第66話 天才なるが故の孤独 そして狂った愛
【side桜子】
この世に生を受けて初めて聞いた音は”龍の咆哮”だった。
それは女の股座から這い出る前の胎内記憶。
人としての形を成す前から何故か意識のあった私は、いつもそのケダモノたる生命と会話していた。
いや、一方的に与太話に付き合わされたといっていい。
お喋りで傲慢なそれは十月十日の間も絶えまなく赤ん坊にすらなっていない私に語り続けた。
何を語っていたかなんて覚えていない。記憶の彼方へ抹消したくなるほど耳障りな言葉の羅列であったことは覚えている。
理解できるだろうか?
私には人の形を成す前からの記憶があり、それをはっきりとした意識を持って覚えているのだ。
忌々しいことに、やがて女の股から引きずり出されて目を開いた瞬間見た顔を今でも忘れない。
心底どうでもいいという気持ちがありありと伝わる女の顔。カプセルから見下ろす瞳から目の前の赤ん坊に微塵の興味もわかないことが分かってしまった。
私は母という存在を知らない。知っているけど知らない。
私をひり出した女はその日を境に姿を見せなくなった。どうやら生み出すための道具として利用されただけで通常の男女愛の元に生まれた存在ではなかったらしいことを知った時、私は人生で初めて落胆という気持ちを味わった。
が、すぐどうでも良くなった。
私の中に巣食った龍神という化け物は私を神童と呼ばれる怪物へと変貌させた。
あらゆる知識を引っ張り出す知恵。予言の如き先見性。
優れた身体能力に卓越した頭脳。
物質的に豊かな家に傅く家臣たち。全てが揃っていた。
望めばなんでも手に入ったし、どんな理不尽でも叶った。私が望めばなんでも思い通りになる。
なんと退屈な人生だろうか。
全てが思い通りになる。それは達成する喜びを知ることが出来ないことに等しい。
私が3歳になるころ、父がどうしようもない愚物であることを悟った。
母はおらず、奉龍院という魔窟には欲望に汚い俗物たちしかいないことを思い知らされた。
私には龍神と呼ばれる存在から授かった知恵がある。
あらゆるものへの先見性に優れ、物事への理解を早め、審美眼を保有する。
そんな鬱屈するような地獄の中で、上之介お爺様だけは違った。
私の苦しみを理解し、慈しみ、愛してくれた。
私の人生の唯一の癒し。それがお爺様との時間だった。
だが、そんな日々も長くは続かない。
7歳になる頃、お爺様が亡くなった。私の元から居なくなってしまった。
私は喪失感を埋めるために怒りの矛先を後妻の深雪に向けた。
私からお爺様を奪った女狐は私に近づこうとしたが、その手を振り払い突っぱねた。
お爺様の寿命を縮めたのは間違いなくあの女だ。
私の思い通りにならない奴など私のそばには必要ない。
何故ならわたくしは奉龍院桜子。
世界を牛耳る奉龍院の支配者なのだ。
あれから10年。
わたくしの中の龍神は鳴りを潜め話しかけてくることはなくなった。
だが確実にその意志が息づいているのがわかるのだ。
『人間を支配せよ』
『全ての民をひれ伏せさせ、蹂躙せよ』
黒く、低い唸り声のような感情がわたくしの中を支配する。
日に日に自分の意識が染まっていくのがわかった。
そんな時だ。
わたくしは出会った。明石沙織という存在に。
小さくて、弱くて儚くて。
どうしようもないくらい可愛らしい、乾いたわたくしを癒してくれたあの子。
クズの父親。病の母。無知な妹。
劣悪な環境のなかで必死にもがく子猫のように、弱くて小さいクセに決してめげずに抗い続ける。
わたくしが持ち得なかった不屈の精神。
どうしようもなく憧れ、どうしようもないくらい愛しく、そして憎らしい。
あの子の全てを壊してあげたくて、そして絶望し憔悴したところでわたくしが慰めて差し上げる。
なんて素敵なプランでしょうか。
でも、あの男に全ての計画を狂わされた。
篠宮隆行。
神力を操るというその男は、42歳という高齢にもかかわらず強力な力を持っているらしい。
神力とは普通幼い頃に目醒めるほどに強力な力を有するようになる。
まさか龍神の呪いを跳ね除けるなんて!
