42:最高に気持ちいいものだ(アンネッタ視点)
「うっ……ひっく……どうしましょう、わたくし、もうおしまいだわ……!」
一度堰を切った涙は、もうどうやっても止まらなかった。
冷たい床の上で身を縮め、わたくしは声を殺してしゃくり上げた。
すべては自分の浅はかな嫉妬が招いたことだ。エミリーを蹴落としてお父様に認められたい一心で、こんな恐ろしい連中を手引きしてしまった。もしこの事実が明るみに出れば、たとえ生きて帰れたとしても、王妃の娘としての立場も、お父様からの信頼もすべて失うだろう。
「……なぜ泣く、アンネッタ」
頭上から、静かで深い声が降ってきた。
涙で滲む視界を上げると、ニチコさんが縛られたままわたくしの隣へと歩み寄り、同じ目線になるように膝をついたところだった。
「な、なぜって……決まっているでしょう! わたくし、あなたたちを襲わせるために、あの連中を手引きしたのよ!? 自分の愚かさでこんな絶体絶命の窮地に陥って、きっと、お父様にも見捨てられてしまう……そして、これからフラウゲートに連れて行かれて、恐ろしい目に遭うのよ? 怖いに決まっているじゃない……っ」
洗いざらい罪を吐き出し、子供のように顔を歪めた。
軽蔑されると思った。自業自得だと突き放されると思った。
けれどニチコさんは眉ひとつ動かさず、ただ慈愛に満ちた眼差しでわたくしを見つめ返した。
「なるほど。自分の蒔いた種で追い詰められ、誇りも地位もすべて失う恐怖に震えているわけか。……羨ましいな」
「……え?」
「いいか、アンネッタ。恐怖も、屈辱も、自分の愚かさも、無理に抗おうとするから苦しいのだ。すべてを受け入れてみろ」
ニチコさんは、まるで真理を説く聖職者のような厳かな口調で続けた。
「高いプライドなど捨てて、どん底の惨めさに身を委ねてみるがいい。罵られ、蔑まれ、すべてを奪われる絶望の淵で、ただ己の無力さを噛み締める……するとどうだ? 不思議なことに、背負っていた重荷がスッと消え去り、筆舌に尽くしがたいほどの解放感と快楽が押し寄せてくるぞ。案外、悪くないどころか……最高に気持ちいいものだ」
「す、すべてを受け入れる……?」
わたくしは、ハッと息を呑んだ。
ニチコさんの言葉は、これまでわたくしを縛りつけていた「第一王妃の娘として完璧でなければならない」「エミリーより優れていなければならない」という呪縛を、根底から解き放つ響きを持っていた。
失敗した自分も、惨めな自分も、すべて受け入れてしまえばいいのだ。この人は、わたくしを責めるどころか、そんなにも深く大きな器で包み込んでくれるというの……!?
な、なんて寛大で、なんて気高い精神を持った騎士なのかしら……!
薄暗い小屋の隙間から差し込む月光が、ニチコさんの横顔を神々しく照らし出している。
わたくしの胸の奥で、恐怖が急速に溶け出し、代わりに熱い憧憬とトキメキが込み上げてきた。
「ニチコさん……わたくし、あなたのようになれるかしら……?」
「うむ、素質は十分にあるぞ。何せこれだけの自爆をやってのけたのだ、これから待ち受けるお仕置きと恥辱は計り知れまい。さあ、私と一緒に、さらなる責め苦の高みへと──」
ドゴォォォォンッ!!
ニチコさんがわたくしの肩に手を置こうとしたその瞬間、小屋の扉が木っ端微塵に吹き飛んだ。
舞い上がる木片と砂煙の向こうから、外で見張りをしていたはずの黒装束の男たちが、白目を剥いて泡を吹きながら小屋の中へと転がり込んでくる。
「あー、やっぱりここか。シーラの自白剤で吐かせた通りだったな」
砂煙を払いながらのんびりと姿を現したのは、ジョウロとスコップを腰に提げたハナと、呆れ顔のエミリーだった。
「主様もう来られたのですか? まだ私は本格的な拷問を何一つ受けていないのですが!」
「花壇のパンジーの応急処置が終わったからな……って、あれ?」
「まさか、攫われたのがお姉さまだったなんて」
あっという間の救出劇だった。わたくしが恐怖に震えていた敵国の工作員たちは、すでに全員が腹を押さえて気絶している。
「アンネッタ姉様、お怪我はありませんか?」
エミリーが駆け寄り、即座にわたくしの縄を解いてくれた。
その迷いのない瞳を見た瞬間、わたくしは先ほどのニチコさんの言葉を思い出し、ギュッと唇を噛んでから深く頭を下げた。
「……ご、ごめんなさい、エミリー。わたくし、あなたに嫉妬して……侍女に唆されて、こんな連中を王城に手引きしてしまったの。どんな処罰でも受けるわ……」
なぜか、なんの躊躇もなく、すべてをさらけ出してしまった……けれど、後悔はなく、むしろ清々しい気持ちになった。今まで妬みや僻みを隠していた自分が馬鹿らしく思えるほどに。
それが、シーラという少女の力だと知ったのはだいぶ後になってからだ。
「無事で何よりです。すぐに救護班を呼びますので……」
「待ってエミリー。大丈夫よ、なにも怪我はしていないの……ニチコさんがわたくしを守ってくれて……とても素敵な人とお知り合いなのね。羨ましいわ」
素直に人を誉めることが、こんなに心地良いことなんて知らなかったわ。
「こんなカビ臭いとこに居たら、シーラとプータスの肌に悪い。とりあえず俺の部屋に向かおう」
「そうですね、私は騎士団に向かい、密偵らを捕らえるよう頼んできます」
ハナは少女たちの心配をし、エミリーは迅速に行動を始めた。
こんなに頼もしい子たちだったの……。
いや、頼もしいという言葉だけでは到底片付けられない。
王女であるわたくしの誘拐事件よりも、花壇のパンジーの手当てを優先する異母弟。腹痛と下痢で敵国の工作員を壊滅させる少女に、頭からイガグリ爆弾を取り出して投げる幼女。
そして何より……わたくしの視線は自然と、隣に立つ長身の少女、ニチコさんへと吸い寄せられていた。
どんな暴力にも屈しない鋼の肉体と、いかなる絶望や屈辱すらも快楽へと変えてしまう、気高くも底知れない精神力。
……わたくし、こんな規格外の連中を相手に、ちっぽけな序列やプライドを振りかざしていたのね。
そう気づいた瞬間、今まで抱えていた見栄や嫉妬がすべて馬鹿らしくなって、ふっと笑いが込み上げてきた。
「どうした、アンネッタ。まだ足が震えて立ち上がれないか? なんなら一度私を踏み台にしてみても構わんぞ。いや、むしろ踏んでくれ」
「い、いえ。自分で立てますわ……でも、やっぱりちょっと踏んでもよろしいかしら」
「ああ、どこがいい。どこでも構わんが、できるだけ強い力で踏み抜いてくれよ」
「うふふ、痛くて涙が出てもしりませんことよ」
高鳴る胸を押さえ、わたくしは涙の跡を袖で拭った。
わたくしが、この日のことを生涯忘れることができない理由。
それは、わたくしの高慢な鼻がポッキリとへし折られ、ニチコさんという生涯の師に出会い『すべてを受け入れる』という、未知なる世界への扉をうっかり開いてしまった記念すべき日だったからである。




