20話 1日目 終わり 他視点
●王都アルセリア・騎士団詰所
公式放送が終わっても、部屋にはしばらく誰も声を出さなかった。
壁の前に浮かんでいた映像が消え、代わりに、窓へ映る室内の灯りが見える。
机の上には、空になった器。
壁際には、手入れを待つ武器。
外からは、馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえていた。
「……五十八、だって」
最初に口を開いたのは、セレネだった。
背もたれへ体を預け、両腕を上へ伸ばす。
長く息を吐いてから、隣へ顔を向けた。
「レオン。今、いくつ?」
「僕?」
「ほかに誰がいるのよ」
レオンは手元の布を畳み、表示を確認した。
「上がったよ。朝よりは」
「聞き方が悪かったわ。修羅と比べて、どう?」
「種族も職業も違うから、その数字だけで比べても――」
「はいはい。そう答えると思った」
セレネが、ひらひらと手を振る。
向かい側では、ノエルが小さく笑っていた。
ハルトは、外していた弩の部品を机へ並べ直している。
「でも、あれだけ戦い続けられるのは、素直にすごいですね」
ハルトが言った。
「僕、午後は矢の補充と弦の確認で、結構下がっていましたから」
「下がらなかったら、最後の方で撃てなくなってたでしょう」
ノエルが返す。
「修羅さんも交代していたし、休憩の仕組みがよかったんだと思う」
「それは、そうなんですけど」
ハルトは、弩の持ち手を指でなぞった。
画面に映っていた、赤い刃を思い出す。
斧の先から離れ、鳥の翼へ届いた光。
「あの斬撃は、少し困りますね」
セレネが、片眉を上げた。
「また戦うつもり?」
「今すぐではないですよ」
慌てて首を振る。
「ただ、大会のとき、もしあれがあったら……と思って」
「分かる」
セレネは、今度はすぐに頷いた。
「私も考えた。近づく途中で一発飛ばされるだけで、魔法を使う順番が変わるもの」
レオンは、黙って聞いていた。
膝の上に置いた剣の鞘へ、指が触れる。
大会の決勝。
こちらが斬撃を飛ばしたとき、修羅は斧を盾にして前へ来た。
痛みを無視していたわけではない。
受ける角度を選び、踏み込む場所を探していた。
その彼が、今度は同じ距離へ攻撃を返してくる。
「……短い距離ほど、嫌だね」
レオンが呟く。
セレネが、こちらを見た。
「やっぱり考えてるんじゃない」
「それは、考えるよ」
少し困ったように笑う。
「僕が剣を振る間合いへ入る前に、もう一度判断しないといけなくなる。斧が届かないから安全、とは思えなくなった」
「そう。そこなのよ」
セレネが、机へ指を置いた。
「遠くから撃ち合う技ではないでしょうけど、あの人が近づく間に使うなら、十分すぎる」
ハルトが頷く。
ノエルは、水の器を持ち上げた。
「でも、今日一番変わったのは、そこだけじゃなかったと思う」
三人の顔が向く。
ノエルは、映像が消えた壁を見た。
「戻るのが、早くなっていた」
◇
「斧を振った後?」
レオンが聞くと、ノエルは頷いた。
「うん。攻撃が当たっても、結果を見続けない。盾の後ろへ戻って、次の相手を見ていた」
「ガランが前にいるからね」
セレネが言う。
「一人で戦っているときとは、違うんでしょう」
「それもある。でも、任せることに慣れてきたんだと思う」
ノエルは、今日の自分の戦いを思い返した。
風壁を維持する。
矢を外へ流す。
その向こうで、騎士たちが進む。
見ていたい。
自分の魔法が、どれだけ役立ったか確かめたい。
けれど、そればかり見ていたら、次の射撃に気づくのが遅れる。
今日、何度かそうなった。
「わたしも、前の人が戻ると分かっていると、魔法を切りやすかった」
ノエルが言う。
