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空の涙 10

 

『……きっ……貴様……!』


 妖魔が呻く。

 妖魔の脇腹には、斬影の刀が深々と食い込んでいた。

 体半分を抉られ、妖魔が苦悶の表情で喘ぐ。

 ――そして。

 斬影の胸には、妖魔の長い爪が根元まで深く突き刺さっていた。


『貴様……どこまでも……私の邪魔を……っ!』


 斬影は妖魔の手首を掴む。

 口元を歪め、


「そりゃ当たり前だ……てめえみてぇな化け物に……我が子を喰わせてやる訳にゃいかんだろうが」


「……斬影……」


『あっ……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』


「!」


 突然妖魔が奇声を上げ、体を震わせ始める。

 そして、翼を広げ、斬影の胸を抉ったまま真っ直ぐ飛んでいく。


「ぐっ……!」


「斬影っ!」


 大和は、全力で妖魔の後を追った。



 斬影の刀が食い込んだまま、妖魔は凄まじい勢いで飛行する。

 息も絶え絶えに、妖魔が口を開く。


『あぁぁ……貴様は……貴様だけは許さぬっ……! 貴様を殺して、私はあの餓鬼を喰う! そうすれば……こんな傷など……!』


「……あいつを喰う? そいつは無理だ……」


 斬影は鼻で笑った。

 爪の毒のせいだろう。目も霞み、体に力が入らない。

 それでも斬影は、刀を握る手にありったけの力を込める。


「てめぇはここで俺に斬られるんだからなっ!」


『この……人間風情がぁぁぁぁぁっ!』


 妖魔が斬影の胸を深く貫くより早く、斬影の刀が妖魔の胴を斬り裂き――その体を二つに分けた。



 水の音がする。

 激しい水の流れ。

 このところ降り続いた雨で、川が増水しているのだ。水は大きくうねり、すべての物を押し流す。

 ほんの一瞬――川に落ちる前、見上げた先に、銀髪の少年が見えたような気がした。

 暗がりで、おまけに霞んだ目では見えるはずもないだろうが。


(……大和……)


 斬影は、胸中で少年の名を呼んだ。

 自分が死んだら、あの少年はどうするだろうか……

 流れに逆らうように、斬影はもがいた。

 こんなところで死ねない。

 やっと笑うようになったのだ。

 ほんの少し、口元を緩める程度だが。それでも、漸く感情を表すようになった。

 父の背中の大きさも、母の胸のぬくもりも知らぬまま、冷たい雪に抱かれ目覚めた子供。

 生まれたその時から、自身に向けられる視線も言葉も理解していた。

 そして――心を凍てつかせていた。

 泣く事も笑う事も出来ずに。

 それが、やっと笑えるようになった。

 なのに……今、自分が死んだらまた一人になってしまう。


(……奪わないでくれ。頼むから)


 斬影は胸中で叫んだ。

 祈るような気持ちで。


(あいつは同じ年頃のガキと比べれば格段に分別がある。腕も立つ。けど……)


 まだたった七つの子供なのだ。

 一人で生きて行くには、あまりにも小さく――幼い。

 生きていく力はあるかもしれない。

 それでも、まだ支えが必要だ。

 だから――


(奪わないでやってくれ。あいつから……居場所を……心を――……)


 斬影は手を伸ばす。

 だが、その手は何も掴めず――やがて、彼の意識は闇に溶けていった。


     ◆◇◆◇◆


 大和は、妖魔が飛び去った方へ向かって走った。

 進むにつれて、水の音がはっきりと聞こえてくる。

 確か、この先は川が流れていたはずだ。

 長雨の影響で、かなり増水しているだろう。


(……斬影……)


 大和の脳裏に不安が過ぎる。

 妖魔はかなりの深手を負っている。斬影の傷も、浅くはない。

 もし、川に落ちたりしたら……

 大和は、かぶりを振った。今は一刻も早く、妖魔に追い付かなければ。

 考えを巡らせているうちに、視界が開けた。

 その瞬間――大和の目には、断末魔の悲鳴をあげて斬り裂かれる妖魔の姿と、崖から落下する斬影の姿とが交互に映った。


「斬影っ!」


 大和は慌てて駆け寄り、崖下を覗き込む。

 だが、粗い岩肌や突き出た木々の枝に遮られ、斬影の姿は確認出来なかった。

 ただ、何かが川に落ちた――その水音だけが、大和の耳に届いた。


「あっ……」


 その瞬間、大和の心臓が跳ねた。

 小さな呻き声を漏らして、暫し呆然とする。

 その時。

 ガサッ……と、草を踏み分ける音が、背後から聞こえてきた。

 見るまでもなく、そこに何が居るのか――大和には分かった。

 あの女が連れていた妖魔の生き残りだ。

 主が死んで、命令に従う必要が無くなったと判断したのだろう。

 そして、力を得る為に大和を喰いに来た。 

 低く獣が唸るような声を発し、妖魔が一斉に襲い掛かる!

