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第19話:シュラッセは、排水口の底に溜まる型のゴミでしたわ

 謁見の間は、朝の光が入らない。


 王城の北棟に位置するこの部屋には、窓が一つしかない。東向きの細い窓からわずかな光が差し込んでいるが、それでも部屋の奥の方は薄暗い。燭台が三本、壁際に並んでいる。


 国王陛下は、いつものように玉座ではなく、作業用の長机の前に座っていた。


 私が報告書の束を差し出すと、陛下は一枚一枚、丁寧に繰った。


 四十番から四十五番まで。L勘定の目録。ダスト侯爵家傍系事業の送金。ムーアの供述。そして、クロフトと財務管理局の往来記録の確認依頼。


 陛下が顔を上げたのは、四十三番の後だった。


「ダスト侯爵家の傍系事業から、L勘定への送金があった」


「はい。日付は今年の三月です。……解釈は加えておりません。事実の記載のみです」


「賢明だ」


 陛下がそれだけ言って、続きを読み始めた。


 私は正面を向いたまま待った。


(陛下の顔色が、四十三番を読んだ後から変わった。……ダスト侯爵家という名前が出たことで、何かを考え始めているのでしょうね。陛下にとってもダスト侯爵家は、一筋縄ではいかない相手のはずですわよ)


 ガルベス子爵は、腐敗貴族とはいえ末端だった。シュラッセは財務管理局の人間だ。しかしダスト侯爵家は、侯爵位を持つ高位貴族だ。


(モモ・ダストが、L勘定に資金を流していたとしたら。……塵は、思っていたよりずっと深いところまで積もっていましたわ)


「ヴィクトリア嬢」


「はい」


「シュラッセについては、今日動く。財務管理局への査察を、正式に命じる」


「承知いたしました」


「ムーアについては、自首を記録した上で、取調べを開始する。クロフトの件と合わせて、シュラッセとの関係を精査させる」


「クロフトの財務管理局への訪問記録についても、確認をお願いいたします」


「既に手配している。……昨夜のうちに、秘書室へ先行の書状を送ってもらった」


 私はわずかに目を細めた。


(シリルが昨夜のうちに。……私が頼む前に動いていたのか、それとも陛下の秘書室が別途確認していたのか。どちらにせよ、既に動いている)


「ありがとうございます」


「そして」


 陛下が報告書から顔を上げた。その目が、私を真っ直ぐに見た。


「シュラッセの身柄確保については、あなたに立ち会いを頼みたい」


 静かな謁見の間に、その言葉が落ちた。


(立ち会い。……陛下が私に、シュラッセの確保に同席するよう求めている)


「理由をお聞きしてもよろしいですか」


「シュラッセは、今日の査察を知った段階で何かを処理しようとする可能性がある。……その動きを、あなたが見ていてくれれば、こちらが見落とすものが減る」


(それだけではないですわよ。……陛下は「あなたが見ていれば」と言った。これは私の観察眼への信頼の表明であると同時に、万一の際には私に対処してほしいという意味が含まれている)


「承知いたしました」


「今日の午後、財務管理局へ。近衛を五名、同行させる。……あなたはご自身の判断で動いていただいて構わない」


「リタを連れて参りますわ」


「ヴィクトリア嬢、一点確認させてください」


 陛下が少し表情を変えた。いつもの「陛下」の顔ではなく、純粋に確認している顔だ。


「シュラッセを、焼却する必要が生じた場合は?」


「財務管理局という公共の場所ですわよ。……焼却は、最終手段です。まず書類と身柄の確保を優先いたします」


「万一の際は」


「王城内通者の前例に倣います。陛下への報告を最優先として」


 陛下が一つ頷いた。


「では、頼む」


* * *


 謁見の間を出ると、廊下の端でシリルが待っていた。


「書状は昨夜のうちに入れておきました」


「知っていますわよ」


「陛下から何か」


「今日の午後、財務管理局へ参りますわよ。シュラッセの身柄確保の立ち会いですわ」


 シリルの顔が、わずかに変わった。驚きではなく、計算している顔だ。


「立ち会い、ということは、前面には出ない形ですか」


「近衛が五名同行します。私は後方から見ていますわよ」


「なるほど。……ただし」


「何かしら」


「シュラッセという人物は、長年財務管理局に根を張ってきた人間です。局内に自分の目と耳を持っていると考えるべきです。査察の動きを察知した場合、書類の処理を始める可能性がある」