「レオンがずっと前にいるつもりなら、守る時間を長く考えないといけない。でも、戻る場所が決まっていれば、そこで一度休める」
レオンが、ゆっくり頷いた。
「……僕も、戻ったら風壁があると思えるのは、助かった」
「なら、明日は下がる前に、もう少し早く言ってね」
「遅かった?」
「二回くらい」
即答だった。
レオンは、口を閉じた。
セレネが笑う。
「三回目は、私が言ったわね」
「覚えてる」
レオンは素直に頷いた。
ハルトも、少しだけ手を上げる。
「僕からも、一ついいですか」
「どうぞ」
「魔法を斬った後、少しだけ右へ寄ってもらえると、奥が狙いやすいです」
レオンは机へ置かれた紙を引き寄せた。
「今の位置だと、僕が邪魔になる?」
「全部ではないです。でも、杖を持っている相手が、ちょうど肩の後ろへ隠れることがあって」
ハルトが、指で位置を示す。
レオンは、自分の位置へ小さな丸を描いた。
ノエルが、その後ろへ線を引く。
セレネは空の器を端へ寄せ、肘を机へついた。
「反省会になったわね」
「悪いことじゃない」
レオンが答える。
セレネは少し笑って、頷いた。
今日、彼らは同じ戦場にいた。
それでも、見ていたものは違う。
その違いを机へ並べると、明日の動きが少しだけ変わって見えた。
◇
扉が叩かれた。
返事をすると、若い騎士が顔を出す。
「皆さん、まだ起きていましたか。食堂から、こちらを」
籠を持っている。
布の下から、焼けたパンの匂いがした。
ハルトが、少し目を丸くする。
「まだ、食事が出るんですか?」
「明朝分の確認で焼いた物だそうです。食べられる方に、と」
騎士の後ろから、もう一人、顔が出た。
「こんばんは。お邪魔します」
コムギだった。
前掛けを外し、腕に抱えている。
レオンたちの顔を見て、少しほっとしたように笑った。
「よかった。まだ皆さんいた」
「コムギさん」
セレネが背もたれから体を起こす。
「座る? 椅子、空いてるわよ」
「じゃあ、少しだけ」
コムギは籠を机へ置いた。
布を開く。
小ぶりのパンが、いくつも並んでいた。
「明日は、持ち歩ける分をもう少し増やす予定なんです。食べに戻る時間が短い人もいるので」
レオンは、一つ受け取った。
まだ、温かい。
「ありがとうございます」
「食べにくかったら、教えてください。戦って疲れた後でも食べられるか、知りたくて」
ハルトが、早速ちぎる。
ノエルも一口食べた。
少し塩気がある。
中には、小さく刻んだ具。
硬すぎず、手にもつきにくかった。
「これ、よさそう」
ノエルが言う。
「器がなくても食べられるし」
「飲み物は、あった方がいいですね」
ハルトが続ける。
「口が乾いているときは、少しずつ食べると思います」
コムギが頷き、手帳へ書く。
セレネは、パンを見ながら口を開いた。
「公式放送、見た?」
「途中から。厨房で、音だけ聞いてたところもあります」
「修羅、ずっと食べてたわね」
コムギの手が止まった。
「あの人の食べるところ、いいですよね」
声が、少し明るくなる。
「味を説明しようとして、結局もう一口食べるでしょう」
「戦闘より、そっちの印象なの?」
「戦闘は、すごすぎて分からないので」
正直な返事に、ハルトが吹き出した。
レオンも笑う。
コムギは、少し照れたように肩を縮めた。
「でも、食べてる姿を見ると、作った人は嬉しいだろうなって思うんです」
レオンは、手の中のパンへ視線を落とした。
今日、休憩で受け取った食事。
あのときは、急いで食べていた。
次の配置を確認しながら、飲み込んでいた。
「……おいしいです」
顔を上げて、言った。
コムギが瞬く。
「これ。明日も、あると嬉しいです」
少しの間。
それから、コムギが笑った。
「はい。用意します」
◇
●炉都グランヴェル・共同修理所
金槌の音が、ようやく止まった。
