04 記憶のデフラグメント
夜の街中、やや青よりの黒いくたびれたスーツの男が、よたよた目の下にくまを作って歩いている。
古里大喜は、絶望していた。先ほど、弁護士や元妻との話し合いも終わり、離婚が確定し慰謝料の振り込みも完了したところである。
現在の慰謝料は通貨ではない。元妻は信用スコアを担保に、ローン形式でクレジットを支払ったようだったが、彼にとってはどうでもよいことだった。
元妻の浮気発覚からの離婚であった。
今、彼はサポートAIをオフにしている。しゃべる気にも、声をかけてもらうのもしんどい。酒でも飲んだらいいのか、どうなのか、いっそ首でもくくりたいくらいだった。立ち寄ったコンビニで、呆然と日本酒を見る。ふと、元妻がよく好んで食べていたスイーツのイチゴパフェが目に入り胸が締め付けられる。
頑張っていたつもりだった。何がいけなかったのだろう。
ここ一か月は彼にとって怒涛の一月であった。はじまりは一通の通知をサポートAIが検知したところからだった。
どうでもいい通知はサポートAIがいい感じに処理してくれる、そんな時代。サポートAIが神妙な声で『ちょっと、一人になれる、ココ、で話したいことがあるんだ』から、それははじまった。
誰からの通告だったのかは隠されていてわからないものの、元妻が不倫している証拠が入っていた。その証拠を作りもの、偽造ではないかと疑ったのだが、自分の目で、現場を目撃するまでに至り、そうなのだと理解するしかなかった。
現場に突入した彼は正気ではいられなかった。必要なことはサポートAIが対応し、記録し、通報し、正確な電子証拠品として成立するように保存された。彼は、夢中で元妻と浮気男を口で責め立てた。
「違うの」
という元妻の声が今でも反芻される。
「そんなつもりじゃない」
訴えかけるようにすがる元妻の姿に、頭は熱く燃え盛らんばかりだった。
社会的な制裁はできる限りのことはしたはずである。だが、だからどうしたというのだ。彼の胸に空いた穴と、壊れた日常はもう戻りはしない。
コンビニで酒を買った彼は、近くの公園へと向かった。夜、薄暗い公園に人影は少ない。ベンチに座って、ウィスキーのキャップを開けてこくりと一口。
どうしてこうなった。
いくら社会的な制裁を、浮気男ふくめてやったところで、気持ちは晴れることはなかった。二人の信用スコアは致命的に損なわれただろう。これまでのような生活は送れないだろう。でも、できてその程度である。
結局何も残らないのなら、いっそ自らの手で、それ以上の制裁を与えてもよかったのではないか。
そんなことを言うたびに、サポートAIが、落ち着いた声でいさめてくれたのだった。
でも、本当にそれでよかったのだろうか、と思っている。
いつの間にか隣にいた黒猫、その頭を彼はそっとなでる。
「お前らはいいよな」
にゃーんと、鳴いて応える猫だが、きっと何もわかっていないだろうと、それでいいさと彼はひとりごとを続ける。黒猫は吸い込まれるような金色の瞳で、彼を注視していた。
「来世は、猫として生まれたいよ。といっても、猫は猫なりの苦労があるのかな。はは」
彼は黒猫のあごをなでまわすと、くるりと猫はひっくり返りへそを見せる。彼はそれをいいことに、お腹をさわさわとなでていく。
「俺、あいつの料理、好きだったんだよ」
ぽつりと彼はつぶやいた。
「どれもこれも、覚えてる。覚えてるんだ」
ほどなくして、黒猫は気が変わったのか、一鳴きしてどこへともなく歩き去っていった。
男は、酒をちびちびと飲みながら、公園のベンチで嗚咽を漏らしていた。
◇ ◇ ◇
深夜、酒に酔った男はふらふらになりながら、歩いていた。普段はまっすぐ帰れるであろう道を、あえて避けた。それは、思い出したくないから、という回避行動だったのかもしれない。
細い通りの壁沿いに、イスに座っている妙な人が見えたが、どうでもいいと通り過ぎようとした時だった。
「お客さん、忘れたいことはないですかね?」
少し歳をとった女性特有の声に、彼は呼び止められた。いきなりなんだろうと、振り返って、座っている女性を見る。
紫のフードをかぶった、怪しげな雰囲気でありながら、夜にひっそりたたずむ姿は、幻想的だ。
「何もかも、忘れたいって言ったら、どうなるんです?」
ぶっきらぼうに彼は答えた。
「まぁまぁ、でも、すべてを忘れると、自分のことも、生活の仕方も忘れてしまいます。何を忘れたいのです?」
「ふむ……」
彼は一歩、フードの女性に近づいた。
「あいつと過ごした時間、全部だ」
「なるほど、ではこちらを差し上げます」
女性はなにやら、拡張現実を操作しているのだろう、手や指を複雑に動かし、イスの下から一つのカチューシャに機械が取りついたような装置を手渡さんと前に出した。
「なんだいこりゃ」
「これをつけてお眠りください」
「それでどうなるんだい」
「忘れたいことを忘れられます。ただしご使用は、一度っきりにしてください」
「へっ」
彼は、なるようになれ、そう思って受け取った。
◇ ◇ ◇
朝、古里大喜は、二日酔いに頭を痛めつつも、窓を開け、すがすがしい空気を吸って一息ついていた。
それにしても不思議だった。一人暮らしにしては広すぎる部屋。クレジットの無駄もいいところである。
「なぁ、今日の予定なんだっけ?」
『今日から、ここ三日は予定はありません』
「ふむ……」
コップ一杯に水を注いで、二日酔いの薬とともに、彼はごくごくと飲む。そして、はー、と一息入れつつ、妙にがらんどうとした部屋を見渡す。
「俺って、ルームシェアとかしてたっけ?」
『検索――そういう記録はありません』
落ち着かなさを感じながらも、その違和感の糸の先は、ふわっと靄にかかったように消えてしまう。
「なんか落ち着かないな。ちょうどいい引っ越し先を調べてよ」
『急ですね。わかりました』
サポートAIは、つらつらと拡張現実に、いくつもの立体間取りを投影していく。
「やっぱそうだよな……」
一人暮らし用の候補として出された部屋と、今いる自分の部屋とを比べて彼は違和感を募らせる。
小腹がすいたなと、冷蔵庫を開けると、馴染みのないスイーツ、イチゴパフェがあった。
「なぁ、俺、こんなん買ってたっけ?」
『私は知りません。昨日酔っていらっしゃったので、私をオフにしたときに買われたのでは?』
彼は、どちらかというと和菓子派であり、洋菓子を好んで食べるタイプではなかった。
なんとなく落ち着かない気持ちから、各部屋を見て回る。ふと、寝室のベッドで奇妙なものを見つけた。
見覚えのない装置がある。
「これ何?」
『なんでしょう、購入履歴にも、商品検索にも該当するものはありません。個人の創作物ではないでしょうか』
「捨てといて」
『かしこまりました』
廃棄のために室内ドローンが、装置を持って、窓から部屋の外に飛び出していった。
空は青々としており、過ごしやすいそよ風に、木々がさわさわと音を立てて揺れている。