「陛下も同じことを言っていましたわよ」


「では、私からもう一点だけ」


 シリルが少し声を落とした。


「シュラッセが書類を処理しようとした場合、最も早い廃棄経路はどこだと思われますか」


(最も早い廃棄経路。……財務管理局の建物内には、書類を破棄するための焼却炉が設置されているはずですわ。大量の帳簿と記録を処理する官庁施設として、それは標準設備です。……ただ、焼却炉は時間がかかる。もっと早い方法があるとすれば)


「排水路ですわよ」


 シリルが少し目を細めた。


「財務管理局の地下には、王都の下水道に繋がる設備があります。古い建物なので、建設当時に設けられたものがそのまま残っているはずですわ」


「水路を使って書類を流す、ということですか」


「書類だけとは限りません。……シュラッセ自身も、その経路で逃走する可能性がありますわよ」


(排水口。……本管の底に溜まったゴミが、排水口から逃げようとする。適切なメタファーですわね)


「リタに地下の監視を頼みますわよ。近衛が正面から入る前に、まず地下の排水路の出口を塞いでおく必要がありますわ」


「地下図面の入手は可能ですか」


「フロード補佐官に確認してください。……王城の設備管理室に、古い建物の図面が保管されているはずですわよ」


「今からでは、午後に間に合いますか」


「間に合わせてくださいな」


 シリルが一礼した。


「承知しました。……では、私は図面の入手と、フロード補佐官への連絡に回ります」


「ええ。ムーアの王城引き渡しはどうなっていますわよ」


「今朝六時に、リタが近衛まで送り届けました。受け取りの確認書をいただいております」


「報告書への記録を忘れずに」


「すでに追記済みです」


(手を動かさなくても、仕事が終わっていますわよ。……いつものことですわね)


* * *


 屋敷に戻ったのは午前の十時を少し過ぎた頃だった。


 午後の立ち会いまでに、四時間ある。


 書斎でリタに今日の仕事を説明した。


「財務管理局の地下に、排水路があります。シュラッセという人物が、そこから逃走あるいは書類を廃棄しようとする可能性がありますわよ。……午後の査察が始まる前に、地下の出口を抑えていただく必要がありますわ」


 リタが静かに頷いた。


「図面は、昼前にシリルが持ってきますわよ。それを見てから動線を確認してください」


 リタが右の人差し指を立てた。一人で行く、という意味か。


「はい、あなた一人でお願いしますわよ。近衛が五名いますから、正面の対処には人手が足りています。地下さえ抑えていただければ」


 リタの目が少し変わった。今日の仕事の形が見えた、という目だ。


 チャキッ。


「それから」


 私は少し間を置いた。


「シュラッセという人物のことですが」


 リタが視線を向けた。


「正面から構えた相手ではないと思いますわよ。長年の官僚として、地味で、目立たない。ゴミで言えば……排水口の底に溜まるタイプですわね。長期間かけて少しずつ積もって、誰も気づかないうちに管を詰まらせる」


 リタが少し首を傾けた。聞いている。


「そういうタイプが一番危ないですわよ。目立つゴミは目につく。でも、排水口の底の汚れは、詰まりが起きるまで誰も見ませんもの。……今日が、その詰まりが表に出る日ですわ」


 チャキッ。


 リタが、一度深く頷いた。


* * *


 昼前に、シリルが図面を持って戻ってきた。


 フロード補佐官経由で設備管理室から取り寄せた、財務管理局の建物図面だ。古い羊皮紙に書かれた設計図と、近年の改修記録を合わせたものだ。


「地下の排水路は、二経路あります」


 シリルが図面の上に指を置いた。


「一つは北側。建物の裏手から王都の主要下水道に繋がっています。……こちらは現在も使用中で、設備が整っています」


「もう一つは?」


「南側。こちらは五十年前の建設当時の旧経路で、現在は廃止されています。……ただし、廃止されているというのは公式記録上の話です。物理的に閉じているかどうかは確認が必要です」