炉の明かりは残っている。
ただ、作業台の上にあった盾の山は、夕方より低くなっていた。
ロックは、修理を終えた盾を両手で持ち上げる。
裏側を確認し、所定の場所へ置いた。
「これで、今夜の担当分は終わり」
隣で、ネムが長く息を吐く。
木屑のついた前掛けを払い、椅子へ腰を下ろした。
「腕、まだ動く?」
「動くけど、持つと離したくなくなる」
「それ、疲れてるやつだよ」
ネムが言う。
ロックは自分の手を開いた。
石の指。
形は変わらない。
でも、疲れないわけではなかった。
向かいでは、バルドが籠手を外している。
手首を回し、痛む場所を確かめていた。
「見せて」
ロックが言うと、バルドは片手を上げた。
「こっちは医師に見てもらった。お前は休め」
「でも」
「盾を、明日も直すんだろう」
ロックが黙る。
それから、ゆっくり頷いた。
ネムが机の端へ、水の器を並べる。
「公式放送、最後だけ見た?」
「見た」
ロックが答える。
「修羅、また増えてたね」
「腕?」
「技」
「ああ、そっち」
ネムが笑った。
バルドは、器を持ち上げる。
「飛ぶ斬撃は、困るな」
ロックが、顔を向けた。
「盾で受けるなら?」
「距離による。角度もだ」
バルドは、机の上へ指で線を引いた。
「遠くからなら、構え直す時間はある。だが、あいつが近づきながら撃つなら、盾を上げたところへ本体が来る」
ロックは、映像の修羅を思い出した。
赤い弧。
その後ろに、斧を持つ本人。
確かに、嫌だった。
「受けた後、すぐ押されるかもしれない」
「ああ。しかも今は、腕が増えた」
バルドが言う。
「盾を押さえる手と、斧を振る手が別にある。腕一本で押さえられたからといって、攻撃が止まるわけじゃない」
ネムは、二人を見比べた。
「……明日、味方でよかったって話?」
「大会で、次に会ったときの話」
ロックが答える。
ネムは、少し考えてから肩をすくめた。
「戦う人たちって、忙しいね」
バルドが、低く笑った。
◇
ロックは、台の下から自分の盾を引き出した。
大会で使った物とは、少し形が違う。
傷んだ場所を直し、裏の握りを変えている。
ネムが、それを指した。
「そこ、今日のやつ参考にした?」
「うん。戻ってきた盾を見て、壊れやすい場所が分かってきたから」
握りへ、指を掛ける。
腕を通す。
構える。
「自分で使った物だけだと、知らない傷み方があるんだね」
ロックは、小さく呟いた。
盾の表面が割れる。
それだけではなかった。
紐が裂ける。
留め具がずれる。
裏の木が、少しずつ潰れる。
今日、一日でいくつも見た。
「修羅の斧を受ける盾、作ってみたい」
ふと、言葉が出た。
バルドが、顔を上げる。
「今のやつか?」
「……今のやつ」
ロックは頷いた。
熊の毛皮。
補強された腕。
飛ぶ斬撃。
新しく覚える技。
考えると、必要なことが次々に増える。
「前に会ったときより、また強くなってた」
「お前も、変わるだろう」
バルドが言った。
ロックは、盾から顔を上げた。
「今日だけでも、それだけ見たんだ。次に作る物は、前と同じじゃない」
ネムが頷く。
「持ち手なら、手伝えるよ。金属だけ強くしても、そこから抜けると困るでしょ」
ロックは、自分の盾を見た。
それから、二人を見る。
「……うん」
少しだけ、声が明るくなった。
「イベントが終わったら、一つ作ってみたい」
「なら、終わってからだ」
バルドが器を置く。
「今夜は、それをしまえ」
ロックは一瞬だけ迷ってから、盾を台へ戻した。
◇
出口へ向かう途中、共同炉の奥に人影が見えた。
全身鎧。
大きな戦鎚。
ドグラムだった。
鎧の一部が外され、職人たちが内側を確かめている。
普段は隠れている腕には、古い傷が何本もあった。
