第1章:「愛の力」で結婚した娘の、高すぎる凱旋パレード
パート上がりで鉛のように重い体を引きずり、玄関の扉を開けた瞬間。
ツンとしたトリュフオイルの強い匂いが、狭い建売住宅の廊下に漂ってきた。
「……また、出前?」
私がリビングの扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ソファに寝そべったままスマートフォンをいじっているのは、つい一ヶ月前に「性格の不一致」とやらで離婚し、実家に出戻ってきた娘の梨乃(28歳)。
ローテーブルの上には、駅前の高級レストランが提供している黒毛和牛のローストビーフ丼の空き箱と、タピオカドリンクの飲み殻が無造作に転がっている。
「あ、お帰り。パート、遅かったじゃない。お腹空きすぎて死ぬかと思ったわ」
画面から目を離そうともせず、梨乃は気怠げに言った。
私は溜息を飲み込み、自分のバッグに目を向ける。今朝、食費のために下ろしておいたはずの一万円札が、財布から消えていることを思い出したのだ。
「梨乃。まさかとは思うけど、また私のお財布から勝手にお金を持っていったの?」
「勝手にって人聞きが悪いなあ。事後報告しようと思ってたのに」
悪びれる様子など微塵もなく、梨乃はゴロンと寝返りを打った。
「そもそも、傷ついてボロボロになって帰ってきた実の娘を癒やすのは、親の義務でしょ? 『愛があればお金なんて関係ない』って結婚したのに、あいつ全然稼げない甲斐性なしだったんだから。私の青春、全部台無し! 慰謝料代わりに、実家でたっぷり甘えさせてもらう権利が私にはあるのよ」
開いた口が塞がらなかった。
三年前に私がどれだけ反対しても、「お母さんには真実の愛がわからないんだ!」と罵倒して家を飛び出したのは梨乃自身だ。それなのに、すべての責任を他人に押し付け、悲劇のヒロインを気取っている。
「……お夕飯、作ってあるのよ。冷蔵庫の肉じゃが、温めればすぐに食べられたのに」
私がキッチンに目を向けると、信じられないことに、昨日私が丹精込めて作った肉じゃがが、タッパーごとゴミ箱に放り捨てられていた。
蓋が開いており、甘辛い匂いが無残に生ゴミと混ざり合っている。
「ちょっと! なんで捨てるのよ!」
思わず声を荒げた私に対し、梨乃はうるさそうに耳を塞ぐふりをした。
「お母さんの安っぽいご飯じゃ、私の繊細なトラウマは癒やせないの。あんな貧乏くさい料理見たら、貧乏だった結婚生活を思い出しちゃうじゃない。親なら、もっと気の利いたケアしてよね?」
ドクン、と。
胸の奥で、長年「娘だから」と蓋をしてきた何かが、音を立ててひび割れるのを感じた。
夫を早くに亡くし、女手一つで育ててきた。寂しい思いをさせている負い目から、この子のワガママを許しすぎた結果が、これだ。
「……もう、いいわ」
これ以上言葉を交わしても、私の心がすり減るだけだ。
頭を冷やそうと、私は無言でリビングを後にし、外の空気を吸うために玄関先の郵便受けへと向かった。
ガチャリとダイヤルを回し、ポストの蓋を開ける。
チラシに混じって、数通の圧着ハガキや封筒が乱雑に放り込まれていた。
宛名はすべて『吉田 梨乃』。
しかし、その差出人の欄を見た瞬間、私の全身の血の気がサッと引いた。
『キャッシング〇〇』
『株式会社△△ファイナンス 督促部』
『【重要】お支払いのお願い』
毒々しい赤や黒の文字で印字された封筒の束。
それは、娘が抱え込んだ底なしの闇が、この家にまで侵食してきた動かぬ証拠だった。