(廃止されているが、物理的に閉じているかは不明。……長年財務管理局に根を張ったシュラッセが、この旧経路の存在を把握していた場合、そちらを逃走路として使う可能性がある)


「南側の旧経路の出口は、どこに繋がっていますか」


「王都の南区の、古い排水溝です。……スラム廃業の倉庫の近くです」


 私はそこで、少し止まった。


(スラム廃業の近く。……またあの場所ですわよ。ドレインの経路は、エストというコードネームと名前の一致も含めて、南区の排水溝を中心に設計されていたのかもしれない)


「シリル、南区の旧経路の出口を、今すぐ誰かに確認させてください」


「協力者がいれば可能ですが、今からでは……」


「フロード補佐官の人員を借りられますか」


「相談してみます。……ただ、時間が限られています」


「では、リタには北側を任せます。南側は、フロード補佐官側が間に合わなければ、スラム廃業の監視ついでに近衛を一名回してもらえるよう陛下にお願いしますわよ」


「書状を出します」


「急いでくださいな」


* * *


 午後の二時、財務管理局の正面玄関前に、私とシリルと近衛五名が揃った。


 リタはすでに、一時間前に地下へ回っている。


 財務管理局は、王都の行政区の中心部にある五階建ての石造りの建物だ。外壁は古く、ところどころ苔が生えている。でも、入口の石段だけは磨き上げられている。(訪問者への顔だけを整えている。……典型的な形ですわよ)


 近衛の隊長が、私の隣で姿勢を整えた。


「ヴィクトリア嬢、査察令状は手元にあります。いつでも動けます」


「では参りましょう」


 私は扇子を持ったまま、正面の石段を上った。


 堂々と。淑やかに。まるで表敬訪問のように。


(ゴミを回収しに来た、と相手に知らせてから動くのは、非効率ですわよ。……でも、逃げ場を塞いでから入るのであれば、正面から入っても問題ありませんわ)


 玄関の受付の文官が、近衛の姿を見て少し顔色を変えた。


「こちらは……」


「王命による査察ですわよ」


 近衛の隊長が令状を提示した。


 受付の文官が、一瞬何かをしようとした。動きかけた手を、私は見た。


「その場で止まってくださいな」


 静かに言った。声量は上げていない。でも、受付の文官の手が止まった。


「連絡を入れようとするのであれば、今夜の取調べの対象リストに追加しますわよ。……あなたが局長代理に何も知らせなかったという証言が、のちのちあなたの役に立ちますわよ」


 受付の文官が、固まったまま手を膝の上に戻した。


(こういう人間は、焼却するには燃費が悪い。……従っている方が得だと分かれば、動きますわよ)


「局長代理の執務室は、どこですか」


「さ、三階の……奥の部屋です」


「ありがとうございますわよ」


* * *


 三階への廊下を進む間、文官たちが慌てて顔を上げた。


 近衛の姿を見て、数名が立ち上がった。何か言いかけた者もいる。でも、近衛が五名で、淑やかに扇子を持った女性が先頭に立っているという組み合わせに、誰もが一拍止まった。


(その一拍が、大事ですわよ。……判断が遅れた間に、こちらはもう次の位置にいますもの)


 三階の廊下を半分ほど進んだ時、シリルが小声で言った。


「お嬢様、北側の地下からリタの信号が来ました」


「何かありましたか」


「北側の排水路の入口に、大量の紙くずが詰め込まれていた、とのことです。……最近、紙を水で流そうとした痕跡があります」


(紙くず。書類を水で流そうとした。……すでに始めていましたのね)


