光が射せば影が差す
こうして屯所に翔太が帰ったのは、日もどっぷりくれて、辺りを赤い夕陽が包み込んでいた頃だ。
「……そんなところが、今後の予定だ」
多くの団員が見つめる中、テーブルに置かれた議事録を見ながら宗則が言った。
消防団の会合は、なにも定期点検だけをする為に集まっている訳ではない。
今後の業務連絡や、打合せなども兼ねている。そうすることで今後の活動予定を知って、円満な活動を進める。
今回の連絡は、秋に行う消防団行事について。春に行った検閲式のようなもの。
あれと同じ光景があると思うと、流石の翔太もげんなりする。
「それとこれは確定したことじゃないんだが……」
今度は宗則、議事録に視線を落とさず言い放つ。
どうやらそこには書かれていない、別の話らしい。
「俺達が行っている、独り暮らし老人宅の訪問、あるだろ。あれがこの地区選出の代議士の耳に入ったらしいんだ。それで消防庁からの、直々な表彰があるようなんだ」
それは驚愕の台詞だった。確かこの地区選出の代議士は、総務省がらみの職務をこなしている。
総務省は消防庁を取り仕切る立場にある。
そんな話を淳平が言っていたので、ここにいる団員の殆どは知っていた。
「ウソだっぱい、金一封なんかもあんのがい?」
興奮気味に飛び付く真樹夫。
「どうだべな。警視庁表彰なんかだと、それもあんだべけど」
首を傾げる涼。
ガヤガヤと響き渡る団員の声。その気持ちは翔太も同じだ。
それほど、にわかには信じ難いことだった。
「とにかくまだ、確定事項じゃないんだ。秋の検閲までには確定するだろうけどな」
そんな団員を宗則がぴしゃりと静める。
「とにかく名誉なことだべよ」
「後の話は、飲みながらでな」
確かに名誉なことだ。普通行う表彰式とは雲泥の差。
こうして団員達の、活動後のささやかな宴が幕を開けた。
「しかし最近、ちっとも雨降んねーない」
ビールの注がれたグラス片手に涼が言った。
「ダムの水も底をついてるからな。農業用の水も規制されるぐらいだ」
呼応して宗則が言った。
この夏は全国的な猛暑が続いていた。
田畑に引き込む水さえ足りなくて、このまま行けば米の収穫にも響きそうな勢い。
「俺んちなんか、吉田さんちと同じ井戸水引いてんばい、そこの水もチョロチョロだぞい」
真樹夫が言った。
この辺には水道はひかれていない。だから山水や井戸水が主流。
その豊富な水さえ、確保が難しい状況だった。
水の重要性は誰もが知ってるところ。特にこの辺は農家が多い。それ故死活問題だ。
団員達が集まっているのは、六畳程の空間だ。
簡易的な台所があり、小さな冷蔵庫やテレビなど、必要最低限なものが置かれている。
そんな狭い空間に十人程の団員が集まると、それだけで暑苦しい。
熱が籠りやすく冷めにくい、コンクリート製の二階部分というのも、それに拍車をかける。
経費の関係上、クーラーなどといった贅沢品は置かれていない。
所詮消防団はボランティア。その報酬はごく僅かで、贅沢などしている余裕はない。
それどころか地区の協力金がなければ、その継続さえ困難なものになる。
この場に置いてあるテレビや冷蔵庫も、それらを使って購入した訳ではない。
使わなくなったものを譲り受けたか、退団した団員が身銭を切って、寄付してくれたものだ。
だから殆どの団員は暑さに堪えかねて、法被を脱いでリラックスした姿。
ビールの栓が次々と抜かれて、団員達の喉を潤していく。
そして翔太も例に漏れずTシャツ姿。
「そう言えばアサばあちゃん、雨がどうとか言ってたな」
ウーロン茶を一口飲んで言った。
アサの所に行く手前アルコールは我慢していた。
他の団員が飲むビールがやけにうまそうに感じる。
「へっ雨?」
