災害の前に人は無力なのか
「嘘だろ、この情況……」
猿渡に辿り着いた翔太、全ての全容を理解して、ただ立ち尽くす。
アサの家は、ゴウゴウと立ち上る巨大な炎に包まれていた。
古い古民家、かやぶき屋根なら尚更だ。
アサの安否は不明。先程から携帯電話も繋がらなくなっていた。
辺りに立ち込めるのは熱いギブリ、息をするのさえ苦痛を伴う。
ウウウウウウ!
広報無線のサイレンが、空に響き渡る。
多分に宗則達が、消防署に通報したのだろう。
じきに消防団、消防署の一斉放水は行われるだろう。
……だがあまりにも、時間がなさすぎた。
「クソッたれ!」
翔太は叫びと共に走り出す。
アサの家の作りは、殆ど熟知している。
沢に駆け寄り、流れる山水をバケツに注ぐ。チョロチョロした細い流れだ。
枯渇しかかっているのか、焦りのせいか、思うように水かさは増えない。
半分ほど溜まったところで、上空に持ち上げて頭からぶっかけた。
「待ってろ、ばあちゃん!」
その身体からぽたりぽたりと水滴が滴る。
その状態で、母屋に向かって走り出す。
「馬鹿野郎! なに考えてんだ!」
だが突然襟首を掴まれ、後方に引き戻された。
「しかしこのままじゃ、ばあちゃんが!」
ぐっと後方に視線を向ける。
襟首をたぐり寄せたのは宗則だった。
スカイラインの横には、宗則の軽トラが停められている。翔太の無謀さを察してか、ひとりで駆けつけたようだ。
新たなサイレンの音が響きだした。大沢五分の緊急車両のものだろう。
つまり今しがた出動したということ。
やはり出動するまでは、少しばかり時間がかかったようだ。鳶口やスコップ、様々な機具を用意しなければいけないから。
「今なら、助けられるかもしれないんですよ。さっきまで電話で喋ってたんだから!」
「この炎だぞ? てめーの無事も確認しろ!」
懇願する翔太だが、宗則はそれを許そうとはしない。
その間も炎は荒れ狂う。メラメラと母屋を焼き尽くし、軒や柱、壁や天井、その全てを真っ赤に染め抜く。
「まだ大丈夫ですって。玄関は燃えてないんだから!」
翔太の視線に映るのは、まだ炎に浸食されていない、ぽっかりと切り取られた空間。
それは玄関先だ。
普段開けっぱなしで、まだ炎に塞がれていないその空間からなら、中に飛び込むことも可能。
「あそこからなら、入れるじゃないですか。アサばあちゃんがあの先にいるんだ!」
その向こうには、確実にアサの姿があるから。
「馬鹿野郎、そんな問題じゃねーんだ! 状況を考えろ!」
「考えてるから言ってんだ!」
翔太だって安易に考えている訳ではない。
確かにその光景は不気味だ。ほの暗く浮かぶ内部の光景。その中で真っ赤な悪魔が、手招きしているようにも思える。
まるで地獄の門が、開いたとさえ思える。
その先に待つのが、希望か絶望か、それさえも今は判断できない。
それでも行くしかない、そうしなければ確実に、大切なものを失うから。
激しい炎は噴出してくる。
それに炙られて、全てを熱いギブリが支配する。
周りに置かれた、プラスチック製のプランターが溶け落ちる。
アサのお気に入りだった手押し車も、その体を成してはいない。
真っ赤な炎に包まれて、完全に鉄の骨組みと化していた。
チリチリと音を発てているのは、渋柿の葉っぱだろうか。少しずつ立ち枯れしていく。
翔太ががぶった水分も、既に乾いていた。
その体感はまさに摂氏一万度。
全てが溶けてしまいそうな感覚を覚える。
こんなことなら法被を着込んでくるんだった、そう痛感する翔太。
一際甲高い、ガゴーン、という轟音がとどろいた。
それは玄関の梁が、崩れ落ちた音だった。
赤い炎になめ尽くされて、ゆっくりと崩れ落ちる。
それで完全に、侵入する経路は経たれた。
その刹那、翔太の中でなにかが断ち切れた。
「どうして邪魔したんです! 台所はすぐそこだったんだ、少し熱いかもしれないけど、我慢すれば助けられたんだ!」
宗則に向き直り、思いの丈をぶちまける。
「そんなもん、僅かな可能性だろ! どのみち大怪我は確実だ!」
対する宗則も引かない。
ぐっと腕に力を籠めて、翔太の肩に食い込ませる。
「そんなこと分かってんだ、分かってるけど、このままなにもしないよりマシなんだ! アサばあちゃんを見殺しにしろっていうのか!」
危険なことは翔太も理解する。
だけど頭では分かっていても、心では納得しない。
ハァハァと小刻みに息する宗則。その額にぴくぴくと青筋が立ち込める。
「ふざけたことほざいてんじゃねーぞ、このトンビ!」
感情をぶちまけるように、全身を使って叫んだ。
ごくりと息を飲む翔太。
その脳裏に、とある光景がフラッシュバックする。
それは小学生一年当時、七時三十分のバスの中の光景。
『大きいなりして、邪魔だな』
そう息巻いた思い出。
『このクソトンビ』
そう言われて、あしらわれた記憶。
「その呼び方、ムカつくんだよ! あんたが付けたその呼び方が!」
翔太が吠えた。
宗則の腕を掴んで、強引に外しにかかる。
「俺は、あの頃のようなガキじゃない!」
「ガキなんだよ、お前はいつまでたってもガキのままだ!」
二人の意見は全く噛み合わない。
大炎上する光景をバックに、ふたつの熱い意志が激しく激突する。
「宗さんもトビも、頭に血が昇りすぎだ。早く放水の準備しろよ!」
涼の怒号が響いた。
「人手が足りねーんだぞ、二人して、ガキみてーなケンカしてんじゃねーよ! その間に、全部丸焦げになっちまうべよ!」
既に辺りでは、大沢五部による放水の準備が開始されていた。
「くっ」
呼吸を整える宗則。
「ここから川まで、四百メートルぐらいだろ?」
翔太の拘束を解き、涼に訊ねる。
「だない。ここらには防火水槽はない、水利はこの先の川だけ。ホース全部出すまでだ」
相変わらす涼の判断は的確だ。
それに従い、他の面々がテキパキと放水の準備を開始していた。
辺りからは幾多のサイレンの音が響いている。
県道を幾多の緊急車両が、突き進んでいた。
全ての光景が赤一色。
夕焼けの赤、炎の赤、緊急車両の赤、パトランプの赤。
まるで血の池地獄の、ただ中にいる心境。
「消さなきゃ……」
ぼそっと呟く翔太。無我夢中で走り出した。




