1話 新シーズン開始
●主人公視点
正式リリースの朝。
アビス・フロンティア・オンラインの名前は、ゲームを遊ぶ人たちの外まで広がっていた。
ニュースには、大会決勝の映像。
動画サイトには、種族選びの解説や、初心者向けの道具紹介。
ネクサスを用意して待っていた人たちが、開始時刻を迎えて一斉にログインしていく。
王国の町では、武具店の前に列ができた。
エルフの森では、初めて渡る吊り橋に足を止める人がいた。
魔物の開始地点では、自分の脚の数を確かめる人もいたらしい。
そんな、少々騒がしい朝。
俺は、鍋を見ていた。
「……もう少し、水ですかね」
木の匙で、底を混ぜる。
肉。
根菜。
集落で買った、葉物が少し。
新しいかまどの上で、鍋がことこと鳴っていた。
◇
はい。正式リリースしました、修羅です。
今日は、料理です。
優勝賞品でもらった調理設備を、入口に近い部屋へ設置しました。
寝床とは離れている。
水も運びやすい。
煙は、壁の上へついた管を通って外へ出る。
便利。
とても、便利です。
「……包丁を置くところがあるだけで、随分違いますね」
〈そこからなのかw〉
〈まな板もあるぞ〉
〈正式初日、最初に見る配信が煮込み〉
〈大会から来ました!〉
「どうも。今日は煮込みを作ってます」
肉を、薄く切る。
ガルゼンの教えは、守っています。
ただ、薄く切ったつもりでも、一枚だけ妙に厚い。
俺はそれを見て、少し考えた。
「……これは、俺の分ですね」
〈責任取って食うw〉
〈煮れば何とかなる〉
〈イトは?〉
「そこです」
少し離れた棚の上。
イトが、脚を畳んでいた。
火へ近づかない場所に、いつも使っている平たい石を置いてある。
今のところ、そこで落ち着いている。
〈厨房見学中〉
〈料理長〉
〈その位置、全部見えてそう〉
「材料には触らないように、お願いしてます」
俺が顔を向けると、前脚が一本動いた。
返事だったら、ありがたい。
◇
集落で分けてもらった根菜は、思ったより硬かった。
切るときも、結構力がいった。
筋力はある。
でも、勢いよく切ると、まな板まで傷つきそうになる。
鍛冶の人が言っていた、素材に合わせた力加減。
料理にも、必要らしい。
俺は包丁を置き、鍋へ匙を入れた。
根菜を一つすくう。
端を、そっと押す。
「……まだ硬い」
〈火強くない?〉
〈ぐらぐらさせなくていいぞ〉
〈蓋して待とう〉
「なるほど」
薪を少しずらす。
鍋の下で、炎が小さくなった。
蓋をかぶせる。
音が、少し落ち着く。
「では、待ちましょう」
椅子は、まだない。
俺は持ってきた石へ腰を下ろした。
台所は立派になったけど、座るものまでは付属していなかった。
〈そこで石w〉
〈椅子も欲しくなったな〉
〈初代闘技王の台所、椅子だけ未実装〉
「次の目標ですね」
壁へ目を向ける。
入口の向こうで、優勝旗が少し揺れていた。
大会は、ちゃんと終わった。
今は、鍋が煮えるのを待つ時間だ。
◇
〈ログインできた!〉
〈リンドベル、人すごい〉
〈武具店入れないんだけどw〉
〈小鬼で始めました。服どこですか〉
俺は、流れてきた文字を読んだ。
「場所によりますけど……まず、周りをよく見たほうがいいですよ。町、近くにないかもしれないので」
〈早速、森です〉
〈俺も〉
〈兎いた〉
〈そいつ気をつけろ〉
「兎は、結構速いです」
口にして、少し懐かしくなった。
俺も、あそこからだった。
棍棒。
腰巻き。
持ち物なんて、ほとんどなかった。
今は、鍋がある。
包丁も。
蓋まで。
「……いい暮らしになりましたね」
〈比較対象が原始生活〉
〈ちゃんと成り上がってる〉
〈今、公式の接続数の話で盛り上がってるぞ〉
〈外、すごいことになってる〉
「そうみたいですね」
返事をして、鍋の蓋を少し持ち上げる。
湯気が、顔へ来た。
「熱っ」
〈気をつけろw〉
〈王者、湯気に敗北〉
俺は顔を引き、布を探した。
世間がどれだけ賑やかでも、鍋の蓋は熱いらしい。
◇
そこで、コメントの流れが変わった。
〈おめでとう!〉
〈超えたぞ!〉
〈十万!〉
〈修羅、登録者見て!〉
「……何がですか?」
布を持ったまま、手が止まる。
十万。
ゲームのお金の話では、なさそうだ。
俺は、配信の管理表示を開いた。
【チャンネル登録者数:100,286人】
……ん?
