白き鬼 7
『そう怖がるな。殺しはせぬ』
小夜が動けずにいると、鬼は小夜のすぐ側――手を伸ばせば届くという距離にまで近付いていた。
鬼は、小夜の髪に指を絡ませ、頬を撫でる。
『ちょうど退屈していたところだ。少し楽しませろ』
「や……いや……」
小夜は震えながら身を引く。
鬼がその体を引き寄せようとした。
刹那――
『鬼様っ!』
『!』
久遠が叫ぶ。
だが、鬼はそれより早く横に飛び退いた。
銀色の閃きが鬼の目の前を掠める。
「大和!」
木々の合間から飛び出して来た者の姿を見て、小夜が声をあげた。
大和は一瞬だけ小夜――そして、足元で伏している清正の方を見やり、すぐさま鬼との間合いを詰めると、刀を振り下ろす。
鬼は振り下ろされた刃を受け止めた。
片手――それも指。人差し指と中指の間で刃を挟んでいる。
「なっ!?」
全力で振り下ろした刀をあっさり止められ、大和は驚愕した。
『……太刀筋は悪くない。疾さも大したものだ……人間にしてはな』
「くっ……!」
大和は刀に力を込めて押すが、鬼は半歩も動かない。
『そういきり立つな。まずは力を抜け。そうすれば離してやる』
「…………っ」
『……やれやれ』
刀を引く気が見られず、鬼は嘆息した。
僅かに身を屈め、大和を蹴り飛ばす。
その瞬間――
「ぐあっ!」
短い悲鳴をあげて、大和は信じられない勢いで吹っ飛んでいった。
『おっと。少し強く蹴り過ぎたか』
蹴りを放った姿勢のまま、鬼が呟く。
「大和っ!?」
小夜は悲鳴のような声をあげると、慌てて大和を追い掛けた。
大和の体はかなりの距離を飛ばされ、木に激突して動きを止めた。
「あ……くっ……」
荒い呼吸を整えながら、なんとか上体を起こす。
立ち上がる事は出来そうにない。
「……なん……だ。今の蹴り……」
木に激突する直前に、風で衝撃を殺したが、それでもかなりの痛手を受けた。
あの鬼が危険な存在である事は、見た瞬間分かった。
背筋に悪寒が走る。
今まで出会ったどんな妖魔よりも恐ろしい。大和は、その恐怖心を拭うように刀を握り締める。
その時、
「大和――っ!」
木々の向こうから小夜が走って来るのが見えた。
「……小夜」
「大和! 大丈夫っ!?」
小夜は口元に手を当て、心配そうにこちらの顔を覗き込む。
大和は顔を上げると、小夜の目を見据え――告げた。
「……小夜。逃げろ」
「……えっ?」
一瞬、驚いたような表情を浮かべて、小夜が口を開く。
「逃げろって……どういう事?」
「……どういう事も何も……あの鬼がここへ来る前に、この場所から離れろって言ってるんだよ」
「大和は……?」
「俺の事はいい……早く行け」
刀を支えにして、大和はどうにか立ち上がる。
「でも……」
「早くしろ。今はまだ……奴はこっちを殺す気は無いらしい。今のうちに……」
小夜は激しくかぶりを振って、大和の腕を掴む。
「嫌っ! 大和一人残して私だけ逃げるなんて!」
「そんな事言ってる場合か!」
大和は怒鳴り――歯噛みしながら、低く呻く。
「……あれは……まずい」
「でも……私……」
いつになく強張った表情の大和を見て、小夜は躊躇い――大和の着物の袖を強く掴んだ。
「一人は……嫌……」
「…………」
裾を掴んで俯く小夜を見て、大和はため息をついた。
「……先に行け。あの鬼を倒して後を追う」
小夜が顔を上げる。
「……本当?」
「ああ」
大和は刀を強く握り締めた。
『俺を倒すとは……また随分とでかく出たものだな』
「!」
頭上からの声に、大和は顔を上に向けた。
空からふわりと鬼が舞い降りてくる。その手には、刀身が自身の身の丈程もある巨大な刀が握られていた。
鬼は音も無く着地すると、刀を大和に向ける。
『それに……俺からは逃げられん。俺にその気が無い限りな』
大和は身構えた。
『そして……俺にはその気が無い』
「……行け!」
小夜にそう叫んで、大和は全力で鬼の刀を受け止める。鬼の踏み込みはおろか、刀を抜く瞬間さえ見えなかった。
ただ反射的に体が動いた。
刀を受け止めた瞬間、とんでもない衝撃が全身に伸し掛かる。
「…………っ!」
『ほぉ。受けたか。お前……俺の動きが見えるのか?』
(……見えねぇよ……!)
鬼の問いに、大和は胸中で呻く。実際、声を出す余裕はなかった。
「……大和……」
強く胸を締め付けられるような思いの中、小夜は踵を返すと、大和に言われた通りその場を離れる。
必死に戦う彼の足手まといになってはいけない。
――大和はきっと鬼を倒してくれる。
そう信じて、小夜は走り続けた。
森の中に消えていく小夜を目で追って、鬼が呟く。
『……女を逃がしたか』
視線をこちらに向け、
『まあ……そう考えるのは自然だろうが……あまり賢い判断とは思えんな』
「……何?」
鬼は薄く笑んで、刀を引く。
そして――大和との距離を取った。
「!?」
突然重圧が消え、大和は一瞬体勢を崩す。
だが、鬼はこちらの不意をつく為にそのような行動を取った訳では無いらしい。
尤も、不意打ちをする必要も無いだろうが。鬼の意図が読み取れない。
大和は鬼を凝視する。
しかし、鬼は気楽な様子で刀を肩に担ぎ上げ、
『考えてもみろ。この森には数こそ少ないが、妖魔が住んでいない訳ではない。今は俺の気配に怯えて隠れているだけだ』
「…………」
『先程まであの女の周りには、お前も……そして退魔師の小僧もいた。故に手出しはしなかった……』
鬼は目を閉じた。
『だが今は女一人。無防備な女が一人で、無事に森を抜けられると思うか?』
「!」
その言葉に、大和ははっとする。
『……それにだ』
鬼の声がやけに近くに聞こえ、大和は戦慄した。
鋭い刃が首筋を捉えている。
『何故、俺が即座にお前の首を刎ねて、あの女を追うかもしれないという事に思い至らない?』
「…………」
まったく身動きできず、大和は息を詰まらせた。
鬼は大和の首に当てた刀は離さぬまま、背後の狐に呼び掛ける。
『狐』
『は……はい!』
狐はそれだけで鬼の意を悟ったらしく、目を閉じ、前足を擦り合わせた。すると、辺りは次第に白い霧に覆われていく……
狐の幻術だ。
視界のすべてが白く塗り潰され――暫くすると足音が聞こえてきた。
霧の向こうから姿を現したのは……
「あれっ!? 大和!?」
「……小夜……」
小夜だった。彼女は困惑しきった様子で、辺りを見回す。
「どうして私戻って……」
「…………」
大和は言葉が見付からない。
背筋に冷たいモノが流れ、それが何かを伝えようとしている。
大和が何も言えずにいると、鬼が笑いながら口を開く。
『分かるか? 俺を目の前にして“逃げる”というのは意味の無い事だ』




