空の涙 6
「…………」
斬影は、ぼんやりと窓の外を眺めた。
外は雨。空からは無数の雨粒が零れ落ちてくる。
斬影はひとつため息をついた。
「……雨か……」
彼は手元の酒瓶を振った。
ちゃぷちゃぷと音を立てるその中身は、あまり残っていない。それがまた、彼の気分を陰鬱なものにした。
このところ雨が続いている。この季節には珍しい長雨だった。
妖魔も暴れなくなり、出掛ける事が少なくなった。何が原因なのかは分からないが、妖魔が暴れる原因が取り除かれたというなら、それは有り難い話だ。
……当然、その分仕事は減るが。
斬影は、またひとつため息をつく。
「まったく……こう雨ばっかりだと気が滅入る」
「…………」
大和は無言で湯飲みに口を付けた。
雨は一向に止む気配がない。むしろ激しさを増しているようだ。
と――その時。
「……ん?」
窓辺に、ちょこんと――ずぶ濡れの毛玉が姿を見せた。
毛玉は、雨ですっかり濡れて、ぺちゃんこになっている。
「……なっ」
斬影が驚いていると、毛玉は斬影の目の前で体を震わせ、盛大に水を撒き散らす。
「ぷぁっ!? 冷てっ! 何すんだっ! コイツ!」
斬影が毛玉を捕まえようと腕を伸ばした。しかし、毛玉はその腕をすり抜け、大和の頭の上に飛び乗る。
「…………」
大和は、頭の上から毛玉を下ろすと、とりあえず手近にあった手拭いで毛玉を拭いてやる。
「……ったく。なんて事しやがる。水浸しじゃねぇか」
毒づきながら、斬影は雑巾で床を拭いた。
「コイツ……雨の日は出て来なかったのに……」
毛玉を拭きながら、大和が呟く。
斬影は嘆息した。
「……何でもいいからそいつ外に出せ」
それを聞いて、大和は眉根を寄せて呻いた。
「……今拭いたのにか?」
「前々から言ってるだろ? 妖魔に気安く触るなって」
斬影は、大和の手からヒョイと毛玉をつまみ上げ、ぽいっと外に放り投げる。
――が。
毛玉はすぐに戻ってきた。
「んなっ……」
斬影は再び毛玉を投げる。
しかし、やはり毛玉は戻ってきた。何度投げても毛玉は戻ってくる――
斬影は両手を戦慄かせ、叫んだ。
「何で戻って来るんだよぉ!? コイツはっ!」
「…………」
喚く斬影の手を踏み越えて、毛玉は大和の頭の上に飛び乗った。
そして、しきりに跳び跳ねる。
それを見て、斬影は訝しげな表情で呻いた。
「……何やってるんだ?……そいつは」
「……さぁ」
大和は肩をすくめる。
今までこんな事は無かった。
斬影がポツリと呟く。
「……何かして欲しいのか?」
「……何かって?」
訊くと、斬影はお手上げというように両手を挙げる。
「そんなモン、俺が知るか。お前の方がそいつに詳しいだろ」
「……詳しくはないけど……」
呻いて、大和は視線を上に向けた。頭上にいる毛玉は見えないが――毛玉はひたすら跳び跳ね続けている。
何かして欲しいと言うより、何かを伝えようとしている――大和はそう感じた。
「……何か言いたい事があるような感じがする」
斬影は腕組みして、大和の頭上にいる毛玉を見る。
「言いたい事って言われてもな……そいつ喋らねぇだろ?」
大和は毛玉を指さし、
「喋れないからこうしてるんだろ?」
「……んじゃ、そいつは何が言いてぇんだ?」
「それは――……」
分からないと言いかけて――大和は口を噤んだ。
視線を戸口の方へ向ける。視界の端に、何か見えたような気がしたのだ。
ゆっくりと――すべてを押し流すような紅蓮の輝き。
「……大和?」
急に黙り込む大和に、斬影は呼び掛けた。
だが、大和は応えない。
斬影は、大和がじっと凝視する先へ視線を転じる――が、何もない。
「どうした……?」
斬影が大和の顔を覗き込んだ――その時。
「斬影っ!」
「!?」
切羽詰まったような声をあげ、大和が斬影を思い切り突き飛ばす。
「……いでっ!」
壁に頭をぶつけて、斬影は呻く。
「大和っ! いきなり何すん……」
斬影の言葉はそこで途切れた。
彼が起き上がり、目を開いた――刹那。
ゴォォォォォッ!――
灼熱の熱波が、先程まで彼らの居た場所を一瞬で焼き尽くす!