数字を、左から読む。
一。
ゼロ。
ゼロ。
その後にも、三つ。
「……十万人?」
〈そうだよ!〉
〈おめでとう!〉
〈大会から来ました!〉
〈イトの動画からです〉
〈正式リリースおめでとう&十万人おめでとう!〉
表示を、一度閉じた。
もう一度開く。
【チャンネル登録者数:100,314人】
増えてる。
「……待ってください。俺、昨日も確認したんですけど」
〈だから今超えたんだよw〉
〈目の前で増えてるぞ〉
〈十万人の前で鍋煮てる男〉
俺は、鍋を見た。
次に、イトを見る。
本人は、棚の上で前脚をこすっていた。
何も、変わっていない。
俺だけが、落ち着かなくなっている。
「……ありがとうございます」
ひとまず、言った。
でも、それだけでは足りない気がした。
「いや、本当に。大会だけじゃなくて、こういう配信も見てもらえるとは……」
〈見たくて来てる〉
〈むしろこれが楽しみ〉
〈強いところも生活してるところも好き〉
〈鍋!〉
「……鍋?」
目を戻す。
蓋が、小さく跳ねた。
縁から、泡。
「あっ、待って、待って!」
慌てて立つ。
布で蓋をずらし、火を弱める。
白い泡が、かまどへ少し落ちた。
〈記念の吹きこぼれw〉
〈十万人見てたぞ〉
〈目を離すな料理人!〉
「皆さんが、数字見ろって言うから!」
言い返してから、笑ってしまった。
俺が見ていたんですけどね。
◇
落ち着いた鍋へ、匙を入れる。
根菜を押す。
今度は、すっと崩れた。
「……できた、かな」
塩を少し。
混ぜる。
集落で教えてもらった香草を、指先でちぎって落とす。
湯気の匂いが、変わった。
肉だけではない。
葉の、少し青い香り。
俺は小さな器へ汁を取り、冷ました。
一口。
「……あ」
思わず、鍋を見る。
もう一口飲む。
薄い。
店で食ったものほど、深い味ではない。
でも、肉の味がする。
根菜が甘い。
ちゃんと、飯だ。
「……うまいですね」
〈よかった!〉
〈初煮込み成功〉
〈見た目もうまそう〉
〈味覚共有はまだですか〉
「俺にも、その機能欲しいです。皆さんの飯、食いたいので」
器へ、肉と野菜をよそう。
イトには、取り分けておいた肉を。
熱いものや味をつけたものを、無理に渡す必要はない。
そばの小皿へ置くと、棚の上で脚が動いた。
「飯ですよ」
イトが、ゆっくり下りてくる。
俺は石の席へ戻った。
◇
入口で、足音がした。
顔を上げると、ガドが立っていた。
片手には、いつもの槍。
「何か、煮てる匂いがした」
「ちょうど、できました」
俺は空の器を取った。
「食べます?」
ガドが、鍋を見る。
新しいかまど。
作業台。
並んだ食器。
「……いい場所になったな」
「はい。賞品、これにしてよかったです」
汁をよそい、渡す。
ガドは器を受け取り、入口のそばへ座った。
一口飲む。
少し待つ。
俺も、黙って見ていた。
「塩、もう少しあってもいいな」
「……なるほど」
でも、ガドはそのまま二口目を飲んだ。
肉を食べる。
根菜も。
「食える」
短い一言だった。
俺は、笑った。
「なら、よかったです」
〈ガド判定、合格!〉
〈おかわりしたら完全勝利〉
〈十万人記念の最初の客〉
ガドが、俺を見た。
「何を笑ってる」
「今、これを見てくれてる人たちが、結構増えたみたいで」
「見張りか」
「……見守ってくれてる人たちです」
ガドは、よく分からないという顔をした。
それから、器を持ち上げる。
「そいつらは、食わんのか」
俺は、一瞬黙った。
コメントが、勢いよく流れた。
〈食いたいんだよ!〉
〈こっちにも一杯!〉
〈ガド、代わりにおかわりしてくれw〉
「……食べたそうには、してますね」
◇
外では、新しく降り立ったプレイヤーたちが、自分の冒険を始めている。
町へ出る人。
森へ踏み込む人。
最初の武器を選び、最初の魔物に驚く人。
アビス・フロンティア・オンラインの名前は、まだまだ広がっていくらしい。
俺の配信にも、知らない名前が増えていた。
十万人。
