午前11時すぎのまだ寝ているような飲み屋街
僕はカレー好きだが、マニアというほどではない。ネットニュースで見つけた話題のカレー屋に半年遅れでたまに行ってみる程度だ。そんなカレーにかける情熱が低めの僕だが、「黒猫カレー」は本当に特別だった。
その日、仕事の打ち合わせで渋谷に出かけた僕は、初めて会うクライアントとの打ち合わせが思ったより早く終わったこともあり、その見知らぬエリアをしばらく歩いてみることにした。時間は午前11時を少し回ったころぐらいだろうか。たぶん夜になるとにぎやかな飲食店が並ぶその界隈は、どの店もまだ閉店していて、うすぼんやり眠ったような感じだ。ランチをやるお店はすでに店内で準備が始まっているのかもしれないが、まだあと30分はメニューや看板も出ず、眠ったような状態が続くのだろう。
カレーの香りに気づいたのは、眠った飲食店街を歩くのにやや飽き始めたころだった。わりと好みの香りだった。僕は正当なインドカレーも食べるが、どちらかというと日本で進化を遂げたカレーが好きだ。ただマニアではないので、僕の好きな日本式カレーの説明がうまくできないのは許してほしい。そのカレーの香りをかいで、「ああこれいいな」と直感でそう思ったのだ。僕の数少ない経験から、食べ物に関するこういう直感は当たる確率が高い。店の雰囲気や、並んでいる行列の長さより、香りで直感的に判断できること。カレーってそういう意味では直観向けの食べ物かもしれない。
見回してみても、近くにはカレー屋は見当たらない。でも僕には空気の中にたなびくカレー色の煙が見えているかのように、そのカレーの香りが流れてくる方向を探って歩いて行った。そして僕は気が付けば小さな雑居ビルの中にいた。エレベータの出口が店の入り口のすぐそばにあるような小さな雑居ビルで、スナックとか席数の少ない小さな店が1フロアに数店ひしめいているような、そんな飲食店系雑居ビルだ。
驚いたのが、すでに6人の客が並んでいたことだ。時計を見てみる。まだ11時15分。僕は仕事の帰りだからたまたまここにいるけど、普通のビジネスマンならバリバリ仕事をしている時間帯だ。でも4人の男は全員スーツ姿で、年齢もそれなりに高い。暇な学生がネットニュースで話題の店に食べ歩きに来た感じではない。少なくともマネージャー以上か経営陣かと思うような人も半分はいる。女性も仕事を持っている感じだ。一瞬、自分が雑居ビル買収のための視察に訪れたビジネスグループのなかに間違えて入ってしまったような錯覚を感じたくらいだ。
落ち着いて周りを見てみると、確かにカレー屋があった。そして僕はがっかりした。「黒猫カレー」と何とも言えない適当で手抜きな看板が掛けてあったからだ。看板にはスプーンを持ってカレーを食べている黒猫のふざけたようなイラストが描いてあって、狙ってハズしているというよりは飲食ビジネスのことを本気で考えていないノリだけの看板に見えた。例えるなら、中学校の文化祭で2年1組が出店した喫茶店のような感じだ。
しかもカレー屋の入り口の感じからすると、つぶれたスナックを居抜きで借りたか、あるいは夜はスナックで営業している店を昼だけ借りたような感じだったからだ。片手間なのか市場調査なのか、どちらにせよ僕のテンションは急降下した。おいおい、メニューすら出てないじゃないか。まだ開店前かもしれないけど。これはミスだな。もう帰ろうか…と
だが僕は結局その列に並ぶことにした。
僕が立ちすくんで数秒間「帰ろうか」と考えていた時に、先に並んでいた6人の客が少しづつ移動して、僕が立てるスペースを作ってくれたからだ。ちなみに黒猫カレーの前には待つ人用の椅子などない。全員、エレベータの出口前の狭いスペースに立って並んでいる。
もう一つ、僕がちょっとビックリしたのは先客たちの様子だ。普通、こういう場だと半分くらいはスマホを見て時間つぶししていても不思議じゃない。だが誰も何も見ていない。直立して静かに待っているのだ。そして先頭の3人はともかく、僕の前3人からは妙な緊張感さえ感じられた。まるで、健康診断で採決の列に静かに並ぶ受診者のように。
突然、黒猫カレーの店のドアが開いた。店の人が中から出てきて、看板の下にメニューらしきものをぶら下げた。そこにはこう書かれていた『黒猫カレー¥750 X8』。750円か。まあまあ許容できる値段だな。むしろ渋谷では安い方かも。それにしても1品しかないのか。開店前にわざわざメニュー出さなくても、看板の下に値段を書くか張り紙していれば済むんじゃないのか…?と最初に思った。
それに『X8』ってなんだよ?8倍の辛さのカレーのことかな?僕は辛すぎるカレーには興味がないんだけど、普通の辛口くらいだといいな…。そんなことを1秒くらいで考えていたのだが、次の瞬間に思考がしばらく停止してしまった。
カレーの香りをかいだのだ。おそらく店のドアが開いて、流れてきたオリジナルに近い香りを。それは強烈なショックで僕の思考をストップさせ、気が付けば「何としてもこのカレーを食べたい。食べなきゃ死んじゃうかも?」という麻薬中毒者にも似た状態に、僕を瞬間的に切り替えた。店の外へと漏れ出していた香りとは全く密度が異なる、濃密でエロティックで暴力的なカレーの香りに、僕は胃袋がギュッと掴まれてしまったのを感じた。
それは例えるなら大学の大きな講義室でふと気づいた顔も分からない女子学生のシャンプーの微かな香りと、愛しい恋人の服を脱がせてベッドインした時に香ったワクワクするような香りほどレベルが違った。
<<続く>>




