目覚め
もうどれ程の月日が経ったのか――
彼はそれを考えてみる気にもなれなかった。そんな事は、考えても意味が無い。
閉ざされた空間。
そこには光も闇も無く、暑いのか寒いのか――自分が上を向いているのか、下を向いているのか――それさえ分からない。
だが、その場所に居る事を不快に思った事はなかった。
自分が愛しいと思った女の中に居る事が出来て、何故不快に思う事があるだろう?
この檻は彼の命が尽きるまで彼を縛り続けるが、それは同時に彼と彼女を繋ぎ止める唯一のモノでもあった。そこから出ようと、その力に抗った事はない。
彼がこれまで戦ってきて敗北したのは一度だけ。
ただ一度の敗北。それは、一瞬だった。
一瞬で彼は囚われた。この檻の中に。
己の命と引き換えに、彼女は彼を抑え込んだ。
(……本当に……大した女だ)
彼は目を開く。
長く眠りについていたが、目が覚めた。外が騒がしいせいだ。もし不快な事があるとすれば、こういう事だろう。
それは人間に狭い祠に閉じ込められた事ではなく、ましてや、一人の女に負けた事でもない。
それは――……
「見ろっ! この玉! こんなお宝……滅多に拝めるもんじゃねぇぞ!」
「やっぱり噂は本当だったんだな! こいつを売れば、俺達は大金持ちだ!」
「早いとこ取っちまおう。村の連中は『祠には近付くな』なんて言ってたが……こんなお宝目の前にして黙って見てるだけなんて出来るもんか」
それは――こういう品の無い連中に叩き起こされる事だ。
聞こえてくるのは、三人の男の声。
彼は深々と嘆息した。
(……よりにもよってこんな連中に起こされるとは……)
彼らは知らない。
その祠に“何が”眠っているのか。
“それ”を呼び起こす事が何を意味するのか。
男達は何の疑いも持たず、祠の宝玉に手を伸ばした。
刹那――
ふわっ……
「!?」
「何だっ!?」
彼らが宝玉を手にした瞬間、辺りは真っ白な霧に包まれた。
あっという間に視界は閉ざされ、白い闇がその場のすべてを支配する。
「なっ……何も見えん! どうなってるんだ!?」
狼狽える男達の目の前で、何かが揺れ動いた。
「何だ……あれは……」
「……人……?」
「いや……違う。あれは――……」
徐々に霧が晴れ、彼らの前に姿を現したのは――人ではなく、一匹の妖だった。
長い白銀の髪に、白い肌。金色の角。
そして――恐ろしく、冷たく澄んだ――紅い眼を持つ鬼。
「あ……あぁ……」
男達は怯えて、意味の無い呻き声をあげる。
鬼は、男達を一瞥すると、深いため息をついた。
『……まったく。せっかく良い気分で寝ておったというのに……だがまあ……』
髪をかき上げながら立ち上がる。
『外へ出られたのは悪い気分ではない……お前達には礼を言う』
鬼はゆっくり男達の許へ歩み寄ると、彼らの目の前にしゃがみ込む。
手前にいた男の頬を軽く撫で――艶やかな笑みを浮かべて、一言告げた。
『その礼と言っては何だが……お前ら全員……俺が喰ろうてやろう』
「ひっ……ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
断末魔の悲鳴が、深い森に響き渡る。
鬼は手に付いた血を舐めると、小さく呻いた。
『……腹の足しにもならん』
と――
『……おっ』
先程の男が持っていた荷物だろう――足元に落ちている袋の中に、細い紐が入っているのが目についた。
鬼は紐を摘み上げ、
『とりあえずこれで良いか』
そう言って、その紐で自身の長い髪を縛る。
『……さて。これからどうするかな……』
彼がぽつりと呟いた――その時。
ぱさっ……
『んっ?』
背後で何かが落ちた音がして、鬼はそちらに顔を向ける。
見ると、小さな狐が一匹。
くわえていた花の束を落として固まっていた。