わたくしのプライドを傷付けた貴方を許してはおかない。
いずれ後悔させて差し上げますわ。
◇◇◇
沙織ちゃんとの一件以降、俺達には奉龍院という明確な敵が定められた。
深雪は彼女との決戦に備えて社内の内通者の洗い出しを徹底し、スパイとして潜り込んでいた人物全員を見つけ出してこちらに懐柔している。
だが彼女いわく、恐らく桜子ならそれすら見破っているだろう、との事だ。
あれから1週間。
だからこそ、俺はこの不毛な戦いをやめて欲しくて、彼女に直接会うことにした。
彼女は沙織ちゃんに入れあげているという。
それが恋愛感情なのか、友情の行きすぎなのかは分からないが、そのせいで彼女の家に迷惑をかけるのはやりすぎだろう。
実は真理恵の呪いをかけた発生源の特定を行ったところ、奉龍院であることが発覚している。
あの家は神力の扱いに長けた一族であることがミルフィの情報から発覚しており、明石家を不幸に陥れた原因を作った人物であることも分かっている。
それどころか、彼女の家の借金をコントロールし、経済的に追い詰めている張本人でもあった。
この事はまだ沙織ちゃんには伝えていない。
いくらなんでも友達がそんなことをやっていたなんて聞いたらショックを受けてしまうかもしれないからな。
俺は奉龍院桜子に会談を申し込んだ。
名目は敵対的買収工作の正式抗議をするためだ。
するとあっさりと承諾の返事が来る。
あちらはどのように考えているのか。
受けて立つという姿勢の表れなのか。それとも完全に舐め腐っているのか。
どちらにしてもまずは和解を申し入れるのが先決なので喧嘩腰ではいけない。
◇◇◇◇◇
奉龍院桜子とは市内の高級ホテルのラウンジで会うこととなった。
こちらには紗綾、深雪の二人が同行し、企業としての交渉を行うこととした。
立場的には深雪の方が上司だが、あくまで補佐として同行することになっている。
桜子と再会することは深雪にとって因縁の相手との再会を意味する。
昔書いた誓約書では二度と奉龍院と関わらない旨が記載されていたが、既に破棄したそうだ。
向こうも受けて立つ算段なのだろう。
それを受理している。
「遅いですね」
「余裕の表れなのでしょう。こちらとの約束の時間など守る必要はない。下の者は座して待て、とでも言いたいのでしょうね」
「深雪怒ってる?」
「え? 怒ってませんよ? ちょっとお灸を据えてやろうかなって思ってるだけです」
背景に鬼が見えるほどの怒気を孕んでいる深雪はあくまで表向き穏やかだが空気感がまったく穏やかではない。
修羅場モードでのっけから喧嘩腰にならないように宥めないとな。
「あ、来ましたよ」
見やるとラウンジの入り口から複数のメイド服姿の女性を伴ってやってくる背丈の小さい華奢な女の子が歩いてくる。
まるで完成度の高い日本人形のような黒を基調とした美しい瞳と目鼻立ち。
長い黒髪は腰まで伸びており艶を帯びている。
少女らしいあどけなさの残る顔付きだが、その瞳には見て分かるほどに冷酷さが滲み出る冷たいものが宿っている。
人を人とも思わぬ、とはよく言ったものだ。
しかし、見た目随分と冷たい印象だが、彼女の持っている寂しさのような空気感はなんだろうか。
「お爺さま……?」
「え?」
「ぁ……いえ、なんでもありませんわ。私が奉龍院桜子ですわ」
「時間に遅れてきたくせに謝罪の一言も無しですか?」
遅れてきたことを謝罪する一言すらない桜子の態度に深雪はこめかみをヒクつかせている。
しかし相手は上位階級の人間だ。
従えるのが当たり前で約束を守るという発想はしないのだろう。
ここで腹を立てても仕方ない。穏便に話し合いをしよう。
「初めまして。水無月コーポレーションから来ました篠宮隆行と申します」
ビジネスマンの常識ならここは名刺を出す場面だろうが、相手の風貌を見る限り名刺交換って場面でもなさそうだ。
それに相手は俺の名刺など興味を示さないだろう。
サッサと席に座ってしまいこちらを一瞥すらしなかった。
「早くお話しを進めてくださいな。こちらは暇ではありませんの」
あくまで横柄な態度を崩そうとしない桜子はソファに腰掛けて足を組む。
