あいつ消防団を辞めたらしいぜ
「宗則さんは知ってましたか、俺が小学生だった頃、バスに乗るのにお約束ごとがあったの」
不意に翔太が言った。
「朝七時三十分のバスに乗ってはダメ。……その出所が、西園寺さんだったってオチ」
七時三十分のバスに乗ってはダメ、そのお約束ごとの出所は西園寺だった。
とはいえ大々的に広めた訳でもない。
孫娘個人に『あのバスには宗則が乗ってっから、おめーは乗んじゃねー』そう言ったのに尾ひれがついて、あのようなことになっただけ。
しかしそのお約束ごとも、翔太達が乗るようになって、少しずつ消滅していく。
誰もが気兼ねなく、七時三十分のバスに乗って登校するようになっていった。
それにあの頃の宗則はバイク通学だった。バスに乗るのは、冬の間と大雨でも降った時だけ。
他人に危害を加える気はなかったし、貸しきりにする気もなかった。つまりはそこまで騒ぐ必要はなかったということだ。
「らしいな。そんな話、後から訊いたよ」
それを聞き入り苦笑する宗則。やれやれといった具合に煙草の煙を吐き出す。
「そういえばお前、次の年から、バスに乗らなくなったよな」
そして思い出したように投げ掛ける。
彼ら二人が、バスの中で会っていたのは、あの冬の短い期間だけだった。
翌年からは、その光景は見られなかった。
「わざと乗らなくしたんですよ、トンビって言われるのが嫌になったから」
抑揚なく言い放つ翔太。煙草の先がジリジリと音を発てて赤く染まる。
「嫌になった?」
「あのトンビって渾名、間抜けな奴、って意味ですよね?」
「ちょっと待て、誰がそんなこと言った?」
「昔のことだから覚えてないだけでしょ。俺は訊いたんだ、あんたの友達だった、山田って人の弟に」
「山田だって……」
山田というのは宗則の学生時代の仲間のことだ。
七時三十分のバスで、志織の髪の毛を掴んでいた人物。その弟は涼と同い年で、翔太の二つ年上になる。
「あいつが言ってたんだ。トンビってのは、間抜けって意味だって」
翔太がトンビという呼ばれ方を嫌いになったのは理由がある。
あのバスでの出来事から半年程経った頃の話だ。
その日志織が、二個年上の少年にいじめられるという出来事が起こる。
それを訊いた翔太は、いじめの現場である理科室に助けに駆けつける。
志緒をいじめていたのが、その山田だった。
意気揚々と駆け付けた翔太を見つめ言い放つ。
『おめートンビって言うんだべ、兄貴が言ってたぞ、トンビってのはトンマ、って意味だって。ガキのくせに高校生にナマ言う、トンマで間抜けなトンビだって』
それで翔太はようやく理解した。
本当は自分は認められていかったと。高校生達はトンマで間抜けな自分を、からかっていたに過ぎないと。
それ以来、トンビと呼ばれるのが嫌いになった。
それ以来、七時三十分のバスには乗っていない。
「宗則さんらが悪い訳じゃないのも、理解はしてます。一方的にそう思い込んだ自分が悪い。本当ガキだったから」
もちろん、それが子供の頃の感情だとは理解している。
高校生が小学生を馬鹿にしてあしらうのは、ごくありふれた光景。
そこに少しの悪意もないし、翔太自身そこまで根に持ってもいない。
ただそのことを思だすと、少しばかり気まずさを覚えるのは事実。
「だからちょっと待て、お前はなにが言いたいんだ。俺はそんな話一度も……」
「本当にトンマで間抜けなトンビですよ、結局アサばあちゃんは、助けられなかったんだし」
堪らず言い放つ宗則の台詞を翔太が遮る。
「予防消防の公報活動なんか、意味ないですよ。結局火事はおきた、誰も助けられなかった」
言って灰皿に煙草を揉み消した。
「たまたまだろ。全部が全部、消防団でまかなえるものじゃない」
同じく煙草を揉み消す宗則。
翔太がなにを言いたいのか、正直理解出来ない。
冷静に努めようと、再び煙草をくわえて火をつける。
「そんなんじゃ、消防団なんか存在する意味がない。所詮火事の前じゃ、人間なんか無力なんだ。だから無意味」