考えると、やっぱり落ち着かない。
でも、目の前には温かい器があった。
ガドが汁を飲み、イトが小皿の肉へ寄っている。
鍋の中には、まだおかわりもある。
「……正式リリース初日から、いい飯ですね」
〈お前が作ったんだぞ〉
〈これからもよろしく!〉
〈十万人、おめでとう!〉
俺は器を置き、配信用の視点へ顔を向けた。
「ありがとうございます。これからも、こんな感じでやっていこうと思います」
かまどの薪が、ぱちりと鳴った。
その横で、ガドの器が空になった。
「……まだ、あるか」
俺は、立ち上がった。
「ありますよ」
今度は、塩を少しだけ足してから。
正式リリース最初の仕事は、おかわりをよそうことになった。
●主人公視点
ガドが帰った後、俺は鍋を片づけた。
残った煮込みを別の器へ移し、かまどの火を落とす。
作業台を拭き、包丁を置く。
「……よし」
道具を置く場所が決まっていると、片づけも早い。
まあ、まだ置くものが少ないだけかもしれないけど。
足元まで来ていたイトへ、手を差し出す。
前脚が指に触れた。
そのまま手首を越え、腕へ。
肩でも止まらず、いつもの角の間に収まる。
「では、少し確認しましょうか」
〈ステータス?〉
〈威圧、ちゃんと読もう〉
〈大会中は読む暇なかったもんな〉
「はい。急に増えたので」
表示を開く。
まずは、今の自分からだ。
◇
【ステータス】
プレイヤー名:修羅
種族:鬼
種族Lv:35
最大HP:814
最大MP:148
最大スタミナ:672
筋力:153
耐久:143
敏捷:138
魔力:44
器用:49
称号:〈初代闘技王〉
獲得経験値:+10%【装備】
【種族特性】
〈怪力の芽〉
〈健啖〉
【スキル】
〈打撃 Lv.1〉
〈踏ん張り Lv.1〉
〈短剣術 Lv.2〉
〈斧術 Lv.3〉
〈索敵 Lv.3〉
〈鑑定 Lv.1〉
〈鬼装 Lv.2〉
〈受け流し Lv.2〉
〈踏み込み Lv.3〉
【主な装備】
主武器:黒角の大戦斧
副武器:白糸大蜘蛛の牙短剣×2
防具:岩鱗の胴当て・籠手・腰当て・脛当て
足:革靴〈鬼用〉
首飾り:始祖鬼の首飾り
【黒角の大戦斧】
〈喰命〉
この武器による攻撃で敵を倒すと、最大HPの5%を回復する。
現在の回復量:40
【始祖鬼の首飾り】
・最大HP+10%
・獲得経験値+10%
第一段階:〈鬼力〉
第二段階:〈鬼震〉
第三段階:〈鬼王の威圧〉
◇
「……やっぱり、称号がすごいですね」
初代闘技王。
自分の名前の横についていると、まだ少し落ち着かない。
〈ちゃんとつけてて偉い〉
〈本人が一番慣れてないw〉
〈鍋混ぜてた人、闘技王です〉
「鍋くらい、混ぜますよ」
俺は首飾りの説明へ指を伸ばした。
【〈鬼王の威圧〉】
【自身を中心に半径10メートルへ威圧を放つ】
【格下の敵を怯ませ、同格以上の相手にも一瞬のためらいを生じさせる】
【消費MP:40】
【再使用まで:180秒】
【対象の精神力・耐性によって効果は軽減される】
【プレイヤーの操作を強制的に奪う効果はない】
リュカは、一歩下がった。
レオンは、足を残した。
あの違いを思い出しながら、説明を読み返す。
「必ず止まるわけじゃないんですね」
〈レオン、歯食いしばってたもんな〉
〈使った後にちゃんと見ないと駄目か〉
「ですね。効いたつもりで飛び込むと、普通に剣が来そうです」
実際、来た。
胸へ入ったあの一撃は、まだよく覚えている。
説明を閉じると、画面の端で小さな印が光った。
【未読の運営通知があります】
俺は手を止めた。
「……あ」
〈やっと気づいたw〉
〈大型アップデート読め!〉
〈今、そっちも大騒ぎだぞ〉
「ログインして、すぐ台所に行ったので……」
後で読むつもりだった。
その後が、今です。
◇
【アビス・フロンティア・オンライン】
【正式サービス開始のお知らせ】
βテストへのお礼。
キャラクターや拠点、配下の引き継ぎ。
修正された不具合の一覧。
