名前の価値②
テーブルを挟んで、萌は母と母が連れて来た女性、田中優子と向き合っていた。
「お母さん、元気でやってるの?」
「まあ‥‥それなりにね。」
「それなりって‥‥」
「私の事はいいの。それより、今日は萌にお願いがあって来たのよ。」
「お願いって‥‥、私に何かしてあげられる事なんてあるとは思えないけど。」
「貴方にしか頼めない事よ。」
「私にしか?」
「そうよ。ねえ、萌はこの娘を見て何か思わない?」
母に促されて、萌は初めて田中優子の方を直視した。
見た目の年齢は自分と同じくらいか‥‥、おそらくは身長、体重も同じくらいだと思われた。
決して美人という訳ではないが、愛嬌のある顔立ちで世間受けは良さそうな顔立ちだ。
「貴方と似て‥‥ううん、そっくりだと思わない?」
言われてハッとした。
確かに‥‥、似ていると言えば似ている。
ただし、本人から言わせてもらうと、決してソックリという程ではなかった。
「似てるって言えば似てるけど‥‥」
それを聞いた母が、ニヤリと笑った。
「それでいいのよ。」
直後、手にしていたコーヒーカップをテーブル上に置くと、母は切り出した。
「率直に言うわね。この娘に‥‥貴方の名前を譲って欲しいのよ。」
「名前を?」
「そう、櫻木萌という名前よ。」
「えっ、どういう事‥‥?」
萌は、母が言っている事の意図が解らず困惑した。
「そうね。じゃあ、まず貴方に聞くけど‥‥、貴方は櫻木萌として芸能界に復帰する予定はあるの?」
突然の質問であったが、6年の経過は萌の意思をより強固にしていた。だから、返事に迷わなかった。
「‥‥ないわ。」
「芸能界に未練はないって事ね。」
「そうよ。」
「だったら貴方にその名前は要らないでしょ。」
「えっ?」
「貴方が持っていても無駄‥‥、というか勿体ないのよ。」
いつの間にか、母の目には萌に対する敵意のようなものが宿っていた。
「この子、昔から女優になる事を目指して演劇に一生懸命に取り組んできててね‥‥貴方を見続けていた私から見ても、相当な演技力を持ってるのよ。」
母は半ば強引に、田中優子についての説明を始めた。
「でも、デビューすら出来ないの‥‥。ねえ、何故だと思う?
それはね‥‥きっかけがないからよ。
解る?きっかけがなければ、チャンスすら貰えないのよ。
だから‥‥櫻木萌っていう名前をこの子に譲って欲しいのよ。
子役として一世を風靡した櫻木萌の名前は、今でも相当なネームバリューがあるわ。
仮に櫻木萌が復帰すると言ったら、絶対ドラマ出演の依頼が入る。‥‥それ程の価値が、櫻木萌という名前にはあるの。
それなのに、それを使うつもりもない貴方が持っていても宝の持ち腐れなのよ。
だから、この子がチャンスを掴む為に‥‥譲って。」
「そんなの‥‥すぐにばれるわよ。」
「そうかしら?
貴方はこの6年間、普通の暮らしをするために‥‥本当に上手にその存在を潜めてくれたわ。
お陰で、今の櫻木萌の姿、顔立ちを知っている人は殆どいない‥‥。
そんな時に、櫻木萌の面影を持った人物が現れ、自分が櫻木萌だと公言する。しかも、その傍らには櫻木萌の実の母親がいる。
それでも、世間は信じないと思う?」
母の目はギラついていた。
目の前の獲物に対する執着心を隠そうとしない母の姿に、萌は一瞬寒気を覚えた。
「名前を取られた私は、どうなるの?」
「公的には田中優子として暮らして貰う事になるわね。
でも、生活上は別になんて名前を名乗って貰っても構わないわ。‥‥櫻木萌以外ならね。
幸い、この子に身寄りは無いし‥‥
貴方のお父さんも、来月から数年間は海外赴任でしょ。」
「なんでそんな事、知ってるの。」
「フフフッ‥‥、まあ、そんな事はどうでもいいでしょ。」
「お願いだから、名前を譲って頂戴。」
「お願いします!私にチャンスを下さい。」
隣の田中優子も、その額を深々と下げて懇願してきた。
とんでもない頼みだと思った。
まっとうな人なら、応じる余地などない筈だった。
「‥‥わかったわ。名前、使っていいわよ。」
だが、萌は了承した。
田中優子に同情した訳ではない。
寧ろ、萌の感情を揺さぶり、その答えに至らしめたのは、目の前で見た母の姿だった。
元々は、母の希望から子役として芸能界デビューを飾り、天才子役としてその世界での知名度と地位を築きあげた。だがその後、母の意向に反して‥‥自分は芸能界を引退した。
その結果、母は変わり果て‥‥未だに女優:櫻木萌というものに執着し続けていた。
そんな母の姿が哀れだった。
母をこんな姿にした責任の一端が自分にあるのだと‥‥、そう考えた萌は、母に同情してしまった。
だが、今の萌は後悔していた。
あの時、衝動的にその申し出に応じてしまった事を‥‥