身体が小さいのに妙に様になっているのは上に立ち慣れているからなのか。
「ではお話しをさせて頂きましょう」
俺は当初の予定通り、敵対的買収工作の正式抗議……の前に何故そのような行為に及んだのかを問いただした。
「敵対的買収工作などとは心外ですわ。こちらは善意で行っておりますのに」
「いけしゃあしゃあとよくも……」
「ふ、二人とも落ち着いて。ここで腹を立てたら台無しだからね」
今にも掴みかかりそうな深雪と紗綾を宥めながら話を続ける。
「それにしても、随分むかしに見た事のある顔だと思ったら、お爺さまをたらし込んで殺した女狐ではありませんか」
深雪の顔が険しくなる。
流石に傲慢が過ぎるのではないかと思うので、それについて抗議する。
「奉龍院様、それは話の本筋に関係ありませんし、愛沢さんを個人的に揶揄する言葉に聞こえます。やめて頂けませんか」
「これは失礼。絶対的に揺るぎない事実を述べたに過ぎませんが、あなたにとってはどうなのかしら?」
挑発をやめない桜子に深雪の唇が強く噛まれる。
拳が強く握り込まれ悔しさが見て取れる。伝わってくる感情は強い悲しみに満ちており、やりきれない思いが痛いほどだった。
「奉龍院様、それはいささか侮辱が過ぎるのでは? 今は企業としての話をしています。個人を揶揄する発言はお控え頂きたい」
俺は声を荒げないように努めて冷静に抗議した。
実際、俺の腸も煮えそうなほど怒りが沸き上がっている。
「ふっ……だから事実を述べたに過ぎないと申しておりましょうに」
「このガキ……」
流石に紗綾も我慢の限界が近いらしい。
ここは俺がなんとかせねば。
この子は、子供としてまともな教育を受けさせて貰えなかったのだろうか。
いくら奉龍院という巨大組織を幼い頃から率いてきたとはいえ、人間として持っている筈の感情がどこか欠落しているように思える。
「奉龍院様……いえ、桜子ちゃん、君は自分の一言がどれだけ他人を傷つけているか分かるかい?」
「急になんですか? お説教なら聞きたくありませんわ。どうぞ余所でやってくださいまし」
「君は……よほど寂しかったのだね」
「なっ!? あなた一体なにをおっしゃっているの!?」
「桜子ちゃん、君は、愛情に飢えているのではないか」
「き、気安く呼ばないでください!! 私をそう呼んで良い男性はお爺さまだけですわ!! ちょっと顔が似てるからって調子に乗らないでくださいまし!!」
急に声を荒げる桜子。
「桜子、やはりあなたも気がついていますね」
「な、なにを……」
「隆行さんが上の介様に瓜二つだと言うことを」
「ば、バカな!! 私は認めませんわ!!」
「でも自覚してますでしょう?」
「クッ、失礼しますわ。覚えてなさい!!」
桜子は声を荒げてズカズカと立ち去ってしまった。
不敵な態度を崩さなかった桜子の慌てる様子は何が起こったのか分からないほどだ。
「篠宮様、深雪様、お嬢様が大変な失礼をしてしまい申し訳ありません。恐らく戸惑っているものと思われます」
「蓮井、やはり桜子は……」
「深雪様のおっしゃる通り、上の介様にそっくりな篠宮様を見てかなり動揺していらっしゃいます」
桜子が行ってしまったあと、脇に控えていたメイドの一人がこちらに丁寧なお辞儀をする。
「どうぞお嬢様を……」
「蓮井!! 何をしていますの!! 帰りますわよ!」
「はい、お嬢様。では失礼いたします」
メイドはそう言って立ち去っていった。
「さっきの人は?」
「メイドの蓮井。上の介様お付きのメイドだった女性で、桜子の遊び相手でした。あの頃はまだ12歳の少女でしたが。能力は優秀でしたから、恐らく桜子の補佐をしているのでしょう」
「なるほど。どうやら桜子のことを相当案じているようだが」
「ええ。上の介様を失った桜子を側で支えてきたのでしょう。恐らく、彼女がいなければ桜子はもっと暴走しているはずです」
桜子がいなくなってしまい、その日の会談は物別れに終わった。
だが数日後、俺の携帯に一通のメッセージが届く。
――『桜子様が篠宮様にお目にかかりたいと仰っています。どうか、会ってやってください』
送信者の名は――蓮井。