「リタはその紙くずを回収しましたか」


「回収できたものとできなかったものがある、という報告です。流れてしまったものについては、追跡中です」


「南側の旧経路は?」


「フロード補佐官の人員が間に合いました。旧経路の出口、二名が監視中です。今のところ動きなし」


「よろしいですわ。……では、上から参りますわよ」


 廊下の奥、重厚な木のドアが見えた。


 局長代理執務室、という真鍮のプレートが掛かっている。


 私は扇子をパチンと閉じた。


 近衛の隊長が前に出て、ドアをノックした。


 返答はなかった。


 二度目のノックも、沈黙だ。


(不在、ではない。……気配がありますわよ)


「開けてくださいな」


 近衛がドアを開いた。


* * *


 執務室の中は、静かだった。


 静かすぎた。


 大きな机の上に、書類が几帳面に積まれている。ペン立て、インク壺、封蝋の道具。すべてが、整然と並んでいる。


 ただし、机の前の椅子に、誰もいなかった。


(不在。……でも、つい最近まで人がいた気配がある。椅子の向きが少しずれている。書類の上に、インクが乾いていない部分がある)


「シリル」


「はい」


「机の引き出しを確認してください。上の段から順に」


 シリルが手袋をはめて引き出しを開けた。


「上の段、空です。……中の段、文具のみ。下の段」


 シリルが少し止まった。


「何ですか」


「鍵が一本、置いてあります。……財務管理局の設備棟の鍵です」


(設備棟。……建物の別棟ですわね。焼却炉と、それから)


「地下への入口は、設備棟からですわよ」


「南側の旧経路も、設備棟を通る形です」


 私は窓の外を見た。


 財務管理局の中庭を挟んで、石造りの小さな別棟が見える。


「設備棟へ、今すぐ参りますわよ」


* * *


 中庭を横切る間、私はリタへの伝言をシリル経由で送った。


 南側の旧経路の出口を固めるよう。フロード補佐官の人員に、設備棟の裏手を確認させるよう。


 設備棟のドアは、鍵がかかっていなかった。


 内側から、静かな音がしていた。


 ゴボゴボという、水の音だ。


 近衛の隊長が手を上げた。私は一歩後ろに下がった。


 近衛が二名、左右に分かれてドアを抑えた。隊長がゆっくりドアを開ける。


 設備棟の内部は、薄暗かった。


 右手に、古い焼却炉がある。使った痕跡はない。


 左手に、床に埋め込まれた鉄格子がある。そこから、下への梯子が延びている。


 そして、鉄格子の前に、一人の男が立っていた。


 六十代と思われる、細身の男だ。白髪交じりの髪が乱れている。上質な官服を着ているが、袖が濡れていた。


 男が私を見た。


 その目が、一瞬だけ何かを計算した。それから、計算をやめた。


(計算をやめた。……逃げられないと判断したのですわね)


「フォルク・シュラッセ様、ですわね」


 私は静かに言った。


「王命による査察ですわよ。……こちらへどうぞ」


* * *


 シュラッセが鉄格子の前から動こうとしなかった時間は、三秒ほどだった。


 その三秒の間に、シュラッセの目が動いた。近衛の配置を確認している。出口を探している。


 私は扇子を出した。


 開かなかった。ただ、手の中に持った。


(今日は、焼却しない。……陛下への報告の後、正式な取調べを経て処分が決まるまでは、私が勝手に結論を出す場面ではありませんわよ)


(でも、逃がすつもりもありませんわよ)


「シュラッセ様、今日の午前の段階で、ガルベス子爵の取調べで複数の供述が出ております。クロフトの自白も進んでいますわよ。……ムーアも、昨夜自首いたしました」


 シュラッセの顔が、わずかに変化した。


「L勘定の目録も、手元にありますわよ。百四十七件の取引記録、全件です」


 シュラッセが口を開いた。


「……それは、正規の財務処理の記録だ」


「そうですか。では、ダスト侯爵家の傍系事業からの送金も、正規の財務処理として説明していただけますわよね」


 沈黙だった。


(答えられない、ということですわよ。……排水口の底に長年溜まってきた汚れが、今日初めて光に晒された。汚れは、光に晒されれば見えますわよ)


