風の中の名前
春の風が吹いていた。
空はよく晴れ、草はそよぎ、塔はかすかに鳴っていた。
人の気配はない。
声もない。
それでも、風だけは、変わらずに吹いていた。
その場所に、ひとつの影があった。
錆びた腕。折れかけた脚。
かすれた塗装の下に、何かのマークが微かに残っている。
その姿は、もうほとんど案山子のようだった。
だが、風が吹くたびに、わずかに軋む。
それはまるで、呼ばれているようにも聞こえた。
──サエ。
その名は、もう誰にも呼ばれていなかった。
少女の声も、主人の声も、遠くに消えてしまった。
けれど、風だけが、その音を知っていた。
「……いたよ、ほんとにいたんだよ」
それは、新しく訪れた誰かの声だった。
年若い声。記録にない人物。
だが、その声は、“そこにあった何か”を確かに見ていた。
「名前……書いてある。……サエ?」
その言葉を聞いた瞬間、
かすかな音が鳴った。風が、笠の先を揺らした。
そして、その誰かが静かに言った。
「ありがとう」
記録ユニットは、もう動いていなかった。
でも、その“声”は、風のなかにしっかりと残った。
まるで、最後にもう一度、ログが更新されたかのように。
それは、もう誰にも届かない。
けれど、確かにここに在ったということだけが――
風の中の名前として、
いまも、この村の片隅で、静かに揺れている。
■記録ログ(最終断片ログ)
発話記録:対象:不明/音声強度:中
発話意図:呼称、および存在への感謝表明
関連タグ:未定義(受信側記録不可/風音のみ記録対象)




