第1話:社畜のタイムリープ、あるいは2歳児の胃腸の限界
「真理子ちゃん、今日もお残業かしらぁ? 偉いわねぇ~、若いうちの苦労は買ってでもしろって言うものねぇ!」
給湯室で遭遇した五十嵐部長(58歳・趣味はゴルフと不毛な精神論)の、酒焼けでガラガラになった声が耳の奥で鼓膜をビリビリと震わせている。
……違う。五十嵐部長ではない。これは、目の前でニコニコと眩しい笑顔を振りまいている、我が実の母親・葛貫智恵子(当時28歳)のプリティなボイスだ。
「さあマコちゃん、お口あーんして? 今日はマコちゃんが大好きな、お芋の裏ごしペーストよぉ〜」
目の前に突きつけられたのは、クマさんのイラストが描かれたプラスチックのスプーン。その先に乗っているのは、離乳食特有の、なんだかどろりとした黄色い物体だ。
「…………ぁう」
声が出ない。正確には、声帯と舌の使い方がさっぱり噛み合わない。
喉から漏れ出たのは、三十二年間生きてきた大人の女性の声ではなく、子猫の威嚇よりも頼りない「あう」という喃語だった。
(嘘でしょ……? なにこれ、なんなのこれ!?)
葛貫真理子(32歳・元IT系中間管理職・独身・年収420万・推定死因:過労運転のトラックによる側面衝突)は、絶望のどん底で自分の手を見つめた。
視界に入るのは、かつてキーボードを高速打鍵しすぎて腱鞘炎の湿布を貼りまくっていたあのボロボロの手ではない。モチモチとしていて、関節の節々に深いシワが刻まれた、パンパンのクリームパンのような幼児の手だった。
目線を下に移せば、そこにあるのは寸胴な短足と、いちご柄のスタイ(よだれかけ)。
……そう、タイムリープである。
どうやら私は、三十年前にタイムリープしてしまったらしいのだ。
1. 前世の社畜人生は、あまりにも無味無臭でブラックだった
死ぬ直前のことを思い出してみる。
当時の私は、都内の某中堅IT企業で「名ばかりアシスタントマネージャー」という名の何でも屋をやっていた。
朝は6時半の満員電車に揺られ、人込みの圧力で肺の空気をすべて吐き出しながら出社。
8時半から始まる定例会議では、炎上中のプロジェクトの火消し役に任命され、クライアントからは「仕様書と違う」「納期を短縮しろ」「でも予算は増やせない」という無茶振りの三点セットを突きつけられる。
『葛貫さんさぁ、君って『NO』と言わないのが長所だよね。そこ買ってんだから、今回の深夜残業もよろしくね!』
そう言って爽やかに微笑みながら仕事を丸投げしてきた営業課長(既婚・不倫疑惑あり)の顔が脳裏をよぎる。殺意が芽生える。
昼食はデスクの上で食べる、コンビニの100円おにぎりと、エナジードリンク。
午後からは、使えない新人のフォローと、上がってきた謎の不具合報告の検証。気がつけば時計の針は深夜1時を回っており、タクシー代をケチるために終電ギリギリで駅までダッシュする日々。
休日? 土曜日は寝て潰れ、日曜日の夕方からは「サザエさん症候群」ならぬ「鬱症状」を発症して明日の胃薬を準備する。
三十歳の誕生日は、一人寂しく深夜のオフィスで「エラーログの解析」をしながら、コンビニのショートケーキ(賞味期限切れ間近で30%オフ)を食べた。ケーキに立てたロウソクの火を吹き消した瞬間、サーバーが落ちてクライアントからの怒号の電話が鳴り響いたのは、今となってはいい思い出……なわけがないだろバカヤロー!!
そして、あの雨の日の夜。
連日四十時間睡眠なしで稼働していた私の意識は限界を迎えていた。
横断歩道を渡ろうとした瞬間、視界を覆い尽くす激しいヘッドライトの光。ズドンという鈍い衝撃。体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる瞬間、私の脳裏をよぎったラストメッセージは——
『あ……明日納品の提案書、バックアップ取るの忘れた……』
社畜の悲しきサガである。死に際にしてまで仕事の心配をするなんて、我ながら哀れすぎて涙が出てくる。
……とにかく! 私の三十二年間の人生は、汗と脂とエナジードリンクと胃薬で構成された、完全に「ハズレ」の人生だったのだ!
2. チートノートの存在と、今世の完璧な「勝ち組ロード」
(だが……神様は私を見捨てていなかった!)