「近衛の方々にお任せしますわよ」


 私は一歩引いた。


 近衛が前に出た。シュラッセが小さく何かを言ったが、聞こえなかった。


 身柄を確保される直前に、シュラッセが一度だけ私を見た。


 その目に何があったか。


 怒りではなかった。諦めでもなかった。


(疲れた目でしたわね。……長年、排水口の底で積もり続けることが、疲れていたのかもしれない)


 私はその目から、目を逸らさなかった。


 でも、何も言わなかった。


* * *


 設備棟の外に出ると、中庭に午後の光が差していた。


 シリルが地下の状況報告を持ってきた。


「北側の排水路の回収物について、リタからの追加報告が来ました。流れ切っていなかった書類の断片が、複数枚回収できています。……内容は照合中ですが、L勘定との関係を示す数字の羅列が含まれているとのことです」


「証拠として使えますわよ」


「はい。……それと、南側の旧経路の出口では、何も出なかった模様です。シュラッセは北側を使おうとしていたようです」


「旧経路の存在は把握していなかったのかしら。それとも、時間が足りなかったのか」


「どちらかは、取調べで明らかになるでしょう」


 私は中庭を少し歩いた。


 財務管理局の石造りの壁が、午後の光の中で、古びた色を見せている。


(長年、ここにいたのですわよ。フォルク・シュラッセは。……官服を着て、书류を整然と積み上げて、帳簿の数字の中に汚れを隠して)


(排水口の底の汚れというのは、自分では汚れだと思っていない場合がありますわよ。少しずつ積もって、少しずつ詰まって、それが当たり前になっていく。……その当たり前が今日、初めて外から見えた)


 扇子を、ゆっくりと開いた。


「シリル」


「はい」


「フロード補佐官への報告は、あなたに任せますわよ。私は今日の立ち会い記録を作りますわ。……それと、地下の書類断片の照合結果は、明日中に届くように手配してください」


「承知しました。……シュラッセの取調べに、何か要望はありますか」


「一点だけ」


「はい」


「クロフトが財務管理局を月に一度訪れていたことの確認。それだけでいいですわよ。他の部分は、王城の担当者に任せますわ」


「かしこまりました」


* * *


 財務管理局を出たのは、午後の四時を少し過ぎた頃だった。


 馬車の中で、私はリタからの報告を受け取った。


 紙片に書かれた短い文字と、一つの動作。リタが右の人差し指で、自分の掌の中央をゆっくり円を描くように動かした。


(詰まりが取れた、という意味かしら。……排水路の詰まりが解消された、というジェスチャーとして私は受け取りましたわよ)


「そうですわよ、リタ。詰まりが取れましたわよ」


 リタが静かに頷いた。


 馬車が王都の石畳を走る。


 私は窓の外を見た。


 午後の王都は、普段通りだ。市場を歩く人々。荷車が通る。子どもが走る。


(この街の排水路の一本が、今日詰まりから解放されましたわよ。……気づいている人間は、ほとんどいない。でも、水は流れるようになった)


 右の手袋に、視線が落ちた。


 白い。


 今日も、汚れていない。


(でも)


 ふと思った。


(シュラッセの最後の目が、疲れていましたわよ。……あの疲れは、悪事への疲れではなかったかもしれない。長年、管の中で詰まり続けることの疲れだったかもしれない)


(それは、私には分からないことですわよ)


 右手の手袋を、左手の指が、そっと触れた。


 触れたことに気づいて、離した。


(仕事中ですわよ。……いいえ、今日の仕事は終わりましたわね)


 それでも、答えは出なかった。


 馬車は、屋敷の方へ向かって、静かに走り続けた。


* * *


 屋敷に戻ると、カスミ弁護士が玄関に来ていた。


「どうだったか、お聞きしてもいいですか」


「シュラッセの身柄確保が完了しましたわよ。書類の断片も回収中ですわ」


 カスミ弁護士が少し息を吐いた。


「……そうですか」


「あなたは今日、どこにいましたの」


「書斎をお借りして、今後の身の振り方を考えていました。……ガルベス子爵の件で私の名前が調書に出てくるとすれば、先に自分の立場を文書化しておく方がよいと思いまして」


