屋根もベッドもない少女
朝日がゆるやかに差し込む部屋の中。
白髪の少女シルフィは、ベッドに寝転びながら、ぼんやりと天井を眺めていた。
まぶしい光も、耳に届く鳥のさえずりも、彼女のやる気には何の影響も与えない。
指先で布団の端をつまみ、かすかに揺らしながら、小さくため息をつく。
「今日も……何もしたくないな」
その時点で、彼女の一日はすでに半分ほど“サボること”に費やされていた。
身支度も面倒、朝食も面倒。ましてや働くなど、考える気にもならない。
だが、このだらけきった空気を打ち破る存在は、すぐに現れる。
「――いつまで寝てるの!」
怒声とともに、母親がドアを勢いよく開けた。
手には雑誌と封筒を握りしめ、眉間には深い皺が刻まれている。
「何やってるの! いい加減ベッドから出なさい! 仕事探せって言ったでしょ!」
シルフィはお腹を押さえ、苦しそうに顔を歪める。
絞り出すような声で、いかにも弱っているふりをした。
「最近、体調がすごく悪くて……ちゃんと外に出られる状態じゃないんだ。今は治療中で、回復したらもっと働けると思うから、ちょっと待ってくれないかな……?」
母親の顔がみるみる赤く染まり、怒鳴り声が飛ぶ。
「あなた、昨日ご飯おかわりしてたじゃない! 何言ってるの!」
シルフィは眠そうに目をこすり、不機嫌そうに呟く。
「うるさいな……働きたくないけど……まあ、仕方ないか。前々から言われてたし……」
そう言いながら、渋々ベッドから身を起こす。
布団を蹴飛ばして歩き出すと、母親の鋭い視線が背中に突き刺さった。
シルフィは身支度を整え、とりあえず外へ出た。
「うわ……まぶしい……」
朝の光が容赦なく視界を焼く。
細めた目の奥で、白い街並みがぼんやりと滲んだ。
シルフィの住むノクティア王国は、緑豊かな平原と穏やかな丘陵に囲まれた、美しく平和な国だ。
人々は穏やかで親しみやすく、街角では魔法が当たり前のように使われ、生活のあちこちに溶け込んでいた。
――そんな中で。
シルフィは、場違いなほど気だるげに歩いていた。
足取りは重く、視線も定まらない。
店先から漂う焼きたてのパンの香りや、酒場から聞こえる賑やかな声も、彼女の興味を引くには至らない。
「……めんどくさいな……」
ぼそりと呟き、適当に路地へと視線を向けた、そのとき。
「ん……?」
違和感が引っかかる。
人通りの少ない路地裏。
そこに、茶髪の少女が三人の男に囲まれていた。
壁際へと追い詰められ、逃げ場を失っている。
「なぁ、お嬢ちゃん。そんな怖い顔すんなって」
「ちょっと話すだけだって。な?」
男たちはにやにやと笑いながら距離を詰める。
視線は露骨に、少女の怯えた様子を品定めするように這っていた。
「や、やめてくださいっ……!」
少女は後ずさるが、すぐに壁にぶつかる。
逃げ道はない。
「おいおい、逃げんなよ。感じ悪いなぁ」
「せっかく声かけてやってんのによ」
一人の男が少女の腕を掴む。
「っ……!」
振りほどこうとするが、力の差は歴然だった。
「ちょっと待った」
その声は、妙に気の抜けた調子で割り込んだ。
三人の男たちが一斉に振り向く。
そこには、欠伸でもしそうな顔で立つシルフィがいた。
「なんだぁ?」
「関係ねえなら引っ込んでろよ」
男たちは一瞬だけ警戒するが、すぐにその視線が変わる。
値踏みするように、じろじろとシルフィを見た。
「……へぇ。こっちも悪くねえな」
「さっきのより当たりじゃね?」
「おい、そっちの白いのも来いよ。まとめて相手してやる」
男の一人が、いやらしい笑みを浮かべながら一歩近づく。
その瞬間。
――踏み込んだ。
風を切るような速さで、シルフィの足が振り抜かれる。
鈍い音が響いた。
「……ぶぐっ!?」
蹴りは正確に男の腹へめり込み、そのまま体をくの字に折る。
男は息を詰まらせ、地面へと転がった。
砂埃が舞う。
「……は?」
残った二人の男が、呆然とその光景を見る。
シルフィは軽く足を振り、乱れた靴先の感触を確かめるようにしてから、ゆっくりと少女へ視線を向けた。
「はぁ……君、大丈夫?」
気の抜けた声だったが、その場の空気を和らげるには十分だった。
少女ははっとしたように顔を上げると、小走りでシルフィのもとへ駆け寄り、その背中に隠れるように身を寄せる。
「は、はい……!ありがとうございます……!」
震えた声。
だが、その奥には確かな安堵が滲んでいた。
一方で――
残された二人の男は、顔を怒りで歪めていた。
「このクソ女が……!」
「調子に乗ってんじゃねえぞ!」
吐き捨てるように叫び、同時に殴りかかる。
次の瞬間には、もう動いていた。
踏み込みと同時に放たれた右拳が、一人の男の顔面を正確に捉える。
