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【ChapterⅠ】Section:4 アカシックレコード

 鳥の囀りを聞くとステラは重々しく瞼を持ち上げた。そこには無限の宇宙が無限次元的に泡のような形態を取って存在していた。理論物理学で見た光景だと思いながら、視ている位相がずれている自身の眼を自分と同じ位相に戻す作業がこの日の始まりだった。

 無意識的に目やにを右手で拭い、それをティッシュペーパーに包んでゴミ箱に捨てた。そのまま目線を上げるとそこには街中に貼られる広告のような形式の朝の活動の仕方というマニュアルが目に入った。別にそれに反発する必要性も感じられないので、ステラは大人しくそれに従って活動をすることに決めた。個室というよりかはマンションのように複数の部屋が付属されている中から洗面所に向かい、右手と顔を洗った。

 そのまま書いてある通りに歯を磨こうとして苦戦しているタイミングで入り口の扉がノックされた。扉を開けると寝間着のままではあるがそれ以外を済ませた様子のアンジェリカが立っており、おはようという声に対して歯ブラシを咥えているのもあって短く「ん」と返答すると、屈んだアンジェリカが代わりにステラの歯を磨き始めた。

 綺麗になった口内とアンジェリカを引き連れ中央の部屋に行くと、アートマンが何故かイギリス式の朝食を作っている最中であった。ステラたちが部屋から出てきたのに気が付いたアートマンは顔をこちらに向け、器用にフライパンを見ずに目玉焼きをひっくり返しながら朝の挨拶を発した。


「おはよう」


 今度こそしっかりと返答をしたステラはアンジェリカに椅子に座らされた。しばらくして出来上がった香ばしいベーコンを無表情で貪りながら、コーヒーを嗜む両親を横目にこれからどうするかについて思考を巡らせた。自分は最初に何を本格的に学ぶべきなのだろうか。心理学や哲学では精神構造が未熟な現在では刷り込みのような形で悪影響を受けかねない。直接関連するわけではないがそのような思想面が大きく介入する芸術の彫刻や水彩画を始めとした各分野もあまりよろしくないのだろう。やはりというべきか、最終的には感情や感覚が介入しない純粋な知性の分野である数学や物理学に帰結した。文字に起こすと無限の猿定理のようなものではない単純に可能な文字列になるが、実際にはもっと深く複雑に考えていたため、思考を終えるとちょうど自分の分の食事を食べ終わっていた頃であった。舌に残る朝食の跡を味わいながらぼうっとしていると、アートマンに呼ばれた。


「ステラ、僕の書斎に行くから、ついてきなさい」

「わかったよ」


 どこにあるのかはもちろん知らない彼の書斎に行くために扉を開けると、見覚えのない女性が扉の傍に立っていた。整えられた黒い長髪の上に白いフリルのついたブリムを軽く載せている成年と未成年の中間ほどの年齢に見えるそのメイドはイギリスのヴィクトリア朝時代のものと思わしき組み合わせを着用しており、しばらくその体勢で立ったままであったことがわかる。


「おはようございます、アートマン様、そしてお嬢様」


 優雅にお辞儀をする様子からは、何年間も修行あるいはメイドとして奉仕してきたことがよくわかった。今の時代にあるような個人が決定する職業の一種としてではなく、伝統的にその家系が召使を生業にしていることが伺える。


「ああ、おはよう、エレン」


 それだけ言うと、アートマンは彼女の方を見もせずに歩き出した。アートマンは当たり前かのように彼女をただの召使いとして扱っている上に、その当人も特に態度からは不満を持っている様子はなさそうなので、これがいつもの光景であるのだろうと一人で納得しながらついていく。メイド──エレンもついてきているので、おそらく書斎内で雑用を任せるために呼んだのか、あるいは自主的にやって来たのだろう。




 屋敷の西側に存在する書斎は、入る部屋を間違えたのかと錯覚するような空間であった。限定的に部屋の中の時空構造を歪めているのか、外側から見たら基本的に連想されるサイズの書斎であるように認識できるのに対し、内部からでは一キロメートル四方の書物庫であり、中央には利用者を補佐するための機器が数多く設置されていた。入り口を見てみると本棚に埋め込まれるような形で扉があり、本棚の厚さは明らかに廊下よりも狭かった。付近の蔵書を見てみると、それ専用の博物館であるかのように、世界各地のあらゆる形式の紙媒体で書物が保管されていた。空間の歪みを気にせずそれ単体で見るのならばアーノルト家が代々収集してきたようにも見えるが、驚くべきは明らかに千年単位で昔の物品ですら新品同然の──そもそもが古紙のような媒体で記入されているものは流石に時間的な視点を変えなければいけないが──状態であったことだろう。


