第94話 白いドレスの幸せ
白いカーテンがやわらかに揺れる試着室。
その奥から、ゆっくりと紗彩が現れた。
――純白のドレス。
胸元に繊細なレース、腰から広がる流麗なシルエット。
髪はアップに結い上げられ、シンプルなティアラが輝いていた。
「……どう、ですか?」
恥ずかしそうに裾をつまむ紗彩の声は小さく、でも震えるように真剣だった。
俺は思わず言葉を失う。
秘書として何年も隣にいてくれた彼女が、今、目の前で“花嫁”という特別な姿になっている。
いつもは冷静で仕事に隙を見せない彼女が、こんなふうに俺の反応を待っている。
「……紗彩」
「は、はい」
「……綺麗だよ。本当に」
たったそれだけの言葉しか出なかった。けれど、嘘偽りなく、心の底からの感情だった。
紗彩の瞳が潤み、ほんのり赤く染まる。
「……隆行さん。わたし……ずっと夢だったんです。あなたの隣で、こうして花嫁になることが」
彼女の声は震えながらも、はっきりとした想いに満ちていた。
思い返せば、会社を追われて孤独だった俺を、最初に支えてくれたのは紗彩だった。
全てを失って絶望したあの時、誰よりも信じてくれたのも彼女だった。
「隆行さん……私は、あなたの傍にいられるだけで幸せです。けれど……今日だけは、わがままを言わせてください」
「わがまま?」
「……世界で一番、愛される花嫁になりたいんです。あなたに」
その言葉に胸を突かれた。
彼女はいつも、自分より俺や会社や仲間を優先してきた。
だからこそ、今日くらいは――。
俺は歩み寄り、そっと紗彩の手を取った。
「紗彩。約束するよ。今日も明日も、これからも、俺はお前を一番に愛していく。だから、安心して――世界で一番幸せな花嫁になれ」
紗彩の大きな瞳から、涙が一粒、零れ落ちた。
「……はい……隆行さん……」
その瞬間、試着室の外から小さな拍手が聞こえた。
「おーおー、すっかりラブラブだな」
フィルリーナがのんびり顔を覗かせ、後ろで玲緒奈がにやにやしている。
「お父さん、泣かせちゃダメだよ? でも……ちょっと羨ましいな」
紗彩は涙をぬぐいながら笑い、俺の手をぎゅっと握った。
「隆行さん。……私、あなたと結婚できて、本当に幸せです」
――この人を、絶対に離さない。
心に刻んだ決意は、白いドレスに包まれた彼女の笑顔よりも強く、熱く輝いていた。
ドレス試着が終わったあと、俺たちは控え室で休憩していた。
紗彩は落ち着いた笑顔で紅茶を口にしている。だが、その隣では――。
「隆行。次はフィルが選ぶ。花嫁ドレス、フィルが着る」
フィルリーナがすっくと立ち上がり、試着室の方を指差した。
「えっ……ちょ、ちょっと待ってフィルちゃん! 今日はお母さん――じゃなくて紗彩さんのための日だから!」
玲緒奈が慌てて止めに入る。
「問題ない。結婚式はお祭り。フィルもドレス着る。隆行の隣に立つ」
「だーめっ! そんなのズルい! もしフィルさんが先にお父さんの隣に並んだら……私の立場なくなっちゃう!」
真剣な表情で叫ぶ玲緒奈に、フィルはのほほんとした笑みを浮かべる。
「なくならない。玲緒奈も隣に立てばいい。両側、バランス良し」
「な、なんで“バランス”とかで語っちゃうの!? こっちは恋人なんだからっ!」
ふたりのやり取りに、紗彩はくすっと笑いをこらえ、俺は頭を抱えるしかない。
「お前たち……いや、ふたりとも落ち着け。今日は式の準備であって、お前たちの“誰が花嫁ドレスを着るか大会”じゃないんだ」
俺が諭すように言うと、フィルはこてんと首を傾げてから、にっこり。
「わかった。じゃあ、フィルは“花嫁ドレス姿の練習”。本番じゃない。予行演習」
「だからダメだってばぁぁぁぁ!」
玲緒奈の悲鳴が響いた。
しばらくして――。
結局、試着室からは真っ白なドレスに身を包んだフィルが現れ、堂々とポーズを決める。
「隆行、どう? 似合う?」
「……いや、似合ってるけども」
「でしょ。フィル、花嫁の才能あり」
その横で、顔を真っ赤にしている玲緒奈がむくれた声を出す。
「お父さん、今度は私にも選ばせて! 私だってドレス着て、隣に立つんだから!」
「おいおい……お前まで張り合わなくても」
紗彩は頬に手を当てて苦笑し、静かに俺の耳元で囁く。
「ふふ……でも、こうして賑やかに競い合ってくれるのも、幸せの証ですね」
俺は深く頷いた。
――確かに。みんながこうして笑ってくれるなら、どれほど騒がしくても悪くない。
むしろ、この喧騒が俺にとっての宝物なんだ。
控室の大きな姿見の前で、俺は白いタキシードの襟を直していた。
胸に飾られた一輪の薔薇がやけに重く感じる。これから歩くのは人生で最も特別な道――。
「まさかアンタがこんなに立派になるとはねぇ……」
背後から聞こえたのは母の声だった。
豪快に笑いながらも、目尻に滲む涙は隠しきれていない。
「日本経済を背負う社長だなんて! 私の息子ながら鼻が高いわ!」
「……話も聞かずに勘当したくせに、調子の良いこった」
俺が苦笑気味に返すと、母は手を振ってケラケラ笑う。
「細かいこと気にしなさんな! あんたが幸せならそれで十分だよ」
「……ほんと、俺の母親だな」
背中をバンと叩かれる。
力強さも、どこか温かいその感触に、俺は自然と笑みを浮かべていた。




