、そういうものですもの。綺麗にした後の部屋に残る、自分の足跡のことは、考えないことにしていますわよ)
書斎の灯りが、ゆっくりと揺れた。
* * *
翌朝。
出発の準備が整ったことを、シリルが確認した。
「商業経路の荷馬車は、今日の夕方に南の商業区画で合流できます。……Sとの合流地点は、街道の第一中継点・ペルム宿場ですもの。今日の夕方に出発すれば、明後日の午前には到着できます」
「よろしいですわよ」
「それから——マルダに、不在の間の屋敷の管理を任せることについて、昨夜のうちに申し伝えました。問題ありませんもの」
「マルダは何か言いましたかしら」
「『お嬢様のご不在中に、埃が一粒でも積もったら報告します』と申していました」
(マルダらしいですわよ。……良い人ですもの)
「それから、フロード補佐官への挨拶書状を用意しましたもの。フォル・ネビュラでの調査を開始することと、連絡は引き続きエルナ様の経路で行う旨を記しています」
「届けてくださいまし」
「はい。……出発前に、王城の補佐官付きの文官に渡してまいります」
リタが、書斎の扉の前から動いた。
外套を着ている。旅向きの厚手の素材だ。昨日の夜から、すでに着替えが済んでいた。
(今朝が出発の準備の最終日ですわよ。……今日の夕方に屋敷を出たら、次にここに戻るのは、フォル・ネビュラの掃除が終わってからになりますもの)
私は書斎を見回した。
書類は全部整理してある。テーブルの上は、いつも通り、紙一枚乱れていない。
(良い状態ですわよ。……出かける前の部屋は、帰ってきた時の自分への手紙ですもの。整っていれば、帰ってきてすぐに次が始められますわよ)
* * *
出発の一時間前に、マルダが扉を叩いた。
「お嬢様、出発前にご用意できておりますわよ」
「ありがとうございますわよ、マルダ」
小さなサロンに移った。
テーブルの上に、茶器が置かれていた。
ポットから注がれたのは、濃い赤みがかった茶色の液体だ。
(……これは、見慣れない色ですわよ)
「マルダ、これは何の茶葉ですかしら」
「はい。……昨日、商業区画の店で仕入れました。フォル・ネビュラの近くの産地から来ている茶葉だと伺いまして。港町の塩気のある空気の中で育つ茶葉だそうで、少し渋みと、後から来る甘みが特徴だと教えていただきましたわよ」
(フォル・ネビュラの産地の茶葉ですわよ。……マルダが、出発前に用意してくれたということですもの)
一口飲んだ。
最初に来るのは、確かな渋みだ。舌の両側に、きゅっとした感覚が来る。
そして——二口目を飲む頃には、渋みの後ろから、薄い甘みが滲んでくる。
(面白い茶葉ですわよ。……最初に渋くて、後から甘い。港の風の茶葉ですもの)
マルダが、小さな焼き菓子を皿に乗せて添えた。
「こちらも、同じ産地の菓子だそうで。……干した果物を生地に練り込んだものだそうです。港では、長い航海の前後に食べる習慣があると、お店の方が教えてくださいましたわよ」
一口食べた。
ほんのりした甘みと、干した果物の酸みが混ざっている。素朴な菓子だ。飾り気がなく、ただそこにある種類の甘さだ。
(港の菓子ですわよ。……航海の前後に食べるということは、行く前と帰ってきた後に、同じものを食べるということですもの)
「シリル、これを帰ってからも飲みたいですわよ」
「では、帰港用の茶葉として保管しておきます」
(帰港、ですわよ。……フォル・ネビュラに向かう前に、「帰る」という言葉が出ましたもの。それは、帰ってくることを前提にしているということですわよ)
(当たり前ですもの。……掃除が終わったら、帰りますわよ)
茶を、もう一口飲んだ。
渋みと甘みが、今度は最初から混じって来た。
(慣れてきましたわよ。……二杯目は、渋さより甘さの方が少し強いですもの)
リタが、サロンの扉の前で静かに立っていた。
菓子を一つ、マルダが差し出した。
リタが、小さく受け取った。
音を立てずに食べた。
(リタも飲みますかしら、と聞こうとして、止めましたわよ。……リタは、黙って菓子を受け取りましたもの。それで十分ですわよ)
サロンの窓から、庭が見えた。
今日の空は、雲が少なく、高い青だった。
(良い出発の日ですわよ。……港に向かうには、晴れた空の方が、気分が整いますもの)
「参りますわよ」
私はカップを静かに置いた。
「フォル・ネビュラの澱を、きちんと分別してまいりますもの」
シリルが、微かに笑った。
「エコな処理を心がけます」
「よろしいですわよ」
リタが、扉に手をかけた。
チャキ、という音が、サロンに一つ響いた。
屋敷を出た。