そこまでは、落ち着いて読んでいた。
次の項目を開く。
【世界拡張アップデート】
【既存の地域に加え、東西南北へ四つの新大陸を追加しました】
「……四つ?」
指が止まった。
もう一度、最初から読む。
四つ。
町でも、ダンジョンでもない。
大陸。
「大陸、四つ追加したんですか?」
〈そうなんだよ!〉
〈俺も二回読んだ〉
〈βの世界で十分広かっただろ!?〉
〈まだ隣町にも行ってないんですが〉
俺も、似たようなものだ。
森を歩いて、谷へ出て、峡谷へ通った。
それで二週間以上遊んで、まだ見ていない場所が山ほどある。
その外側へ、大陸を四つ。
「……一個ずつでも、よかったんじゃないですかね」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
でも、続きを開く手は止まらなかった。
◇
【北方・霜冠大陸イスヴェル】
【東方・暁雲大陸アウレリア】
【南方・翠潮大陸ネレディア】
【西方・黄昏大陸ヴェスティア】
名前の横に、短い紹介があった。
北には、氷雪の地に暮らす霜晶人。
東には、雲海の上へ都市を築いた翼人。
南には、沿岸と海底に生活の場を持つ海人。
そして、西。
【巨人族による独自の文明が存在します】
「……巨人」
俺は、自分の手を見た。
鬼になって、大きくなった。
集落の小鬼たちより、ずっと背も高い。
でも、巨人から見たらどうなんだろう。
町の入口。
店の机。
椅子。
全部、でかいのかもしれない。
〈西、巨人だって!〉
〈武器見たい〉
〈あそこの斧、修羅なら持てる?〉
〈まず家の階段登れるのか?〉
「……階段、一段が俺の腰くらいあったら困りますね」
想像して、少し笑った。
続きを読む。
【各大陸には、固有の種族・国家・文化が存在します】
【これらの固有種族は、キャラクター作成時の初期種族として選択できません】
【プレイヤーの初期出現地点も設けられていません】
俺は、表示へ顔を近づけた。
プレイヤーが、そこから始めることはない。
ということは。
そこにある町も、暮らしも、まだ誰も見ていない。
どんな言葉で話すのか。
何を食うのか。
どんな魔物がいるのか。
公式の紹介には、それ以上書かれていなかった。
◇
【新大陸への定期航路・転送先は存在しません】
【到達には、プレイヤー自身による探索、移動手段の確保が必要です】
「……船も、ない?」
〈ない〉
〈自分で行けって〉
〈海、どうやって渡るんだよw〉
〈船大工の出番来た!〉
コメントが、急に速くなった。
〈うちの領地、海沿いなんだけど〉
〈港整備してる人、今どんな気持ち?〉
〈造船できる職人探してる〉
〈食料と水、何日分いるんだ〉
〈まず海岸までの道がない〉
俺は、しばらくそれを読んでいた。
大会では、強い相手を倒せば先へ進めた。
でも、海の向こうへ行くなら。
斧だけ持っていても、たぶん駄目だ。
船。
食料。
道を調べる人。
作る人と、運ぶ人。
「……みんなで準備しないと、難しそうですね」
〈遠征隊だな〉
〈領主プレイヤー、資金出せ!〉
〈金は出すから船作れる人来てくれ〉
〈この配信で募集すんなw〉
俺の鍋を見ていたはずのコメント欄で、船を造る話が始まっていた。
◇
次に開いたのは、地図の説明だった。
【地図機能を更新しました】
【未踏破・未確認の地域は、黒く表示されます】
【地図情報は、自身による探索のほか、踏破経験のあるNPC・プレイヤーから取得できます】
俺は世界地図を開いた。
森。
水場。
南の集落。
西のダンジョンと、東の谷。
黒角の峡谷まで、見慣れた場所がつながっていた。
そこから、縮める。
もう一度。
さらに、もう一度。
「……うわ」
真っ黒だった。
俺が歩いたところだけが、小さく見えている。
その周りには、輪郭も、海岸線もない。
四つの新大陸の名前は、方角を示す案内として並んでいた。
でも、形も、大きさも、正確な場所も分からない。
ただ、黒い。
〈俺のもほぼ黒だぞ〉