ドグラムは三人に気づくと、顔を上げた。
「終わったか」
ロックが頷く。
「はい」
「明日の分も、頼む」
短い言葉だった。
でも、ロックは足を止めた。
今日、あの鎚が何体の魔物を倒したかは分からない。
その人が、自分たちへ仕事を頼んでいる。
「……はい。直せる物は、直します」
ドグラムが頷く。
隣の職人へ腕を向け直しながら、言った。
「助かる」
ロックは、それ以上何も言えなかった。
外へ出ると、夜の風が熱の残った体へ触れた。
ネムが、横から顔を覗く。
「嬉しそう」
「……うん」
隠せなかった。
バルドは二人を見て、少しだけ笑った。
◇
●獣都バルガント・城壁沿いの休憩所
ヴァイスは、敷物の上へ体を伏せていた。
白い毛には、まだ細かな砂が残っている。
その横で、サラが槍の柄を拭いていた。
ジンは少し離れた場所で、靴の中から小石を出している。
「……まだ入ってた」
ジンが、手のひらを見た。
小さな石が、一つ。
サラが顔を向ける。
「最後、走り方おかしかったの、それ?」
「ああ。戦ってるときは気づかなかった」
「足、見てもらった?」
「見てもらった。擦れただけだって」
ヴァイスが、片目を開ける。
「明日は、途中でも取れよ」
「分かった」
ジンが、素直に頷く。
サラは槍を壁へ立てかけ、隣へ座った。
「公式放送、見た?」
「見た」
ヴァイスが答える。
「修羅、またでかくなった?」
「体は、変わってなかったと思う」
ジンが言う。
「装備のせいじゃないか。肩の毛皮」
「……ああ」
ヴァイスは、耳を少し動かした。
大会の予選で、隣にいた鬼。
他の参加者たちが一緒に向かってきたときも、彼は妙に落ち着いていた。
軽い声で話しながら、前へ出る。
その後ろを、ヴァイスは走った。
あのときは、少しだけ一緒に戦った。
今日は、別の都市。
「修羅と、組んだことあるんだよね」
サラが聞いた。
「ああ。少しだけな」
「どうだった?」
ヴァイスは、しばらく考えた。
「前を向かせるのが、うまい」
「敵を?」
「ああ。あいつが斧を振ろうとすると、相手はそっちを見る。見ないと、当たるから」
サラが頷く。
「横へ回りやすいんだ」
「そう。ただ、振る範囲へ入ると、こっちも危ない」
ジンが笑った。
「やっぱり、そこか」
ヴァイスも、少し口を開いた。
笑ったように、牙が見える。
「今日のやつらは、そこを練習してたんだろうな。ガランの右へ出て、同じ所へ戻ってた」
サラは、映像を思い出した。
斧が振られる。
盾が寄る。
白い糸が、横を止める。
「……わたしたちも、戻る場所、もう少し決めたいね」
ジンが靴を履き直しながら頷く。
「俺の右へ戻るとき、サラの槍先が外へ出るだろ。あれ、次の人が通る場所と重なることがあった」
「あ」
サラが、顔を上げる。
「気づかなかった。ごめん」
「いや。今、思い出した」
ヴァイスが、頭を少し持ち上げた。
「俺は、戻るとき低い。上ばかり見てると、ぶつかるから声を出す」
三人が、地面を見る。
サラが小枝を拾い、簡単な線を引いた。
盾。
槍。
走る道。
昼の訓練ではない。
今夜、一緒に帰ってきた三人で、明日の場所を決めていく。
◇
サラが、枝を置いた。
「でも、修羅の斬撃はびっくりした」
「……あれは、嫌だな」
ヴァイスが答える。
ジンが、こちらを見た。
「速さで避けられない?」
「見えて、足場があれば避けられるかもしれん」
ヴァイスは、前脚を伸ばした。
「ただ、近づく途中で飛んでくるなら、跳ぶ場所を一回変えないといけない」
「そこへ、斧か」
「ああ」
ジンが、自分の剣へ目を落とした。
大会では、セレネに負けた。
着地する場所を読まれ、足を止められた。
速く走れる。
追いつける。
それだけでは、勝てなかった。
「……みんな、増えていくな」