「それは賢明ですわよ」


「王城の取調べに対して、どの範囲まで協力するべきか、という問題がありまして。……法廷の人間としては、自分の証言が他の誰かに悪用される可能性を常に考えてしまいます」


「複雑ですわね」


「はい。……でも、ヴィクトリア嬢の方法を見ていると、複雑に考えすぎていたかもしれないとも思います。水路を末端から辿って、詰まりを取り除く。そこに感情を混ぜすぎない」


(感情を混ぜすぎない。……私は感情を混ぜていないつもりでしたわよ。でも、シュラッセの最後の目を忘れられないでいるのは、何かしら)


「あなたが作った文書は、フロード補佐官に送りますわよ。……あなたの協力範囲について、補佐官が正式に整理してくれるはずですわ」


「ありがとうございます」


* * *


 夕方の書斎で、水路図を広げた。


 シュラッセの名前の欄に、「身柄確保・取調待ち」と書き込んだ。


 処理済みの印は、まだつけなかった。取調べが終わり、陛下から最終的な処分の沙汰が下りるまでは、正式に処理済みとは言えない。


(ガルベス、クロフト、マールス、シュラッセ。……第一章の主要な排水管が、全員確保段階に入った。残っているのは)


 水路図の中の、二つの空白を見た。


 一つは、「D」という名前が入るべき箱。


 もう一つは、「霧(G-1)」と書かれた浮いた線だ。


(そして、モモ・ダスト。……これは水路図に描ける汚れではありませんわよ。書類で辿れない。証拠で固められない。人の心に染み込むタイプの汚れは、別の方法が必要ですわ)


 私は水路図を折り畳んだ。


 机の上に、もう一枚、白紙を広げた。


 フォル・ネビュラ、と書いた。


 その下に、小さく。ケルハム。カラミ。セドゥン商会。ベルト・ライス。


(国内の主要な排水管が閉じた後、本管の出口がどこにあるか。……霧の港に、答えがある可能性がある)


「お嬢様」


 シリルが書斎に入ってきた。


「今日の立ち会い記録の下書きをお持ちします」


「後で確認しますわよ。……ありがとうございます」


 シリルが書類を机の脇に置いた。


 それから、白紙の上の「フォル・ネビュラ」という文字を一瞬見た。


「旅程の段取りを始めていいですか」


「ええ。……でも、今夜ではなくてよろしいですわよ。今夜は休みますわ」


 シリルが珍しく、すぐに「かしこまりました」と言わなかった。


「お疲れでしたか」


「疲れとは少し違いますわよ。……シュラッセの目が、気になっているだけですわ」


「シュラッセの、目、ですか」


「疲れた目でしたのよ。……長年排水口の底に溜まっていた汚れの目、というよりは、疲れ果てた人間の目でしたわ」


 シリルが少し考えた。


「それは、あなたを不快にしましたか」


「不快ではありませんわよ。……ただ」


 私は窓の外を見た。夕暮れの王都が、橙色に染まり始めている。


「排水口の底の汚れは、自分が汚れだと気づかないまま積もることがある、と思いましたのよ。……気づかないまま、長年そこにいた人間の目は、ああいう目をするのかもしれない、と」


「そういう意味では、ガルベス子爵とは違う種類の汚れということですか」


「ガルベスは自覚していましたわよ。確信犯です。……でも、シュラッセは自分が詰まりを起こしていることに、途中から気づかなくなっていたのかもしれない」


(それが、お前を免じるわけではありませんわよ。でも、それが気になるということは、私の中にも何かが引っかかっているということかしら)