「まぁ、自分の部屋で読むようには紙媒体で渡したが、本格的にやるならばそれ用の環境を整えなければならないだろう。そして今はデジタル化の時代だから、僕と比べたら大したことはない性能だがこれで勉強してもらおう」


 僕もしばらく使っているから信頼性は高いと言いながら明らかにオーバーテクノロジーの産物であるその存在コンピュータ──現在社会的に流通している力学的なコンピュータの次世代型である量子コンピュータ、本来の文明の発展速度から逆算すると少なくとも五千年後ほどに完成するであろう更にその次の段階に存在する物理学的な時間の概念を越えた存在コンピュータである──に手を乗せてその存在をアピールした。


「このコンピュータには僕がすべての複素領域……まぁ実数空間内全体を踏破するまでに得た情報のほとんどが入っている。まぁ計算機兼辞書代わりとして使いなさい」


 そうは言いつつも自らも教鞭を取る気満々の様子であり、本人は黒板の前に立っていた。言葉を省略しているが、おそらくこの存在コンピュータは自習用として使わせるつもりなのだろう。


「では早速授業を始めるとしよう。エレン、ステラに適当な紅茶でも入れてあげなさい」


 教卓の中にしまっていたノートと万年筆を取りだし、ステラが座っている席──とはいっても彼女のための席以外はない──の上に置き、エレンに彼女用の紅茶を準備させていた。自分自身の喉の渇きはどうするのだろうかという無粋な考えは捨て置いた方が良いのだろう。


「では最初に、選択公理についてだが……」

「あ、ちょっとまって」

「ん?どうかしたかい?」

「家の歴史について知りたい」


 アーノルト家が千年単位での歴史を持っていることは直感的に理解したが、書斎内の蔵書も含めて、どのような時間を辿ってこのような家になったのかが気になったステラは、もしかしたら初めてかもしれない自発的な行動を起こした。


「よし、わかったよ。なら僕たちのアーノルト家の歴史について教えよう。確かここに年代記が……」


 そう言いながらアーノルト家年代記を探している最中に、エレンが上質な茶葉を使ったロイヤルミルクティーをステラに差し出した。軽く飲んでみるとミルクの濃厚な味と茶葉の味が混じり合い、まさしくこれこそがロイヤルミルクティーとでも言うような典型的でありながらも、完璧な味を調合していた。本当の意味でレシピ通りのミルクティーを持ってきた彼女に対し、アートマンも年代記を見つけてきたようで、ミルクティーの隣に静かに重厚感を感じるそれを置いた。教壇に戻ったアートマンはワインとワイングラスを教卓の上に出すエレンの方向を見ずに、当たり前のように──実際彼にとっては当たり前でありコンマ一秒の時間すら必要がないほど簡単なことではあるが──エレンの思考を読み取り、黒板の方を見ながらエレンによってコルクが開けられていたワインボトルを右手で傾け、ちょうどワイングラスと嵩が同じになるように入れて、それを溢さずに一飲みしてからノック式のチョーク──とは言ったものの、それはバロック美術的な彫刻が施された銀色の容器に単に入れられているだけであり、おそらく彼なりに実用面と芸術面を両立したのだろう──ワイングラスの代わりに手に取り、黒板に文字を書き始めた。

 こうして見ると二元論はなかなか独創的と言える概念であるのだろう。西洋思想の主軸では各項が対等である二元論ではなく一元論が主であり、存在こそするものの二元性が中心的である東洋の拝火教や道教と比較するとあまり学術的に見ても盛んであるとは言えないだろう。しかし、そんな中で数少ない東洋的な二元論の性質を持つ概念が存在する。それは比較不可能な無限と永遠の象徴である尾を飲み込む蛇あるいはドラゴンであるウロボロス・オフィスである。西洋においてドラゴンとは神聖なる人間の理論と概念を矮小なものとして一蹴する邪悪な存在である。そのような邪悪さを取り除いた、あるいは邪悪さを付与される前に存在した最高位のドラゴンがウロボロス・オフィスである。彼の蛇にとって二元論は自分自身より矮小なたった一枚の鱗にすぎず、無限を象徴する故に無限の鱗を持つオフィスにとっては無限に司る概念の一つでしかない。神学が生まれるより遥か昔から存在するそれは、道や絶対無限のようなものでは一部しか表すことができないのだろう。

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