ぽつりと、言った。
サラが顔を向ける。
「技?」
「それも。できることが」
ヴァイスは、しばらくジンを見ていた。
それから、ゆっくり起き上がる。
「お前も、今日の最後は違ったぞ」
「俺?」
「朝は、敵を追って盾を前へ出してた。夕方は、俺が戻るところへ残ってた」
ジンが、黙る。
サラも頷いた。
「わたしも、戻りやすかった」
「……そうか」
ジンは、靴の先を地面へ当てた。
強くなったと言われると、レベルやスキルの表示を見たくなる。
でも、今日は別のところも変わっていたらしい。
「じゃあ、明日は、もっと早く声をかける」
「頼む」
ヴァイスが答える。
サラが、二人を見て笑った。
「次に大会があったら、今日の仲間と戦うかもしれないね」
「今、言うことか」
ジンが返す。
「だって、みんな強くなるなら楽しみじゃない?」
ヴァイスは、少し目を細めた。
「……そうだな」
明日は、同じ方向へ走る。
その先のことは、明日を越えてから考えればよかった。
◇
●樹都エルセリア・樹上の宿舎
細い通路を、夜風が抜けていった。
葉の擦れる音が、すぐ近くで聞こえる。
フィーネは、窓辺で矢を一本ずつ確かめていた。
先端。
軸。
羽根。
曲がった物を分け、使える物を戻す。
その向かいでは、ミリアが短剣を布で拭いていた。
「まだ、やるの?」
ミリアが聞く。
「これで、最後です」
「さっきも聞いた」
フィーネの手が止まる。
ミリアが、口元を緩めた。
「真面目すぎ」
「明日、途中で気づくよりいいので」
「それは、そうだけど」
ミリアは短剣を鞘へ戻し、両腕を上へ伸ばした。
肩が、小さく鳴る。
「……疲れた」
隠さない声だった。
フィーネは、最後の矢を戻して頷く。
「はい。思っていたより、ずっと」
昼の間は、上を見て、下を見て、敵を見て、味方を見ていた。
矢を放つ指より、目と頭の方が疲れている気がした。
「公式で、わたしたち映ってたね」
ミリアが言う。
「見ました」
「わたし、あんなに走ってたんだ」
フィーネが、少し笑う。
「何度も、助かりました」
「そっちが撃ってくれるから、下がれたんだよ」
ミリアは椅子へ座り直し、窓の外へ目を向けた。
枝の向こうに、灯りがいくつも浮かんでいる。
まだ動いている人影。
夜の見張りだ。
「修羅も、すごかったね」
「はい」
フィーネが答えた。
「あの斬撃、今のままでも使える場所が多そうです」
「わたしだったら、下を通るかな。いや、斧の振り方次第か」
ミリアは、自分の膝へ指を置いた。
無意識に、次の一歩を考えている。
フィーネは、弓の弦へ触れた。
「距離だけなら、こちらが有利です」
「うん」
「ただ、追って前へ出なくても攻撃できるようになると、近づくまでの動きが変わります」
ミリアが、顔を向ける。
「どういうこと?」
「今までは、こちらが下がれば追う必要がありました。あの技があるなら、そこで一度止まって撃つこともできます」
「ああ。走る方向を、こっちに決めさせないんだ」
「はい」
ミリアは、少し笑った。
「やっぱり、また戦いたいと思ってる?」
フィーネは、すぐには答えなかった。
指先で、弓の木目をなぞる。
それから、小さく頷いた。
「……いずれは」
「いいね」
ミリアの返事は、軽かった。
「そのときは、わたしも混ざる」
「一対一の話では?」
「じゃあ、その次」
二人とも、少し笑った。
窓の外で、短い笛が鳴る。
見張りの交代。
フィーネは道具を片づけ、灯りを落とす準備をした。
明日は、見えない相手をどう捉えるか。
その前に、隣の短剣使いが戻る道を、ちゃんと空けておこう。
◇
●魔都ヴァルグ・東門詰所
地図の上へ、空の器が置かれかけた。
「そこ、まだ乾いていません」
ミチシルベが、すぐに言った。