「お嬢様」


「何かしら」


「自覚のある汚れと、自覚のない汚れ。……どちらが、掃除しやすいと思われますか」


 私は少し考えた。


「自覚のある汚れは、証拠を辿れますわよ。書類で動線が見えますもの。……自覚のない汚れは、証拠が残りにくい。本人の意識の中にしか記録がないから」


「では」


「掃除しにくいのは、自覚のない汚れの方ですわよ。……でも」


 私は扇子を持ち上げた。まだ開かない。


「それが、今日の仕事で私が少し立ち止まった理由かもしれませんわね。自覚のない汚れというのは、自覚のある汚れを全部取り除いた後に残るものですわよ。……第二章で向き合うことになるのは、そういう種類の汚れかもしれない」


 シリルが静かに目を細めた。


「フォル・ネビュラには、霧がある」


「ええ、そうですわよ」


 私はそれだけ言って、扇子を膝の上に置いた。


 書斎の夕暮れが、少し深くなった。


* * *


 夕食は、今夜はカスミ弁護士も含めて三人で済ませた。


 静かな食事だった。


 食後にシリルがお茶の支度をしていると、カスミ弁護士が立ち上がった。


「今夜で、お暇させていただこうと思います」


「今夜?」


「はい。……フロード補佐官から、今日の夕方、連絡をいただきました。身の安全については当面問題ない範囲の確認が取れた、とのことです。王城の取調べに応じる準備もできました。……これ以上ヴィクトリア家にご迷惑をかけるのは、心苦しく思っています」


「迷惑などではありませんわよ」


「あなたはそう言ってくださるでしょうね」


 カスミ弁護士が少し微笑んだ。


「でも、私の次の仕事は、法廷の人間として自分の証言を整理することです。……それは、ここではなく、自分の場所でやるべき仕事だと思っています」


「自分の場所、とは」


「まだ決まっていません。でも、以前の事務所には戻れませんし、新しい場所が必要です。……それを探すことが、今の私の掃除ですわね」


(掃除。……この人は、最後に「掃除」という言葉を使いましたわよ)


「旅立ちには、お茶を一杯いただけますか。ヴィクトリア家最後の」


「もちろんですわよ」


* * *


 シリルが今夜用意したのは、白磁の茶器に注がれた、黄金色のお茶だった。


「これは?」


「フォル・ネビュラ産のお茶です。……今日でカスミ弁護士をお送りするに際して、少し前に取り寄せておいたものです」


「前に?」


「いつかこういう夜が来ると思っておりましたので」


(シリルは、本当に先を読んでいますわよ)


 カスミ弁護士が茶器を両手で包んだ。


「……霧の港のお茶を、王都で飲む。不思議な気分ですね」


「フォル・ネビュラには、行ったことがありますか」


「一度だけ。……若い頃に、修習で立ち寄りました。霧が深い港町でした。朝になっても霧が晴れなくて、船の汽笛だけが聞こえて、何も見えなかった」


「何も見えなかった?」


「でも、全部の音がよく聞こえました。霧があると、音が遠くまで届くような気がしました」


(霧があると、音が遠くまで届く。……それは、私には気づかなかった視点ですわよ)


 私もカップを手に取った。


 フォル・ネビュラ産の茶は、透明感のある黄金色だ。香りは、岩茶とも茉莉花ともアッサムとも違う。海の近くの、風に当たったような、少し塩気を含んだような香りだ。


 一口飲んだ。


(薄い甘みと、かすかな潮の香りが混じっている。……霧の港の茶ですわよ)


「カスミ弁護士」


「はい」


「いつかフォル・ネビュラで、今度はご自身の仕事として、その霧の中にいてくださいな」


 カスミ弁護士が少し目を細めた。


「……もしかして、何かを予感していますか」


「予感ではなく、計画ですわよ」


「そうですか」


 カスミ弁護士がカップを傾けた。


「では、フォル・ネビュラで、またいつか」


「ええ。……でも、その前に、今夜はゆっくりお過ごしくださいな。残りのお茶を飲み干してから出発してください」


「はい」


 リタが廊下でチャキッと音を立てた。


 出発の際には馬車の手配をする、という意思表示だ。


 誰も何も言わなかったが、その音で全員が分かった。


 ダイニングの窓の外、夜の王都に、静かな風が吹いていた。


 フォル・ネビュラ産の茶の、かすかな潮の香りが、夜の室内に溶けていった。

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