『お前は――……』
『おっ……おぉ……お……』
鬼が何か言うより先に、狐が飛び付いてきた。
『鬼様ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
『…………』
鬼は、まるで滝のように涙を流しながら飛び付いてくる狐の顔面に、無造作に蹴りを放つ。
『ぶっ!』
『何だ狐。お前まだ生きておったのか』
『ひ……酷い……』
鬼の蹴りを顔面で受け止めて、狐はズルズルと地面に沈んでいく。
しかし、すぐさま跳ね起きると、鬼の足に縋り付いて、おいおいと声をあげて泣き出した。
『ああっ! 本当に……本当に鬼様なんですね!? 夢でもなく嘘でもなく幻でもなくっ!』
『……夢ならば痛みを感じぬと言うし……もう一度蹴ってやろうか?』
『いえ結構です。次に蹴られたら、なんだか一生目覚めない気がしますので』
ぴたりと泣き止み、狐は前足で鬼の足を押さえる。
鬼はひとまず足を下ろし、
『で……お前はこんな所で何をやっている』
『何って!』
訊かれて、狐は先程持ってきた花束を示し、
『鬼様の為に花を供えようとしていたのです』
『……俺は死んだ訳ではないのだが……』
半眼で呻く鬼は無視して、狐が平伏する。
『あの忌々しい女が張った結界のせいで、祠に近付く事さえ出来ず……この百年……ただ花を供える事しか出来ない無能な私をお許し下さい!』
『……ああ。もう一発蹴りに耐えたら許してやる』
『ええっ!?』
悲鳴をあげる狐は無視して、鬼は虚空を見据える。
『……しかし……そうか。あれから百年経ったか』
狐は頷いた。
『妖には決して近付く事の出来ぬ結界でしたから。あの女……本当に憎たらしいったらありゃしない』
そう言って、歯を軋らせる狐に、鬼は軽く手を振る。
『よせ。死んだ奴の事を悪く言うものではない』
『しかし……』
こちらを見上げる狐に、鬼は笑う。
『俺は彼奴の事を恨んではおらん。大したモノではないか。人生でたった一度――ほんの一瞬でも、この俺を実力で上回ったのだからな』
『それはまぁ……そうですけど……』
足元に散らばる宝玉――いや、法玉と言うべきか。
彼女の法力が込められた石を見ながら、鬼は皮肉げに口元を歪めた。
『しかし……彼奴も……まさかこんな形で封印が破られるとは思っていなかっただろう』
人を護る為に作られた檻。
しかし、人はそれを自ら進んで壊した。
鬼はしゃがみ、地面に散らばる石に手を伸ばす。
石に込められた力は、鬼の手を弾いた。
『鬼様!』
『……やはりお前は俺を拒むか』
石に触れた指先は、黒く焼け焦げている。
鬼は指先を軽く舐め、ふっと笑んだ。
立ち上がると、踵を返す。
『……鬼様? どちらへ?』
『何。せっかく外へ出られたのだ。ここに留まる必要はなかろう。腹も減ったしな』
『でしたらこの近くに村がありますよ! 料理も酒も旨いし、何より美女が多いそうです!』
『そうか。ならまずはそこへ行くか』
鬼は腕を伸ばし、
『来い。狐。道案内をさせてやる』
『は……はい!』
狐はパッと表情を明るくし、鬼の肩に飛び乗る。
肩に乗ってきた狐の頭を撫でてやり、鬼は飛翔した。
風を纏い、夜空を翔る。
『このまま……東の方角です』
『分かった』
『ところで鬼様』
『何だ?』
『私には久遠という名前があるので、名前で呼んで下さると嬉しいです』
『……名前なんぞどうでもいいだろうが』
『そんな……』
しくしくと涙を流す久遠は無視して、鬼は眼下に広がる景色を眺めた。
(さて……封印は解けた。俺は好きにさせてもらうぞ。椿)
胸中で呟き、鬼は更に高く舞い上がる。
それが――長きに渡り、この地に住む者を恐れさせた白き鬼が目覚めた瞬間だった。




