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【ChapterⅠ】Section:1 無知の知

科学者──とりわけ物理学者は世界を、小宇宙を論理的に表そうとする。虚構の中で愚かにもがくその知性体は、いつ自身の影こそが現実の真理であることに気が付くのだろう。

 二〇二八年七月七日、羊水を再現した培養液の中に一人の全裸の少女が胎児のように丸まりながら浮かんでいた。液中に浮かんでいるために人工呼吸器を着けている白金よりも濃い髪色を持つ彼女は外見からは二歳児に見えるが、実際は身体の成長が少々遅れているため小柄なだけで三歳児である。呼吸は問題ないとしても食事や水分摂取、排泄のような生理的に必要な事柄をどのようにしているのかには疑問が走るが、おそらくそれらは機器を見るに今まで行われたことがないのだろう。

 強化ガラスのような耐久性を備える円柱の中で、少女の瞼が振動したのを外から愛おしそうに見つめていたアンジェリカは見逃さなかった。少女の母親のようにも見える美女はレモンティーが冷えるのも気にせずに鋼鉄の無骨な椅子から立ち上がり、少女の前で手のひらを押し付ける。少女の人生初めての外部からの情報の入力は、その光景であった。

 美女は少女──ステラ・ブラフマン・アーノルトを出産してから三年の年月を掛けてようやく覚醒したのをしっかりと確認してから、膝から十五センチ下にまで伸びる実用性があまり考慮されていないドレスの裾をうっかり踏まないようにしつつも小走りで巨大な鉄塊──おそらく少女が入っている培養槽とその周辺機器を操作、調整する装置だと思われる──に向かうのを横目に、ステラは寝起きに等しい状態で思考を始めた。

 自分は一体何なのだろうか。幼児に似つかわしくないことを浮かべたのを皮切りに、純粋な能力は父親よりも優れている脳をはっきりと覚醒させ始めた。覚醒し始めた中で外部からの情報入力も始まり、薬品の臭い、冷たい培養液、偽羊水を通して伝わってくる振動と共に、二種類の目を持っていることに気が付いた。生物学的にステラが保有する眼は物理的領域の代物らしく物理的な光景を脳に伝えており、そしてもう一対の目は奇妙なことに何をどのように見るのかを彼女自身の意思で何度も自由に選択することができた。最初こそ物理的な眼と同様に三次元空間を映していたものの、周りともっとよく視認したいと考えたときには、その眼は四次元空間から培養槽周辺を映していた。それに驚いた次の瞬間には四次元空間からより高い基数もしくは順序数の位置から豪邸を見下ろしていた。その豪邸はベルリンの郊外にあり、相対的に小さな洋館と洋館より巨大な庭、そして物理的に存在しないγ階の地下部屋──物理的領域よりも深くに存在する数学的領域の中に存在し、γはΩ未満であり、任意の超限数以下を示している──で構成されていた。ステラがいたのは地下六十七階であった。それを理解した次には地球のすべてが数式と概念によって覆われているのが確認できたところで、培養槽が突如として破損し、鼓膜も保護していた羊水が漏れ出たことで鼓膜が機能し始めた。鼓膜が周囲の振動を受け取ったところでステラの眼は元の時空連続体に帰還し、ガラスの破損も止まった。

 ガラスが砕け散る音に母親──アンジェリカは驚いたようにポーカーフェイスを保ったまま身体を細かく揺らした。彼女は冷静なままであり、静かにステラに向かって歩み寄った。


「おはよう、ステラ」


 優しく自身に語りかけるその姿を、生物学的な理由に由来するものか、ステラはアンジェリカが自身の母親であると認識した。


「……ママ?」


 確認するようにそう呟くと、元々笑顔で表情筋が固定されていたのが、わかりやすく更に笑顔となり、ステラに返答した。


「ええ、あなたの母のアンジェリカよ」


 赤子を持つような腕の位置でステラを抱えるアンジェリカはそのまま跡始末もせずに七十三メートル先に備え付けられたエレベータに歩き出し、現在更に地下深くに鎖で固定された小部屋を呼び出した。ボタンが押されたことを示す音とランプの点灯こそあったものの、それ以外は代わり映えのない地下四階の中で、呼び出し元が遠すぎることに気が付いたのかエレベータの左手に埋め込まれたレバー──変速機を動かし、最高速度を二秒におよそ三メートルだったのを大きく引き上げた。どれだけ深く、どれだけの速度で上昇したのかは不明だが、一分ほど心地よい人肌の揺り籠に身を任せているといつの間にかエレベータは地下六十七階に到着していた。現代的な手法で動くエレベータの内部はアンティーク調の壁紙とソファーが置かれ、閉鎖感を防ぐための鏡も配置され、リラックスできる空間を作り出していた。アンジェリカが内部にも設置された変速機を調節してから上昇する命令を出すと、エレベータはゆっくりと上昇し始め、彼女はステラを伴ってソファーに腰を下ろした。