 刹那――


『ギアァァァァァァッ!?』


 悲鳴をあげて、倒れていく妖魔の群れ。

 妖魔は大和に近付いた。

 ただそれだけだというのに、妖魔の四肢が。胴が。首が――斬り裂かれていく。

 大和は微動だにしていない。

 刀すら持っていなかった。


『…………!』


 大気が震える。

 空気が冷たく張りつめる。窒息しそうなほどの圧迫感。

 その場に居た妖魔のすべてが、動きを止めた。

 誰も動けない。

 大和の周囲には、冷たく――そして、鋭い風が渦巻いていた。大和はゆっくりと立ち上がり、恐ろしいほど殺気に満ちた眼を妖魔に向ける。


「……邪魔をするな」


 そう言って、大和は崖下へ滑り下りた。



 濁流に飲まれていく大木。

 僅かに残っている足場をつたい歩きながら、大和はその中に人影が見えないか目を凝らす。

 だが、それらしいものは見えない。

 日は完全に沈み、辺りはすっかり暗くなっている。

 それでも大和は、斬影の姿を探し歩いた。歩き続けた。

 そして――その足を止める。


「…………」


 途中で、道が途切れていた。ここからでは、これ以上進めない。そう判断すると、大和は崖を駆け登る。

 いつもより体が軽く感じた。まるで、飛ぶように駆け――上まで戻ると、大和は山を下りる。

 もし斬影が流されたのなら、川沿いの村や集落に流れ着いているかもしれない。

 そう思い、村を訪ねてみたが――……

 大和の姿を見るなり、村人は怯えた様子で、家の中へ閉じ籠もってしまう。

 山の西側――つまり、大和が普段斬影と下りる方とは逆の道から下りたのだが、その村の住人は、皆酷く魔物に怯えている。

 そう言えば、ついこの間まで山の西側は、妖魔が暴れて荒れていると斬影が言っていた。

 ……あの女が従えていた妖魔が原因だが。

 何にせよ、その村では何一つ話を聞けず――大和は村を出た。


 その後も、川沿いの村や集落を巡り歩いたが、有力な情報は得られなかった。

 辛うじて話を聞く事が出来ても、「そんなヤツは見ていない」と、冷たく突っぱねられる。

 歩いて歩いて――

 やがて、大和は足を止めた。

 川沿いに、歩いて来た道を引き返す。

 斬影を捜し歩いて十日。大和は山に戻ってきた。

 戻ったところで、家は焼け落ち――無論、斬影の姿はどこにも無い。

 大和は、焼け跡に座り込んだ。顔を伏せる。

 ――もし、このまま斬影が見付からなかったら……

 生きていると信じて捜し歩いていた。

 けれど、斬影の姿どころか、話すらまともに聞けない。

 生きていればいい。

 ――だが、もしそうでなかったら?

 斬影は……死んだかもしれない。

 そう思った時、急に怖くなった。

 一人取り残される恐怖。あの日の――冷たい雪の中に捨てられた時のような。

 ――いや。あの時よりも、もっと怖い。

 生死を確認したいとは思う。

 だが、自分が思っている事と違う現実がそこにあったら……そう思うと、足が動かなかった。

 大和は、自分を抱き締めるように肩を掻き抱く。

 その時。

 ぽつり……


「…………」


 大和は顔を上げる。

 空は、重く暗い雲が垂れ込めていた。

 そこから、ひとつ、またひとつ――そして無数の雨粒が零れ落ちてくる。

 当然それを遮る物など何もなく、雨は、容赦なく大和の全身を叩いた。

 大和は、無言で空を見詰める。

 雨とは別の何かが、頬を伝う。

 大和はそれを拭おうとは思わなかった。放っておいてもすべて流される。

 大和は、一晩中そこを動かなかった。

 ――雨と涙に濡れて。

 雨は、一晩中降り続いた。



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