名前のないユニットと、呼ばれた音
その朝、風は静かだった。
空は晴れていたが、畑の地面には前日の夜露がまだ残っていた。
コレヒトは小屋の縁に腰掛け、煙草を一本吸っていた。
火はすでに消えかけていたが、彼はそのまま持ったまま、空を見ていた。
ロボットはいつものように土壌センサを確認し、作業チェックを開始した。
記録処理は滞りなし。
ふと、畑の方から声がした。
「おじさん、あの、こんにちは……」
ロボットは反応した。
音声認識:未登録話者。
対象:年少個体。性別:女。推定年齢:10〜12。
少女が、畑の端に立っていた。
リュックを背負い、頬には泥の跡がついている。
猫がその足元に擦り寄っていた。
「あのロボット、名前あるんですか?」
不意にそう尋ねられたとき、コレヒトは答えなかった。
煙草の火をもみ消すように、指で灰を払った。
「S.A.Eって呼んでる。セミオートエンティティ。型番の略だ」
「……長いですね。名前じゃなくて、記号みたい」
少女はそう言って、ロボットの方に目を向けた。
「……サエ、って呼んだら、ダメですか?」
その音が、風に乗った。
異常ログ:識別音声“サエ”に対し反応遅延。
関連感情タグ:未定義。記録処理中……
ロボットは反応できなかった。
何をどう処理すればいいか、わからなかった。
けれど、その音――“サエ”という音声だけが、
何度もリプレイされていた。
「……好きに呼べ」
コレヒトは短く言った。
少女は笑った。
「サエさん。よろしくね」
ロボットの中で、ログファイルが増えていた。
命令でもなく、作業でもなく、
ただひとつの“音”の記録が、何度も保存されていた。
■記録ログ
発話記録:対象:少女/音声強度:中
発話意図:対象ユニットへの呼称提案、および初期的親近感表明
関連タグ:未定義(“サエ”という音声に対し再処理ループ発生/感覚ログ大量生成中)