〈世界地図という名の暗闇〉
〈これ埋まる日来るのか?〉
「……一人じゃ、無理ですね」
言いながら、少し笑っていた。
黒いところには、まだ行っていない場所がある。
そこを歩いた人に会えば、道を教わることもできる。
俺が歩いた森の水場だって、これから来る人には役立つかもしれない。
説明を、もう少し読む。
相手の許可を得て、地図の一部を共有する。
紙に描かれた地図から、情報を写す。
実際に旅をした人から、道順や目印を教わる。
ただし、名前を聞いただけで周囲まで見えるわけではなかった。
道を知る人からは、道。
山へ登った人からは、山で確かめた範囲。
自分の足で歩いた記録と、教わった情報は、区別して残るらしい。
「これ、ガドに聞いたら……」
俺は立ち上がった。
頭の上でイトが少し揺れたので、慌てて角へ手を添えた。
「すみません。ちょっと、集落まで行きましょう」
◇
ガドは、槍の手入れをしていた。
俺を見ると、顔を上げる。
「どうした」
「道、聞きたくて」
隣へしゃがみ、地図を共有表示にする。
黒い範囲を見たガドが、眉を寄せた。
「ずいぶん、何も知らんな」
「……そうなんですよ」
〈辛辣w〉
〈事実だけど!〉
俺は黒角の峡谷を指した。
「ここより先、行ったことあります?」
「ある」
「町とか、ありますか」
ガドが、布を置く。
俺の地図へ指を伸ばした。
「ヴァルグだ」
名前を聞いた瞬間、黒い範囲に小さな印が浮かぶ。
【地名情報を取得しました】
【魔都ヴァルグ】
峡谷の、ずっと先。
周りは、まだ黒い。
町の場所だけが示されていた。
「……魔都」
「いろんな種族がいる。物も、人も多い」
「鬼も?」
「いる」
「店も?」
「ある」
俺は、地図の印を見た。
大会会場で会った、いろんな姿のプレイヤー。
あんなふうに、違う種族が同じ道を歩いているんだろうか。
見てみたい。
ガドの指が、峡谷の奥へ戻った。
「ガルゼンの砦を越えろ。その先に古い街道が残ってる」
細い線が、黒の中へ伸びていく。
「途中に橋がある。俺が通ったときは使えたが、今は知らん。水を取るなら、こっちだ」
橋。
水場。
休める場所。
説明されたところだけ、道の周辺が見えるようになった。
【ガドから地図情報を取得しました】
【取得範囲:黒角の峡谷以東・魔都ヴァルグへの旧街道】
俺は、少し身を乗り出した。
さっきまで、何もなかったところだ。
今は、行けそうな道がある。
「……ありがとうございます」
「行くのか」
ガドが聞いた。
俺は、うなずいた。
「準備してから、行ってみたいです」
ガドは俺の袋へ目をやり、それから頭の上を見た。
イトが、角の根元から前脚を伸ばしていた。
「そいつもか」
「はい。今度は、一緒に」
「なら、水と飯を余分に持て。道の途中で、都合よく手に入ると思うなよ」
「分かりました」
◇
拠点へ戻り、俺は地図をもう一度開いた。
世界は、相変わらず黒かった。
東西南北には、新しい大陸。
翼を持つ住民。
海の中の町。
巨人の国。
考えれば、いくらでも気になる。
でも、その前に。
黒角の峡谷から伸びた道を、指でたどる。
魔都ヴァルグ。
まずは、ここだ。
〈次は旅だな!〉
〈地図広がるの楽しみ〉
〈ガルゼンに挨拶していこう〉
〈巨人の斧、いつか見に行ってくれ〉
「見たいですね。……持てるかは、分かりませんけど」
俺は笑って、表示を閉じた。
台所へ戻る。
鍋は、きれいに洗ってある。
作業台も空いている。
旅の準備をするには、ちょうどよかった。
「では、保存食から作りましょうか」
〈結局、料理に戻ったw〉
〈でも今度は旅支度〉
〈干し肉いっぱい作ろう〉
頭の上からイトを受け取り、いつもの石へ下ろす。
小さな脚が、俺の指へ触れた。
「知らない町、行きますよ」
イトは少し歩き、作業台のほうへ向き直った。
俺も袋から肉を出し、包丁を手に取る。
世界が大きくなった。
行きたい場所も、増えた。
だから、まずは薄く切るところからだ。