ガランは手を止め、器を別の机へ移す。
「すまん」
「いえ。こちらも、広げすぎました」
地図は、何枚もあった。
朝の配置。
第一波の終わり。
第二波で変えた通路。
第三波の終盤。
同じ東門前なのに、線の位置が少しずつ違っている。
カゲロウは、その一枚へ目を落とした。
「ここ。夕方には、地面が掘れていた。明朝、埋めてもらう」
指で示す。
ガランが頷く。
「俺の左足が、一度沈んだ所だな」
「そう。敵より先に、こっちが足場を壊すこともある」
ユズリハは机の端へ前脚を添え、糸を張った範囲を見ていた。
「ここも、少し狭かったです。修羅さんが戻るとき、外套の端が杭の近くを通っていました」
ミチシルベが、印を足す。
「少し広げる?」
「はい。ただ、広げすぎると、走狗も抜けやすくなるので……」
ガランが、少し考える。
「俺が立つ場所を、半歩左へ寄せようか。それなら、戻る道は広くなる」
カゲロウが地図を見る。
指で、盾と槍の位置を動かした。
「槍も、合わせられる。明日の朝、歩いて確かめよう」
机の向こうでは、リュカが椅子へ座っていた。
両手で器を持っている。
髪の先が、少し湿っていた。
「修羅さん、もう宿へ戻りましたか?」
聞くと、ガランが頷いた。
「戻った。食いながら寝かけてたからな」
リュカが、少し笑った。
「今日は、たくさん戦っていましたから」
「こっちもだ」
ガランは、壁へ寄りかかった。
「お前も、何度飛んだ?」
「数えていたんですが、途中から分からなくなりました」
「なら、もう終わりにしよう」
ミチシルベが顔を上げる。
「残りは、こちらでまとめます。明日の変更点だけ、出発前に確認してください」
ガランは、少し申し訳なさそうに頷いた。
「頼む」
◇
扉が開き、マルクが入ってきた。
その後ろには、荷物の受け渡しを終えたロルフ。
灰狼傭兵団の団長は、外套を肩から外しながら机へ近づいた。
「物資は、明朝分まで入れた。西側の道も、今のところ異常なしだ」
マルクが帳面を開く。
「水を運ぶ容器は、今日使った数をもとに、置き場を増やします。ただ、全部を前へ出すと回収が遅れるので、段階を分けますね」
ガランが、頷く。
「水、助かった」
「それは、運んでくださった方へ伝えておきます」
マルクはそう答え、机の端へ腰を下ろした。
ようやく、少し肩が落ちる。
ロルフが、その顔を見る。
「お前も、疲れたな」
「はい。荷物は、置けば終わりではないので」
空になった容器。
使い終えた布。
戻ってきた箱。
行きだけではなく、帰りもある。
今日、何度それを説明したか分からない。
ユズリハが、柔らかい声で言った。
「皆さんが持ってきてくださったので、こちらも休めました」
マルクは顔を上げた。
少しだけ、目元が緩む。
「そう言っていただけると、助かります」
ロルフは、椅子へ腰を下ろした。
「公式で、修羅が随分紹介されてたな」
「ああ。五十八だと」
ガランが答える。
ロルフは、低く口笛を吹いた。
「伸びたな」
「技もな。昼に飛ばし始めたと思ったら、夕方には使う場所を選べるようになってた」
ガランの声には、少し驚きが混じっていた。
マルクが、頷く。
「最初にお会いしたときは、まだ斧だけでした」
「お前を助けたときか」
「はい。荷車を持ち上げていただいて、あれも驚きましたが」
少し間を置いて、マルクは笑った。
「今、同じお願いをしたら、持つ手が増えていますね」
リュカが、吹き出しかけた。
ユズリハも、小さく脚を動かす。
ガランは、声を上げて笑った。
「戦う話してたのに、荷運びに戻すなよ」
「大事なことですよ」
マルクは、真面目な顔で返した。
「前へ出る方が強くなった分、こちらも補充を間に合わせないといけませんし」
笑いの残っていた部屋が、少し落ち着く。