目の前で「マコちゃん、お口開けて~?」とスプーンをフリフリしている母・智恵子を横目に、私は心の中で拳を固く握りしめた。
実は、前世の私はただ死に体で働いていたわけではない。
極限状態の社畜が現実逃避のために行き着く究極の娯楽——そう、「もしもタイムリープしたら無双するための妄想ノート」を、秘かに書き溜めていたのだ!
『人生やり直し! タイムリープした時に絶対にやるべきことリスト』と名付けられたそのノートには、私の三十年間の血と汗と涙の結晶がぎっしりと詰まっていた。
1990年代〜2000年代の爆発的成長銘柄のリスト(某大手通信会社、有名ネット通販、ゲーム会社などの株価変動データ)
世界を揺るがす大事件や自然災害の発生日時(回避用)
ヒットするアニメ、マンガ、ゲームのタイトルと発売日
ビットコインの初期購入推奨時期
絶対に近づいてはいけないブラック企業のリスト
あのノートは、疲れ果てた深夜の自室で「もしも高校生に戻れたら……」「もしも幼少期に戻れたら……」と涙を流しながら書き綴った、私の生きる希望(妄想)だった。
(待って? でも、あれは前世の私の部屋にあったノートでしょ? 今の私は2歳児。ノートなんてあるわけが……)
そう思った瞬間、自分のベビーベッドの布団のすき間に、何やら「重たい硬い物体」が挟まっていることに気づいた。
こっそり手探りで確かめてみる。
手に触れたのは、ツルツルとしたビニールカバーの感触。そして、表紙にデカデカと書かれた私の汚い字。
『タイムリープ無双ノート(極秘)』
(あったーーーーー!? なんで!? なんで2歳のベビーベッドに前世のノートが同梱されてるの!? タイムリープの仕様どうなってんの!?)
理由は分からない。だが、現実としてノートはここにある!
神様、ありがとう! プレゼン資料のバックアップは消えたけど、私の人生のバックアップはここにあったんだね!
(決めた……! 今世の私は、絶対に社畜になんてならない!)
私の脳内で、完璧な「第二の人生計画(第二の人生ライフプラン)」が爆速で構築されていく。
【幼児期〜小学生】
チートノートを完璧に隠し通し、表面上は「ちょっとおしとやかで賢い良い子」として過ごす。無駄な目立ちは避け、体力をつける。
【中学生〜高校生】
親の口座をうまく使わせるか、お小遣いをやり繰りして、爆伸び確定の初期IT株に投資。同時に、超高偏差値の進学校へ進学。
【大学生】
一流国立大学に入学。株の利益で資産はすでに数億円。大学では無駄なサークルに染まらず、将来性の高いホワイト企業の優良物件(男)を吟味。
【20代前半】
超大手ホワイト企業に就職(※ここ重要。働かなくても生きていけるが、社会的信用と暇つぶしのために一応就職する)。残業ゼロ、有給消化率100%の部署でニコニコ働く。
【20代後半】
資産家で性格が良く、家事折半をしてくれるイケメン旦那と結婚! 広い庭付き一戸建てを建てて、子供を三人くらい産み、休日は家族でハワイ旅行!
(完璧……完璧すぎるわ!! これぞ人間らしい丁寧な暮らし! 社畜人生からの脱却!!)
モチモチの拳を握り締め、心の中で高らかに勝利宣言をする。
そのためには、まず第一関門だ。この手元にある「チートノート」を親に見つかるわけにはいかない。
もし両親に見つかったら、「なにこれ? マコちゃんのお絵描き?」「ていうか、漢字がいっぱい書いてあるけど……株? ビットコイン?」と怪しまれ、最悪の場合、新興宗教の教祖か超能力者として研究機関に売られてしまうかもしれない。
(絶対に……絶対に隠し通してみせる!)