そしてその翔太の台詞が、宗則の怒りにも火を点けた。
「翔太お前、それでも消防団か?」
ぴくりと眉をひそめて翔太を睨む。
「すみません、少し言い過ぎですかね。だけど守りたい存在を、守れなかったのは事実です」
それでも翔太は、少しも悪びれる素振りはない。視線をくれることなく言い放つ。
「俺達はプライドで生きてるんだ。もっと自分のやることに誇りが持てないのか……」
髪を掻き上げて静かに言い放つ宗則。
「確かにあの時、瞬時に飛び込めば、アサばあさんの命は救えたかもしれない。だがやっぱり危険は伴った。逆にお前が、大怪我してたかも知れない。お前の侵入を止めたのは、俺の消防団としてのプライドだ」
それでも昂る感情を押さえきれないのか、少しばかり口調を荒げた。
「そんなプライド、クソ喰らえだよ」
だがその翔太の台詞が、宗則の怒りを一気に引き出す。
「なんだって? それがお前の本音か!?」
咄嗟に両腕を突き出し、翔太の襟首を捻り上げる。
「本音っすよ」
だが翔太も怯まない。呼応するように宗則の襟首を掴んだ。
勢い余って二人、軒先から飛び出る。
「プライドがどうこう言うけど、必死に頑張っても、誰も理解してくれないじゃないですか。なくてもいいとか、酒ばっか飲んでるとか、税金泥棒だとか、好き勝手言われて、プライド云々(うんぬん)の問題じゃない」
「長老の話か。そんなもの現実を見ない、日和ものの戯言だ。耳を貸すな」
降り続く雨が、二人の身体に容赦なく打ち付ける。
多くの人々が何事かと視線を向けているが、一向に気にすることはない。
「世間一般的な言い分ですよ。真実じゃなくても、それが一般的な消防団に対する見解だ!」
「それでもちゃんと見てくれる人はいるだろ? 俺達の本当の姿を見て、ちゃんと理解してくれる人は!」
「それが……それが重荷なんだよ!」
言って宗則の拘束を解く翔太。
「アサばあちゃんだって、俺達に迷惑かかるって、その責任感で逃げようとしなかった」
そして力なく、ふらふらと後ずさった。
ザーザーと降り続く雨が、容赦なく身体に打ち付ける。
「……俺のせいなんだ。俺の為にぼた餅なんか作ってたから」
翔太が一番後悔しているのは、あのとき見たかまどの光景。
あの時きっぱり『いらない』と言っていれば、結果も違っただろう。
「そんな自分を卑下するようなことを言うな、お前らしくない」
堪らずその肩を握り締める宗則。
こちらも同じくずぶ濡れ状態。
オールバックに撫で付けた髪の毛も、バサバサと垂れ落ちて、口にくわえた煙草の火も雨で消えていた。
「翔太、お前……」
そして愕然となる。
目の前の翔太は項垂れたままで、その表情は理解できない。頬を伝わって滴るしずく、それが宗則の戸惑いを押し上げる。
「俺は消防団、入りたくて入った訳じゃなんだ。実際こんな町、帰ってくる気もなかった」
翔太の怒りの矛先は自分自身だった。
後悔、焦燥、憤怒、絶望、全ての感情が混ざり合い、その台詞を言わせていた。
「大沢五部代表の方」
そこに葬儀場の司会が現れる。
「……もうそろそろ式の準備が始まりますが……」
戸惑いながらも伝えた。
ちっ、と舌打ちしてゆっくり歩き出す宗則。
「翔太、お前の意見が完全に間違ってるとは言わない。もちろん俺のやり方を肯定もしない。この世の中、確たる正解なんてそう簡単には見つからないからな」
言って口にくわえた煙草を、灰皿に投げ捨てる。
「だけどなんでも自分のせいだと決めつけて、めそめそ泣いてんじゃねー。後悔なんかに縛られちゃ人は生きていけねーんだ。……それと心底辞めたいと思ってんなら、消防団なんか辞めちまえ」
その台詞を残して、式場内に消えて行った。
雨はザーザーと降り続く。男達の確執、個人のプライド、秘めた思いを嘲笑うように……
その後、ある噂が流れるようになる。
里見翔太? あいつ消防団辞めたらしいぜ……