鈍い衝撃音。
「がっ……!」
男の体が仰け反る。
間髪入れず、軸足を支点に体を回転させる。
風を裂く音とともに放たれた回し蹴りが、もう一人の男の顎を跳ね上げた。
「ぶふっ……」
情けない声を漏らし、そのまま力なく崩れ落ちる。
静寂が戻る。
少女はおそるおそるシルフィの背から離れ、前へと回り込んだ。
「あの……! 本当に、ありがとうございます……!助けていただいて……」
頬がわずかに赤い。
緊張と安堵、そして少しの好意が混ざったような表情だった。
シルフィはそれをちらりと見て、興味なさそうに視線を外す。
「気にしなくていいよ。……一応、これくらいの良心はあるから」
淡々とした口調。
恩を売る気も、誇る気もない。
それでも――
「あ、あのっ!」
少女は一歩踏み出し、慌てたように言葉を続ける。
「私はリリィと申します!あの、お名前を聞いてもよろしいでしょうか……!お礼がしたいんです!」
まっすぐな眼差しだった。
シルフィは一瞬だけ眉を動かし、わずかに考えるような間を置く。
「お礼ね……」
小さく呟き、肩をすくめる。
「まあ、貰って困るものでもないか」
そして、気だるげに名乗った。
「私はシルフィ。」
「シルフィさん……」
リリィはその名を大事に確かめるように、小さく繰り返した。
少しだけ視線を伏せ、それから意を決したように顔を上げる。
「あの……もしよろしければ、少しだけお時間いただけませんか? すぐ近くに私の店があって……そこでお礼を――」
「店?」
シルフィはわずかに首を傾げる。
「はい。薬屋を営んでいるんです」
その言葉に、シルフィは一瞬だけ考える素振りを見せた。
薬。
特に興味はない。
だが――
「……まあ、暇だし」
ぽつりと呟く。
どうせこのまま帰っても、また母親に何か言われるだけだ。
それなら、少し時間を潰すのも悪くない。
「案内して」
気のない調子でそう言うと、リリィの表情がぱっと明るくなる。
「は、はいっ!」
弾むような足取りで歩き出すリリィの後ろを、シルフィはゆっくりとついていく。
石畳の道を抜け、賑やかな通りを外れ、さらに細い路地へ。
人通りは徐々に減り、喧騒が遠ざかっていく。
やがてリリィが足を止めたのは、建物と建物の隙間のような場所だった。
「こちらです」
――建物|薬屋|建物。
両側の壁に挟まれるように、小さな店がひっそりと佇んでいる。
正面には木製のシャッター。
今は半分ほど開けられており、控えめな看板が顔を覗かせていた。
軒先には乾燥させた薬草が吊るされ、かすかに風に揺れている。
近づくにつれ、草と土の混ざったような、落ち着いた香りが漂ってきた。
「……ほんとに店なんだ」
シルフィはぼそりと呟く。
正直、気をつけていなければ見落としそうな佇まいだ。
リリィは少し照れくさそうに笑った。
「小さいですけど……ちゃんとやってますから」
そう言って、木の扉を開ける。
カラン、と小さな音が鳴った。
店内は外から見た以上にこぢんまりとしていた。
壁一面の棚には小瓶や包みが整然と並び、中央には簡素な机とすり鉢が置かれている。
柔らかな光が差し込み、静かな空気が満ちていた。
「どうぞ……あまり広くないですけど」
シルフィは無言のまま中に入り、軽く辺りを見回す。
「……落ち着く匂い」
思わず漏れた一言だった。
リリィは少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに微笑む。
「本当ですか? 薬草の香りなんです。そう言っていただけると……嬉しいです」
シルフィは適当に近くの椅子へ腰を下ろし、背もたれに体を預けた。
「それで? お礼って」
相変わらず興味なさそうな声。
だがリリィは、真剣な表情で頷く。
「はい。シルフィさんには、本当に助けていただいたので……」
そう言って、棚の一角へ向かい、小さな瓶を手に取った。
淡く光る、透明な液体。
「これは簡単な回復薬です。疲労や軽い傷ならすぐに効きます」
シルフィはそれをちらりと見て、片眉を上げる。
「……へぇ」
「無理にとは言いません。でも、もしよければ受け取ってください」
差し出された瓶。
その奥にあるのは、打算のない、まっすぐな善意だった。
シルフィはしばらくそれを眺めていたが――
やがて、ゆっくりと手を伸ばす。
「……じゃあ、もらっとく、ありがとう。」
軽い調子でそう言いながらも、受け取った指先はほんのわずかに丁寧だった。
「ありがとうございます……!」
リリィはほっとしたように息をつき、小さく笑った。
その様子を見て、シルフィはふと視線を逸らす。
(……なんか、調子狂うな)
静かな店内に、薬草の香りがやわらかく広がっていた。




