8人様限定
ちょっと待て。初めて来た店の前でカレーの香りをかいだだけで、こんなにもコーフンしてしまうなんて変じゃないか?
だいたい「黒猫カレー」だぞ。なんてやる気のない名前だ。手作りの看板も適当だし。猫はカレーを食べないし、猫肉を使うカレーなんてまっぴらだ。
しかも僕が今いるのは、床がネチャネチャしていそうな小さな雑居ビルの、昭和のスナック臭漂うフロアときている。
僕はそう冷静に自分を分析しながらも、同時に「どうにもならない飢餓感」を感じていた。そう飢餓感。飢餓感なんて感じるのは、本当に久しぶりだ。
僕は幸いにも太りにくい体質と、間食の習慣を持たないおかげで人生のほぼすべてを痩せ気味の体型で過ごしている。
何日か食べ過ぎが続くと2キロほど太ることもあるが、数日の調整でいつも穏やかに体重は元に戻った。仕事が忙しすぎて昼食を抜くこともあったが、そんな時は食欲そのものもなくなってしまう。
3食はいつも「食事の時間が来たから食べる」感じで、腹が減って死にそうだから食べる…という状況は記憶にない。
そんな僕がこの黒猫カレーを食べたくて食べたくて仕方のない状況に陥っているのは、とても変だ。しかも時計を見たところ、まだ11時半にもなっていない。朝食は普通に食べたので、まだ腹が減る時間でもない。
それに。
よく考えたら、僕は腹は特に減っていない。ギリギリしたこの感じは、空腹を満たしたいわけではない。
黒猫カレーを食べたいだけなのだ。きっといま目の前にジュウジュウと音を立ててるA5和牛のステーキを出されて「さあ食べていいよ。無料だよ」といわれても、きっと見向きもしないだろう。欲しいのは、他の何かじゃない。
しかもだ。
僕は黒猫カレーを食べたことがまだ一度もない。なのに開店前の店でこうやって待っていて、「このカレーを食べなきゃ死んじゃう」なんて状態にまでなっている。これはどう考えてもおかしなことだ。
僕だけか?
そう考えて、そっと周りの反応を見てみた。すると僕の前からいた6人の客たちは、みんな同じように強烈な意志力で平静を装っているものの、「食べたくて仕方なくてウズウズしている」状況に変わらないことが何となく分かった。
一人の男がスマホを取り出して画面を見たが、すぐにポケットに戻した。その表情から見て、「ああ画面を見ても文字が頭に入ってこないんだな」というのが分かったからだ。
エレベーターがチンと音を立てて、のっそりと扉が開いた。小さな雑居ビルに相応しい、「安いエレベータだから仕方ないですよ」的なやる気のないドアの開き方だ。中から学生っぽい男が1人出てきた。僕と同じようにカレーの香りに誘われてここに来たのだろうか?と、最初は僕はそう考えた。
その男はまず軽く驚いていた。そしてチラリと店外に出ているメニューを一瞥した後、右手の手首だけ少し上げて僕たちの人数をカウントし始めた。そしてもう一度メニューに目をやってから、初対面の僕にもわかるくらい大げさに安堵していた。
なんだその安堵は?なぜそんなに安心することがある?
僕はもう一度、さっき店の人が出したメニューの紙を見直した。
『黒猫カレー¥750 X8』。やっぱりそれしか情報がない、学生でも750円くらいは払えるだろう?…ちがう、値段じゃない。あいつが気にしたのは『X8』のことだ。おい、まさか『X8』って『8人様限定』ってことじゃないだろうな?あり得ない!
僕はここに7番目に来た。だから8人目だとしても、たぶん問題ないはずだ。
最後の8番目の男が安堵したのは「僕を入れてこの場にいる全員が黒猫カレーを食べることができる」と認識したからに違いない。
でもひょっとして一見さんお断りとか、常連客優先とかあるのだろうか?
たぶん最後に来た男は黒猫カレーの常連客だ。僕が読み解けないメニューの情報を知っているのが、その証拠だ。
僕はこの期に及んで、急に不安になってきた。
ここまで欲している黒猫カレーを食べることができない…そんな最悪の状況を受けいれることはきっとできないだろう。
また店のドアが少しだけ開いた。
ドアの隙間から手が出てきて、看板から下がっていた「準備中」の小さな札が裏返され「営業中」となり、そのまま手は引っ込んだ。
ちょっと待て。僕の見間違いだろうか?
ドアの隙間から少しだけ出てきた手は、真っ黒だった。少なくとも僕にはそう見えた。しかも人間が黒いゴム手袋をしているというよりも、何だか人間以外の別の生物の手のような妙な形だった。
…形が一番近いのは猫の手だ。だが大きさは猫のサイズじゃない。普通の大人の手のサイズだ。
きっと見間違いなんだろう。
僕はこの店の看板に書かれた、「カレーを食べる黒猫」のやる気のないイラストをもう一度見た。
そして「カレーを食べたくて頭がおかしくなって幻覚を見たとしたら、もっとバカみたいだな」と思ったが、すぐに現実に引き戻された。
客たちが動き始めたのだ。
先にドアの近くにいた2人ほどが入ったが、狭いエレベーターホール前で列が曲がりくねっていたために、3人目以降が店に入るには僕たちが少し動いてスペースを融通しなければならなかった。僕はここでようやく「ああクソ雑居ビルにいるんだな」という現実を思い出して、少しクールダウンできた。
そう、僕はたまたま通りがかった場所でカレーの香りをかいでここにいるのだ。僕がワクワクしながら並んでいる店は夜は60代のママさんがスナックをやっているような古びた店で、予約が半年待ちの三ツ星フレンチの店じゃない。だから過度な期待は意味がない。
だって黒猫カレーなんだぜ?普通、そんなふざけた名前の店にするはずがない。Twitterでの拡散狙いにしても、お粗末すぎる。実際、僕も店の写真すら撮る気にはならなかった。
クールダウン、そう過度な期待は禁物だ。
僕はそう自分に言い聞かせながら、店のドアをくぐった。7番目の客として無事に。
あと1話で完結します。