3. 2歳児の身体スペックという誤算
「あら? マコちゃん、どうしたの? 急に真面目な顔して。お腹痛いのかしら?」
母・智恵子が覗き込んできた。
いけない。思考に没頭するあまり、2歳児らしからぬ「眉間にシワを寄せた中間管理職の顔」になっていたらしい。
「あぅー、うー!」
慌ててニコッと笑い、子供らしい可愛い声を出す。
よし、完璧な演技だ。これなら怪しまれることはない。
「あらぁ~可愛い! 智樹さーん! 見て見て、マコちゃんがニコニコしてるわよ〜!」
奥の部屋から、父・智樹(当時30歳・ごく普通のシステムエンジニア・少し不憫)が新聞片手に起きてきた。
「おお、真理子。今日も可愛いなぁ。どれ、パパにも抱っこさせてくれ」
「ちょっとあなた、手は洗ったの? 煙草くさい手でマコちゃんに触らないでちょうだい」
「ひどいなぁ智恵子は。ちゃんと洗ったよ」
平和な家族の光景だ。
前世の私は、両親とは特に仲が悪いわけでもなかったが、社会人になってからは忙しさのあまり年に一度実家に帰るかどうかという関係だった。こうして若い頃の両親を見ると、なんだか胸が甘酸っぱくなる。
(お父さん、お母さん。今世の私は手のかからない良い子になって、将来は巨万の富で二人を楽にさせてあげるからね……!)
感動に浸っていたその時。
ぐうぅぅぅぅぅぅ…………。
私の小ぶりなお腹から、凄まじい落雷のような音が鳴り響いた。
(……え?)
直後、胃のあたりを激しい激痛が襲う。
(な、なにこれ……!? 痛い! 胃が、胃が捻じ切れるように痛い!!)
原因はすぐに判明した。
「2歳児の消化器官に、32歳社畜のストレス性胃炎の記憶が肉体的に逆流してきた」……わけではない。単に、さっき母が口に運ぼうとしていた「お芋のペースト」を拒否しすぎて、お腹が空きすぎているのだ。
しかも、2歳児の胃袋は信じられないほど小さい。ちょっとお腹が空いただけで、全身のエネルギーが切れて強烈な不快感と痛みが襲ってくる。
「オギャーーーーーーー!!!」
声が出た。
大人の理性で抑え込もうとしたのに、本能が叫び声を優先させた。
「あら大変! マコちゃんお腹が空いたのね! ほらほら、お芋さん食べようね〜!」
「オギャァァァ!(いらない! それじゃない! 私は今、ブラックコーヒーと胃薬が飲みたいの! それか脂ぎったラーメンをくれ!!)」
2歳児の体は、大人の思い通りにならない。
脳みそは「完璧な人生計画」を練っているのに、舌はペースト状の芋を拒否し、手足はバタバタと暴れ回り、目からはポロポロと涙が溢れ出る。
(くっ……! 自分の体なのにコントロールが効かない……! 2歳児の肉体、弱すぎる……!!)
結局、私は涙とよだれで顔をぐちゃぐちゃにしながら、母に無理やりお芋のペーストを口に押し込まれ、「もぐ……もぐ……(うまいなこれ……)」と味わうハメになったのだった。
4. 母・智恵子という「最大のイレギュラー」
どうにか腹を満たし、ベビーベッドの上に転がされた私。
体力が尽きたのか、猛烈な眠気が襲ってくる。2歳児の睡眠欲には勝てそうにない。
(ふぅ……危なかった。とりあえず、ノートは敷布団の下に押し込んだ。これで当分は安全……)
まぶたが重くなる中、リビングから母と近所の奥さんの話し声が聞こえてきた。どうやらインターホンが鳴って、隣の家の山田さんが野菜のお裾分けに来たらしい。
「あら山田さん、いつもすみません~! 綺麗なキャベツ!」
「いいのよ~、実家から大量に送られてきてね。ところで智恵子さん、マコちゃんは元気?」
山田さんの声だ。懐かしい。近所の世話焼きなおばさんだ。
「ええ、もう元気すぎて困っちゃうくらい! うちのマコちゃんね、本当に手がかからない良い子でねぇ~」
母・智恵子の声が弾んでいる。
ふふん、そうでしょうそうでしょう。私は前世の記憶を持つエリート2歳児ですからね。
「でもね、山田さん。ここだけの話なんだけど……」
母は声を少しひそめた。だが、ベビーベッドの私にはバッチリ聞こえている。
「うちのマコちゃん、実は『赤ん坊の言葉』じゃなくて『株の専門用語』を喋るのよ」
(……は?)
私は重くなりかけていた目を見開いた。
いま、なんと言った?
「えっ!? 株の専門用語!?」
山田さんが素狂ったような声をあげる。
「そうなのよ〜! 朝起きたらね、私の顔を見て『ニッケイヘイキンが〜』とか『買い気配が〜』って、すっごい滑舌良く呟いてるの! きっとこの子、将来は世界の経済を動かす大投資家になるんじゃないかしらって、私心配になっちゃって!」
(言うてへん!!!!)