きょとんとした表情を見せる真樹夫。
宗則達も同じような表情を翔太に向ける。
「あれっすよ、アサばあちゃんが言ってたんです。雨が降りそうだから、作業を早くしたのは正解だって」
慌てて言い放つ翔太。
「天気予報じゃ、そんなこと言ってねーべ?」
「だから、俺が言ったんじゃないんだって」
「アサばっぱも、モウロクしたんでねー?」
言い出した話題が悪かった。この手の件は真樹夫の好物だから……
「だけど案外当たりかもしれねーぞ」
今度は宗則が言った。
「案外当たりって……」
愕然と視線を向ける面々。
「昔の人ってのは、自然と共に暮らしてきたんだ。天気予報なんか関係なく、自然の状態や動物の行動からそれを観察する」
翔太が言うのと違い、宗則の言葉には重みがある。
確かに天気にまつわる言い伝えは昔からたくさんある。
カエルが鳴くから雨だとか、ツバメが低く飛ぶから雨が降るとか、クモの巣がキラキラと輝くから天気になるとか、星空が綺麗だから晴れるとか、様々なこと。
カマキリのタマゴが産み付けられる高さで、降雪量を判断する人もいる。
そのどれもが昔からの経験で生まれた知恵だろう。
案外そっちの方が、テレビの天気予報より適中する場合もある。
翔太自身、ガキの頃にクツを蹴飛ばして、明日の天気を占っていたのを思い出す。
「翔太さん、ぼた餅食ってきたんがい?」
今度は太一が言った。
「いや、今日は食ってきてない」
「あのばあちゃんの作るぼた餅、店で買うより美味いがんない」
太一はアサの作るぼた餅のファンだ。
何度かアサに貰って、それを太一にくれたことがあった。
「薪をくべて作ってるからじゃないですか? 薪釜は手間がかかるけど、電気釜とはまた違うから」
同調して言い放つ淳平。
確かにそれもあるだろう。器具の発達した今では、誰でも簡単に作れる食材だが、手間ひまをかけて作る食材はそれより美味い。
ブルルル……
不意に翔太の携帯電話のバイブが鳴った。通話相手はアサだ。
あれから一時間以上は経過している。おそらく、ぼた餅が出来たという知らせだろう。
それと同時に、先程の消防庁表彰の話を、アサにしようと思った。
少なくともそこまでなった経緯には、アサも関連している。
ニコニコと笑顔を浮かべる、アサの表情が想像される。
「出来たのかい、アサばあちゃん」
言って通話ボタンを押す。
通話口からは『……翔太ちゃん……』という、アサのか細い声が響く。
辺りでは団員達が様々な会話をしている。
旅行の話だったり、子供の行事の話だったり、防火水槽の管理の話だったりと様々。
付けっぱなしのテレビからは、ニュースキャスターの声が響いている。
どこどこのダムが枯渇して、遂に給水制限がかかったらしいとか、連日と続く話題で誰も興味を示さない。
それらの響きがうるさくて、通話に集中できない。
何故だろう、かすかに耳鳴りがする。少しばかり喉の乾きを覚える。
「ちょっと待って。ここ、うるさくて」
グラスに入ったウーロン茶を飲み干すと、外に出ようと歩きだす。
何気ない電話だった。なんでもない会話で、このまま終わると思っていた。
少なくとも普通の日々が続いて、いつもと同じ朝がくると信じていた。
しかしごく当たり前の日々など、どこにもない。良いことがあれば悪いこともある。
禍福は、糾える縄の如しというが、希望の裏に隠れるのは、決まって絶望。
光が射せば影が生まれるのと同じ理屈だ。
この時の翔太は、その理屈に気付かなかったに過ぎない。
既に悪夢へのカウントダウンは、始まっていたというのに。
時に運命は牙を剥く、最悪な手段を講じて襲い掛かる。
それが人生の絶頂にあったとしてもだ。
この世を生きる人間は、運命から逃れる術を持たないのだから。