「倒せる数が増えれば、それだけ長く前へ立てるかもしれません。でも、薬も水も、必要なくなるわけではないので」
ロルフが、頷いた。
「確かにな」
◇
リュカは、空になった器を机へ置いた。
「修羅さん、前より動きが変わりました」
全員の顔が向く。
彼は、少し言葉を探した。
「大会では、近づかれるのが怖かったです。どこへ逃げても、次の足場へ入ってきそうで」
「今は?」
ガランが聞く。
「今日は、戻ってくると思えました」
静かな返事だった。
「僕が攻撃する場所を空けてくれて、終わったら前へ出てくれる。飛んでいる間、下に誰がいるか分かるのは、すごく助かりました」
ガランは、しばらく黙っていた。
それから、短く頷く。
「あいつも、お前が鳥を外へ戻してくれるから、地上を見られると言ってた」
リュカの顔が、少し明るくなった。
「本当ですか」
「ああ」
ユズリハも、続ける。
「糸を張る位置を見て、攻撃する場所を変えてくださるようになりました。最初は、こちらが追いかけて張ることもあったんですが」
カゲロウが、壁へ背を預ける。
「強いから、何でも一人でできると思われがちなんだろうな」
ロルフが、腕を組んだ。
「本人は、そこまで思ってないだろう」
「ああ。だから、組める」
カゲロウは、短く言った。
マルクは、帳面を閉じた。
道端で会ったときの修羅を思い出す。
助けに来て、斧を構えていた鬼。
戦いが終わると、蜘蛛の脚を確かめていた。
あの頃から、見ているものは変わっていないのかもしれない。
ただ、確かめる相手と、任せられる相手が増えた。
「……三日目は、どうなるでしょうね」
マルクが言った。
誰も、すぐには答えなかった。
机の端に、最終侵攻の資料がある。
〈城喰い〉ガルムド。
名前だけでも、部屋の空気を少し変えた。
ガランが、両手を見た。
「今日みたいに、一体ずつ倒せるとは限らん」
リュカが頷く。
「僕も、どこへ攻撃すればいいか、まだ分かりません」
「なら、見てから伝える」
カゲロウが言う。
「一人で届く場所だけを探す必要はない。誰かが先に見つけるかもしれん」
ユズリハが、地図へ脚を添えた。
「止めきれなくても、少し遅らせることはできるかもしれません」
ガランは、ゆっくり頷いた。
「俺が受けて、誰かが入る。受けられなければ、ほかの止め方を探す」
ロルフが、肩を回した。
「その間、周りの連中を通さない部隊もいる。お前たちだけで全部見るな」
マルクも頷く。
「戻る場所は、用意しておきます」
大きなことは、まだ決められない。
敵の本当の強さも、分からない。
それでも、机の周りで、それぞれの言葉が重なっていった。
◇
●魔都ヴァルグ・領主館
セイルの机には、何枚もの報告書が重なっていた。
防衛線の損傷。
治療を受けた人数。
消費された物資。
明朝までに補充する物。
ベルンが、一枚ずつ内容を確かめ、済んだ物を別の束へ移していく。
「こちらは、修繕担当へ渡しました」
「ありがとう。北東の見張りは?」
「交代を終えています。次の報告は、予定どおりに」
セイルは頷いた。
窓の外には、街の灯り。
第一日を、越えた。
それでも、喜んでばかりはいられない。
今日使った物を、明日も同じだけ使えるとは限らない。
怪我をした人が、全員すぐ戻れるわけでもない。
彼は、次の書類へ手を伸ばした。
その途中で、机の横へ目が向く。
額に入れた、一枚の紙。
少し大きな字で、修羅と書いてあった。
ベルンが、その視線に気づく。
「本日のご活躍は、確認されましたか」
「……少しだけ」
セイルは答えた。
「公式放送で、最後の方を」
ベルンは、何も言わなかった。
セイルも、すぐには続けなかった。
ただ、少ししてから椅子へ背を預ける。