私は心の中で絶叫した。
言うてへん! 私が言ったのは「あぅー、うー!」だけだ!!
「ニッケイヘイキン」なんて一言も発していない! 2歳児の発達段階を舐めるな!!
「まぁ~! 智恵子さんたら相変わらず冗談が上手なんだから~! ホラ吹きねぇ!」
「やだぁ、ホラじゃないわよぉ~本当なんだからぁ~!」
二人は「おほほほ」と笑い合っている。
(あ、なんだ……ただの親バカの過剰なホラか……びっくりした……)
前世の記憶をたどってみる。
そういえば、私の母・智恵子は、昔から極度の「見栄っぱり」で「ホラ吹き」だった。
近所の人や親戚に、娘(私)のことを過剰に盛って自慢する癖があったのだ。
『うちのマコちゃんはね、英語の辞書を丸暗記してるのよ~』
『うちのマコちゃんはね、バイオリンの英才教育を受けてるのよ~(※実際はプラスチックのおもちゃのバイオリンをガチャガチャ鳴らしていただけ)』
幼少期の私は、母が吹いたホラのせいで、周囲から「天才児」と勘違いされて無駄に期待され、後で勝手に失望されるという被害を何度も受けていた。
(やれやれ……相変わらずのホラ吹き母さんだな。まあいいわ、近所の奥さんに適当なホラを吹くくらい、実害はないし——)
そう思った、次の瞬間だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「あら、誰かしら? はーい」
母が玄関へ向かう。
ドアが開く音がして、スーツを着た男性のハキハキとした声が聞こえてきた。
「突然の訪問、失礼いたします! 私、〇〇証券の者と申します! 実は本日、近隣の皆様に最新の株式投資のご案内をさせていただいておりまして……」
「あらぁ、証券会社さん? ちょうどよかったわ! うちの2歳の娘がね、最近『〇〇(※ノートに書かれていた爆伸び確定の銘柄名)』の株を買い占めろってうるさくて~」
(ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!)
私はベッドの上で跳ね起きた。
なぜだ。なぜ母は、私が敷布団の下に隠したはずの「チートノート」の1ページ目に書いてあった【1990年・絶対買うべき銘柄】の名前を正確に口にしているんだ!?
見ていないはずだ。ノートは私が確実に隠した。母が開いた形跡もなかった。
なのに、なぜ!?
「えっ……? 奥様、今なんとおっしゃいました? 『〇〇』の銘柄……ですか? 実はそれ、弊社が本日最も注力しておすすめしようとしていた、未公開の超優良株でして……なぜそれを知って……!?」
営業マンの声が震えている。
「あらやだ、本当に? うちのマコちゃん、予知能力でもあるのかしらぁ~? じゃあ、その株、とりあえず1000株くらい買っといてちょうだい!」
「えっ!? あ、はい! ありがとうございます!!」
(嘘でしょーーーーーーーーー!!??)
ベビーベッドの上で、私は泡を吹いて倒れそうになった。
母のホラが……。
適当に吹いたはずの母のホラが……現実と噛み合って、ミラクルを起こしている!?
違う、ミラクルなんて生易しいものじゃない。
母の口から出まかせのホラによって、私の隠していた「チートノートの知識」が勝手に世の中に漏洩し、我が家の資産状況と私の未来が、あらぬ方向へ加速し始めているのだ!
(やばい……やばいやばいやばい!! このままだと、私が静かに隠れ潜んで『普通に賢い子』として育ち、裏でコソコソ投資して金持ちになるという計画が丸つぶれになる!!)
「マコちゃ〜ん! 証券会社のおじさんにバイバイは〜?」
能天気な笑顔で部屋に戻ってきた母・智恵子。
「あーうー!(お母さん!! 余計なことを言うな!! 投資は自己責任で静かにやるものなんだよ!!)」
「あらぁ~、マコちゃんたら『もっと買え』って言ってるのかしらぁ? 智樹さ〜ん、貯金全額降ろしてきてー!」
「オギャァァァァァァァ(やめろー!!)」
社畜人生を終え、平和で完璧な第二の人生を手に入れたはずの葛貫真理子(2歳)。
彼女の前に立ちはだかる最大の敵は、ブラック企業でも、ライバル投資家でもなかった。
それは——無意識に現実を改変する、最強のホラ吹き実母だったのだ。
静かに無双したい娘と、豪快に未来をバグらせる母。
二人のカオスなやり直し人生の幕が、今、切って落とされた——!




