第91話 爽やかな午後とお祭り準備
「ちょっと待ったーーっ!!」
扉が勢いよく開く。
振り返ると、専属秘書の紗彩が仁王立ちしていた。
「紗彩?」
「な、なんですかこれはっ!」
指差す先には、俺の膝の上ですやすや眠るフィル。
その光景を見た瞬間、紗彩の頬がぷくっと膨らむ。
「……フィルさん、ずるいです! そんな堂々と隆行さんのお膝を独占するなんて!」
「問題無い」
フィルは目を開けることなく、淡々と答えた。
「ここはフィルの特等席」
「と、とく……特等席!? な、なんですかそれ!」
「隆行の膝。イコール、フィルのベッド。これは常識」
「常識じゃありませんっ!」
紗彩の声が裏返る。頬は赤く、手元でくしゃっとハンカチを握り締めている。
正妻でありながら、フィルに押し切られるのが悔しいのだろう。
その視線が、やがて俺に突き刺さった。
「……隆行さん」
「な、なんだ」
「わ、私だって……! 甘えたいです!」
次の瞬間、紗彩は決意したように駆け寄り、俺の反対側へちょこんと腰を下ろした。
フィルが左、紗彩が右。両膝を完全に奪われた形になる。
「ちょ、紗彩まで……!」
「いいじゃないですか! 私は正妻なんですから! こういう時くらい、甘えても!」
ぱっと俺の腕を抱きしめ、胸に顔を埋める紗彩。
彼女の柔らかな香りが広がり、さすがに俺も動揺した。
一方のフィルは、微かに口元を緩めただけ。
「……隆行、重くない?」
「いや……まあ、それなりに」
「大丈夫。フィルは軽い」
「わ、私だって軽いです!」
またもや火花を散らす二人。
「はあ……わかった。二人とも、好きにしてくれ」
結局俺は両方を拒めない。
紗彩は嬉しそうに「やった♡」と囁き、腕に力を込める。
フィルは相変わらず静かに目を閉じ、俺の胸に顔を埋めたまま「勝利」と小さく呟いた。
――両膝の温もり。
右からは、正妻としての誇りと甘えを全力でぶつけてくる紗彩の温かさ。
左からは、世界がどうであろうと一切気にせず、ただ自分の安らぎとして俺を選んでくれるフィルの静けさ。
それぞれ違う形の「愛」が重なって、俺の心を満たしていく。
「……おい紗彩。秘書の仕事は?」
「今日はもう終わりました! だから大丈夫です♡」
「フィルは?」
「フィルは、そもそも仕事しない。遊ぶ。のんびりする」
「仕事しろ……」
思わず頭を抱える。
けれど、この二人の笑顔を前にしては、どんな苦言も霞んでしまう。
庭から小鳥のさえずりが聞こえ、障子を通して柔らかな風が流れ込んでくる。
二人の体温に挟まれたまま、俺はすっかり身動きが取れなくなっていた。
――けれど、不思議なことに。
この上ない幸福感が、胸の奥から湧き上がって止まらなかった。
この屋敷で過ごす日々。
彼女たちが寄り添い、競い合い、甘えてくる。
それが、俺にとって何よりの「贅沢」なのだと実感する。
「……全く、幸せすぎて困るな」
誰に聞かせるでもなく、思わず呟いた。
紗彩とフィルは、互いに顔を見合わせ――同時に、いたずらっぽく微笑む。
「困るくらい、甘やかしてあげますね♡」
「隆行は、ずっとフィルのもの」
二人の声が重なり、俺は観念したように肩の力を抜いた。
こうして、午後の応接間は「膝枕攻防戦」という名の、甘く静かな戦いに包まれていった。
◇◇◇
フィルと紗彩に両膝を占領されて過ごした午後。
結局、俺は一歩も身動きできないまま夕暮れを迎える羽目になった。
けれど、膝枕の温もりと甘え合いの時間は――俺にとって代えがたい幸福だった。
「……さて、そろそろ夕食の準備を――」と腰を上げようとした瞬間。
「おじ様っ! 次なる大事業のお時間ですわ!」
元気いっぱいの声とともに襖が開く。
桜子がずいっと前に出て、手に抱えているのは――色とりどりの布やリボン、羽根飾り。
「な、なんだそれは……?」
「決まっておりますわ! ハロウィンの仮装衣装ですっ! このお屋敷を、社交界をも驚かせるパーティー会場にするのですわ!」
またもや桜子の暴走……いや、情熱全開の提案だ。
「ハロウィン……」
思わずつぶやくと、隣で寝転がっていたフィルが顔を上げた。
「お菓子の日。フィル、たくさんキャンディ欲しい。あと、かぼちゃケーキ」
「ふふ、そういうイベントは得意ですよ。私も衣装を作る側で腕が鳴ります!」と、紗彩がすぐにノッてくる。
「待って待って待って。俺に相談は?」
「当然ですわ! おじ様にも着てもらいますのよ!」
桜子が目を輝かせ、用意していた黒マントをばさっと広げる。
どうやら俺には「伯爵様コスプレ」をさせたいらしい。
こうして始まった「ハロウィン準備会議」。
メイドキャストたちも呼ばれ、屋敷の一室が即席の衣装部屋と化す。
「わ、私……魔女とか似合うかな……?」と頬を赤らめる沙織。
「七菜香は元気いっぱいのデビルなんだぞっ!」と角カチューシャを手に取る七菜香。
「真理恵は……やっぱりシックに吸血鬼夫人ね」と微笑む母。
それぞれが思い思いに衣装を手にし、あっという間に部屋はカラフルな混沌と化した。
「隆行さんはどれがいいですか?」と紗彩が訊ねてくる。
正妻として、どうしても俺の衣装選びに口を出したいらしい。
「隆行は、狼男。毛皮似合う」とフィルがぼそり。
「狼男……やめてくれ、毛むくじゃらは勘弁だ」
笑いが溢れる。
――ほんの数時間前までは、静かな膝枕の幸福に浸っていたはずなのに。
今は一転、華やかで騒がしい祭りの準備。
けれどどちらも、俺にとって大切な「新しい日常」だと心から思えた。