「…………」
言葉を失い――呆然とその光景を見詰める斬影が、小さく呟きを漏らす。
「……もしかして……そいつ……『危ねぇ』って言ってる……?」
大和の頭から転がり落ちた毛玉は、やはり大和の側でひたすら跳び跳ねていた。
「……そうらしい」
大和は頷いて、毛玉を見る。
斬影はかぶりを振って、大和の首根っこと、ついでに毛玉を掴んだ。
「……とか言ってる場合じゃねぇなっ! 出るぞっ!」
斬影は裏口から外へ出る。
彼らが外へ出た直後――再び熱波が家を襲い、たちまち家は炎に包まれた。
「畜生っ! なんて事しやがるっ!」
後方で焼け落ちる家を見据えて、斬影が怒りに満ちた声をあげる。
その向こうに見えた――妖魔の群れ。
「あいつらぁ……全員皮剥いでやるっ!」
「……そんな事より……これからどうするんだ?」
するりと斬影の手をすり抜け、大和が並走しながら口を開いた。
斬影は大和に毛玉を手渡し、
「ひとまず山を下りる。ここに居たら丸焼きにされちまうからな」
ちらと背後を見やると、妖魔が追ってくるのが見えた。
「……とはいえ、あんな化け物共を人里に近付ける訳にもいかねぇ。出来るだけ人の居ない所に引き付けて……その後――……」
そこで斬影が言葉を切る。
「…………」
妙な間が出来て、大和は先を促した。
「……その後?」
訊くと、斬影はきっぱりと言う。
「その後、どっかに隠れてほとぼりが冷めるのを待とう」
その瞬間、大和は半眼になり呻いた。
「……あいつら倒すんじゃないのかよ」
それを聞いた斬影は、思い切り叫ぶ。
「馬鹿野郎っ! あんな化け物……十も二十も相手に出来るかっ!」
「……二十は居ないと思うけど……」
背後の妖魔を見やり、呟く大和に、斬影は嘆息した。
「取り巻きがいるだろ。取り巻きが」
大和の手の中にいる毛玉を見ながら、
「……しかし。そいつは役に立つな」
毛玉は、大和の手の中で震えている。
雨に濡れて寒いせいか――それとも別の理由からか、それは分からなかったが。
「……俺達と居たら巻き添えになるかもしれねぇ」
大和は頷くと、毛玉を放してやった。
毛玉は、ちらとこちらに視線を向け――そのまま姿を消していった。
斬影はそれを見送り、どこか厳しい表情を浮かべる。
「大和」
呼び掛けてきた斬影が、大和に何かを差し出す。
「…………」
大和はそれを黙って受け取った。
斬影が渡してきたモノ――それは刀。
以前、山登りの時に渡された物とは違う。
「丸腰じゃ、あいつらから逃げ切れんだろ。“なまくら”は家に置いてきちまったからな」
「……斬影はどうするんだ?」
訊くと、斬影はもう一本、別の刀を示した。
「俺にはコイツがある」
日の暮れかかった山は薄暗く、視界もあまり利かない。
「分かってると思うが……奴らと真正面からやり合うなよ。雑魚はともかく、迂闊に近寄れば火だるまにされるからな」
「……ああ。分かってる」
走りながら、斬影は舌打ちする。
「ったく。ああいうのがいるのはともかく、来るなら来るで一言言えっての!」
竜の放つ火の玉をかわしつつ、とにかく進む。
「しかし……何でまたあんな妖力のある妖魔がこんな所に……」
「腹が減ったとかじゃないのか?」
大和の言葉に、斬影はかぶりを振った。
「そりゃねぇだろ。腹が減ってるなら、こんな所でたかが二人の人間襲うより、人里に下りた方が話は早い」
「……だったら何で……」
「さぁな。化け物の考えなんぞ俺には分からん」
なげやりに斬影がそう言った瞬間――すぐ側の茂みから、巨大な蝙蝠が飛び出してきた。
斬影はそれを一太刀で斬り捨て、
「……ただ分かってるのは、今はとにかく逃げんと奴らに殺されるって事だ」
走りながら――斬影は、ふと違和感を覚えた。
あれほどの妖力を持つ妖魔だ。単に殺すつもりなら、こんな遠巻きに攻撃をする必要はないだろう。
(……これは……)
自分達を殺す為の攻撃ではない。
自分達の進路を――退路を塞ぐ為の攻撃だ。
斬影は、苦々しく呻いた。
「……こりゃマズイな」
「…………」
大和も気付いたのだろう。
黙ってこちらを見返す。
「……どうやら……賢いヤツがいるみてぇだ。それも趣味の悪いのが」
山のあちこちから火の手が上がる。
自分達は、奴等の用意した道を走らされていたのだ。
だが、今更戻る事も出来ない。
「……まったく。こんな事して……あんな数で、人間二人喰ったところで大して――……」
愚痴のようにぼやいていた斬影が、突然、口を閉ざす。
そして――足を止めた。
「斬影?」
大和は僅かに彼を追い越し、振り返る。
斬影の顔から血の気が引いていく。
「……どうしたんだ?」
「……そうか……」
大和の問いには答えず、斬影は小さな呻き声を漏らす。
彼は気付いたのだ。
自分達を襲う妖魔。
――奴等の、その真の目的に。