 赤子扱いをされていることに多少の不満を感じつつも、アンジェリカから漂う母性に釣られてステラは舟を漕ぎ始めていた。アンジェリカはそれを咎めずに、優しい口調でステラに伝えた。


「今の速度だと、一階に着くまでに二時間ほど掛かるから、寝ていてもいいわよ」


 そう囁かれ安心したのか、ステラは再び微睡みの中に入っていった。




 ステラが睡眠を始めてから、アンジェリカはステラの容態の確認を始めた。軽く瞼を持ち上げ、物理的な眼球を通じてステラが持つ形而上学的な眼の調子を確認していた。三十分ほど掛けて調べたところ、各領域に再帰された小さな領域も含めて、問題なく実数空間全域を認識できていることが確認できた。虚数空間にはまだ届いていないものの、それはステラが少しずつ学問について学ぶ中で理解できるはずなので、特に気にせずに瞼に触れていた人差し指を離し、アンジェリカは愛娘のベビーベットの役割に徹した。

 アンジェリカは突如思い出したようにキャビネットの上に配置された最新式のテレビを──物理的ではなく数学的な空間であるはずなのに、アンジェリカやステラは自認で説明できるとしてもテレビがどのように物理的である電波を受け取っているのかは謎である──ソファーの隣の机に置かれたリモコンを手に取ってボタンを押すことによって番組を見始めた。目的のチャンネルがどれなのかは覚えていないので、手当たり次第に数値を切り替えていると、五回目で目的の中継が映し出された。


『キュクロプス号の搭乗員が着用する宇宙服の開発に注力中との事ですが、既存の宇宙服と比較して具体的にどのような部分を改良するのですか?』

『現段階では宇宙服自体の耐用性と生命維持装置に注力して──』


 現代で最も注目されているプロジェクトであるタルタロス計画──太陽系を覆う天体群であるオールトの雲を突破し、地球及び太陽系から最も近い地点に存在する三重星系であるアルファ・ケンタウリ星系の各恒星を公転する惑星のすべてに着陸し、現地でボーリング調査を行ない試料を持ち帰るという過程を有人で行なう計画である──の進捗は度々会見でマスメディアや世界各国の議員などに報告されており、今回は一か月前に開始された宇宙服──特に船外服──の進捗についての報告が求められ、その為にプロジェクトの主任であるアートマン・ソロモン・アーノルト博士が会見を開いていた。アートマン博士はドイツ帝国の大貴族アーノルト家の末裔であり、世界的に名前が有名な研究者であった。彼は量子論を始めとした物理学的な各分野に始まり、幾何学や代数学のような数学的な分野でも知られている。如何にも貴族の夫人であるという服装と雰囲気を醸し出すアンジェリカがその会見を中継で見ているのは、帰納的にわかる通りまさに彼こそがアンジェリカの夫であり、ステラの父親であるからに他ならないからだ。

 予測によればこの一週間のどこかでステラが目覚めるという望んでいた時期なのにアーノルト宅にアートマンが居ない理由の一つがまさにこれであり、本来会見での報告もアートマンの担当であるが、前回はアンジェリカの誕生日と重なり無断で休暇を取りサボタージュを行なったことに対してのツケが回り、苦虫を嚙み潰したような表情をしながら泣く泣く会見に赴いた。しかも魔の悪いことに連続した日程で学会も行われ、サボタージュを防ぐために拘束される為に運悪く立ち会うことができなかった。彼は間違いなく今世紀最大級の天才でこそあるものの、その前にアートマンは愛妻との暮らしを満喫する家庭人であった。

 そんな科学者らしく我の強い人物が拘束までして確保されているのは、彼が少なくとも現代の人類において──一部の物理学者を始めとした人々は人類史にも拡張できると考えている──最も優れた知能を持つ人間と賞賛されており、実際に複素連続体理論や集合論的様相実在論など、数学的、理論物理学的な分野で際立った功績を為しており、熱力学的インフレーション理論が最も目立った成果である。ノーベル物理学賞も受賞しており、まさしく人類最高峰の能力を持っていることは疑いようのない人物であり、プロジェクトの推進も計算や理論の構築はほとんどアートマン個人が造り上げたものであり、同じくノーベル賞を取った経歴のある人物が雑用しかこなせないほどであった。嫉妬したり落ち込むのが馬鹿らしくなるほどの能力を持っている故に、彼一人が居なくなるだけでプロジェクトが完全に破綻すると確信されているため、安全面での保障も含めて彼の周囲には常に国際連合の所属員や国家に雇われるボディーガードがつけられていた。ただし、アートマンのプライベートは完全な謎に包まれており、極秘裏に出動命令を出された北海の連合王国の秘密情報部のような情報機関でも糸口すらをも掴めず、ある種実在する都市伝説のようなものでもあった。

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