そうして始まる真っ白な未来②
母の形見である壊れたオルゴールを手にした途端、フローレンスの発言権は完璧に奪われた。
ただラヴィエルは、紳士のマナーとして異性の自室に足を踏み入れてはいけないという理性は残っていたようで、フローレンスは自分の足で床に立つことを許された。
そして「絶対に逃げない」という約束の下、フローレンスはオルゴールを抱えたまま、馬車まで歩くことを許可された。
といってもフローレンスの腰にはずっとラヴィエルの手が添えられている。その触れ方は決して荒々しいものではないが、歩きにくさから少しでも距離を取ろうとすればすぐさま引き寄せられる。
そんな有無を言わさない手つきに動揺しながらも、フローレンスは抱き上げられるように馬車に乗せられた。ラヴィエルに至っては、踏み台を使わず一歩で乗り込んだ。
動き出した馬車は何かに追いたてられる気配もなく、ゆっくりと進んでいく。
それは公爵家当主である彼を呼び止める者など、王族以外いないだろうという判断から。万が一、引き留める者がいようものなら、それ相応の処置をするという意思の表れでもあった。
そんなわけで馬車の乗り心地は大変快適だ。
しかし車内に充満する空気が快適かと問われたら、それは是とは言えないものだった。
「───さて、と。やっと二人っきりになることができたね、フローレンス。では早速お話をしようじゃないか」
長い沈黙を破ったのは向かいの席に座るラヴィエルだった。ついさっきまでの険しい表情は消え、今はとても機嫌が良さそうだ。
対してフローレンスは無言のままでいる。
別に無視をしたいわけじゃない。強引なことをされて腹を立てているわけでもない。単純にとても困っているのだ。
バルコニーから転落した際、自分はラヴィエルに助けてもらった。そして応急処置を受けている時に、こうなってしまった事情はあとで話すと咄嗟に伝えてしまった。
今、ラヴィエルはそれを聞くのを待っている。
待っているからこそ、こんなにも身体を前のめりにしているのだろう。かなり距離が近い。
「お約束したことを破るつもりはありません。ですが......どこからお話しして良いのかわからなくて......」
「どこからでも構わない。婚約者同士の会話に順序立てて話す必要がどこにある?」
時間稼ぎにと口にした言葉は、ラヴィエルの前では何の役にも立たなかった。
(......どうしよう。どうして良いのかわからない)
フローレンスは震える手をぎゅっと握り合わせる。
一度目の生はリコッタに突き落とされて幕を閉じた。
二度目の生は復讐をするためにシナリオに沿って生きてきた。
だから困ったことなど一度もなかった。わからないことがあっても、一度目の生を思い出せばそこに答えがあったから。
でも、今はどれだけ正しい答えを導きだそうとしても出てこない。
(そっか。......当たり前だわ。だって私、もう未来を歩み始めているのだから)
ここでフローレンスは至極当たり前のことに気づいた。ただ望んだ未来がこんなにも不安なものとは思いもよらなかった。
「......怖いんです、わたくし」
うっかり胸の内を溢してしまったフローレンスの視界がぼやけていく。
泣いていることに気づいたのは、熱いものが頬に滑り落ちてからだった。
「泣かないでくれ」
弱りきった声と共に、大きな手が濡れた頬を拭う。
「フローレンス、君は何を恐れているんだい?」
いっそ怒鳴ってくれたほうがマシだと思えるほど、ラヴィエルの声はとても優しかった。
「どうせ話しても信じて貰えないから......きっと」
これまでのことを言葉にするのは難しくはない。でも紡いだ言葉を真実として受け止めてもらえるかどうかは自分自身では決められない。相手が判断することだ。
フローレンスはたとえ愚かだと呆れられても、馬鹿なことをしたと軽蔑されても、二度目の生を否定されたくなかった。
そんな気持ちは言葉にしていないのに、ラヴィエルはまるで全てを理解しているかのようにゆっくりと首を横に振った。
「私は信じる。絶対に」
人の上に立つ人間は安易に“絶対”という言葉を使ってはいけない。なぜなら不可能を可能にできる力があるから。
なのにラヴィエルは、今、あえて“絶対”という言葉を使った。まだ何一つ語ってはいないというのに。
フローレンスは驚き、彼を見つめる。
ぼやけた視界の中でも漆黒の髪がはっきりとわかる。暁色の瞳も、意思が強そうな眉も、弧を描く唇も。
(この人は......こんな顔をしていたのね)
自分の婚約者として顔形は認識はしていたが、ラヴィエルのことをこれまできちんと見ていなかったことにフローレンスは気付いた。
恐る恐る自分の頬に触れている彼の手に触れればごつごつとして温かい。成人した男の手だった。無意識に指を絡めれば、なぜかここで彼の手はぴくりと動く。
「......フローレンス、ここでそれは狡いだろう」
ほとほと弱りきった声を出すラヴィエルの眉は心情を表すかのように、八の字になっている。
そんな彼に言葉にできない感情が生まれ、根拠のない自信が生まれる。
「聞いてください、ラヴィエルさま」
「ああ」
居住まいを正したフローレンスに、ラヴィエルも聞く姿勢を取る。
「実は、私───」
たどたどしく語り始めた婚約者の言葉をラヴィエルは一度も遮ることはしなかった。疑いの目を向けることさえも。
フローレンスの真っ白だった未来が、ゆっくりと色付いていく。
始まりの色は、黎明の色であり、朝焼けの色。もしくは暁色───ラヴィエルの瞳と同じ色だった。
◇◆◇◆おわり◆◇◆◇
最後までお付き合いいただきありがとうございました!