「最初にお会いしたとき、僕は強い方が来てくれれば、道が開けると思っていた」
「東方探索のお話ですね」
「うん」
セイルは、額の中の文字を見る。
「でも、今日、あの方が戦えていたのは、周りにも人がいたからだった」
盾。
槍。
糸。
空。
後ろへ戻る道。
映像には、それが全部映っていた。
「修羅さんが強いのは、もちろんそうなんだけど。僕が用意しなければいけない物も、思っていたよりずっと多い」
ベルンが、机へ一枚の紙を置く。
明朝までに整える、休憩場所の一覧だった。
「今、それを進めておられます」
セイルは、紙へ目を落とす。
疲れた人が座る場所。
水を受け取る場所。
眠れる部屋。
派手ではない。
配信で歓声が上がる仕事でもない。
でも、ここがなければ、明日の前線へ誰も戻れない。
「……そうだね」
彼は、ペンを持ち直した。
「ここを先に。朝に間に合わせたい」
「承知しました」
書類へ、印が加わる。
ベルンがそれを受け取り、扉へ向かった。
その直前、セイルが口を開く。
「あの、ベルン」
「はい」
「修羅さんの斬撃が初めて飛んだところだけ、後で……」
ベルンが、静かに振り返る。
セイルは、咳払いをした。
「……仕事が終わったら」
「そのときは、ご自由に」
扉が閉まる。
セイルは少しだけ笑い、次の書類を引き寄せた。
◇
●王都アルセリア・騎士団詰所
コムギが帰った後、机の上にはパンが少し残っていた。
包んで、明朝へ。
ノエルとハルトは、先に休みに向かった。
セレネも扉の前まで行き、そこで振り返る。
「レオン」
「何?」
剣を片づけていた青年が、顔を上げた。
「修羅、明日も強くなるでしょうね」
レオンは、少し笑った。
「そうだろうね」
「悔しい?」
問いかけると、レオンの手が一度止まった。
考える。
それから、頷いた。
「少し」
隠さない返事だった。
セレネの口元が緩む。
「私も」
レオンは、鞘を壁へ立てかけた。
「でも、嬉しくもある」
「……同じ側だから?」
「うん。それに、まだ追いかけられる人がいると思えるから」
今日、アーヴェルトの剣を見た。
自分には、まだ見えていないものがある。
同じ日に、別の街では修羅が新しい技を覚えた。
自分も、ここで何かを掴みたい。
数値だけではない。
前へ出るタイミング。
戻る判断。
隣の人が戦いやすい、一歩。
「明日は、今日より少し上手くできるといいね」
レオンが言う。
セレネは、扉へ手を掛けた。
「少しじゃ足りないかもよ」
笑う。
でも、その声は柔らかかった。
「おやすみ。寝坊しないで」
「おやすみ」
扉が閉まる。
レオンは、灯りを落とす前にメッセージを開いた。
相手の名前を選ぶ。
修羅。
少し考えて、短く打った。
『初日、お疲れ様。新しい技、見たよ』
そこで一度、指が止まる。
何か、気の利いたことを言いたかった。
決勝の相手へ。
別の街で戦う、同じ参加者へ。
結局、続けたのは簡単な言葉だった。
『明日も、守ろう』
送信する。
返信は、すぐには来なかった。
もう、眠っているのかもしれない。
それでいいと思った。
レオンは画面を閉じ、窓の外を見る。
白い城壁の上に、見張りの灯り。
その向こうは、夜だった。
明日も、敵が来る。
剣を取る。
隣にいる人へ声をかける。
自分の前だけではなく、後ろも見る。
今日、覚えたことを、明日使おう。
灯りを消しかけたところで、通知が鳴った。
レオンは、もう一度画面を開く。
『お疲れ様です。こっちも、レオンさんの映像見ました』
その下に、もう一行。
『はい。明日も、守りましょう』
レオンは、少しだけ笑った。
返信は、それ以上しなかった。
今度こそ、休もう。
剣を置いた場所を確かめて、灯りを落とす。
別々の都市で。
それぞれの隣にいる人たちと。
次の朝を、迎えるために。




