展示番号8:「仔犬の頭」
これは、私の幼少期の体験談であり、特にオチのあるような面白い話ではない。ただ、決して忘れることのできない記憶であると共に、尋常ならざる嫌悪感を抱かされた忌まわしき思い出である為、いつまでも忘れられずにいるのである。
それは、私がまだ小学校低学年、弟が幼稚園の年長さんだった頃のある休日のこと。私たち家族は父の運転する車で、ドライブがてら温泉宿へと遊びに来ていた。と言っても宿泊はせず、昼前に到着し湯船に浸かり食事を摂ってノンビリと過ごした後は、午後の三時頃にはもう帰路に着いていたように思う。
行きは町の中の道を通って来たのだが、早く夕食の買い出しを済ませたいと言う母の要望と、同じ道を通るのでは面白くないと言う父の主張が合致し、帰りは山沿いの道を走ることなった。
しばらくして、道の途中に《わんわんふれあいパーク》と言う看板が現れる。可愛らしいラブラドール・レトリーバーの仔犬の写真と共に、簡単な地図と電話番号、そして「成犬・仔犬 販売しています」の文言が記されていた。それなりに古い物と見え、文字も写真も酷く色褪せているのが、やけに印象的だった。
そしてこの看板を発見してしまったが為に、私はある恐ろしい体験をし、生涯消えることのない忌まわしい記憶を生涯植え付けられたのである。
──ところで、こう言うと君は驚くかも知れないが、当時の私は動物が好きな子供だった。今のように少しも触れないなんてことはなく、むしろ動物と触れ合う機会を積極的に望んでいたほどだ。
特に犬や猫などは一度は飼ってみたい、家族として接して思う存分可愛がってみたいと考えていた。こうした私の願望は、当時両親も知っていたから、むしろ彼らの方からたった今風景の中に現れ消えた看板について、話題に上げてくれたのだ。
「まだ時間もあるし、近いようだから寄ってみるか?」
この父の言葉がどんなにか嬉しかったか。私は期待に胸を膨らませた。念願のペットを買ってもらえるかも知れない──それが叶わずとも、ささやかな夢の実現に一歩近付くような気がしていた。
父の提案に母も同意し、寄り道をすることが決まる。幼い弟の反応はよく覚えていないが、ペットを飼うこと自体は兄弟共通の希望だったから、おそらく私同様はしゃいでいたと思う。
とにかく、私たち家族を乗せた車は途中で右折し、細く曲がりくねった農道を上って行った。
目的地へは、十分ほどで到着した。厳密な所要時間は記憶にないが、さほどの距離でもなかったはずだ。
枝道を抜けた先に、雑草の茂った広い空き地が現れた。その空間には平屋建ての民家と、木とトタンを組んで作られた畜舎のような物が、静かに佇んでいた。他には轍の先に家の主の物と思われる軽トラックがあるだけで、なんとも物侘しい景観だった。
窓から外を見た父と母が言葉を失っていたのを覚えている。あまりにも想像と違っていた為に、当惑していたのだろう。
私も似たような物で、きっと道を間違えたのだと思った。しかし、よくよく見てみると、例の畜舎の横に《わんわんふれあいパーク》と書かれた札が立っているのに気付く。ペンキがかなり劣化していて酷く不気味だったが、明らかにそう読めるのだ。
本当に、こんなところに看板にあったような仔犬がいるのか。疑問に思っていると、幽かに犬の鳴き声──それも複数の──が聞こえて来るではないか。
そのことを両親に伝えると、
「おっ、本当だな。──よし、ここまで来たんだし行ってみるか」
「ちょっと、本気なの? なんだか気味が悪いんだけど……」
「大丈夫だよ、山奥にある施設なんてどれもそんな物さ。古いからそう見えるんだな。ま、何かあればすぐに帰ればいいんだから」
結局母が折れ、軽トラックの横に車を停めると、親子四人で外へと降りた。
どうやらかなりの数の犬がいるようで、鳴き声は喧しいほどだった。動物臭いも相当な物で、街中では到底経営できないだろう。
建物の中は日の光が入らない為か薄暗く、そんな暗がりで獣の群が蠢く様子は、率直に言って不気味であった。
恐ろしくなった私は父の陰に隠れるようにしつつ、とうとう屋根の下へ足を踏み入れる。
予想したとおり、鉄柵の向こうには今まで見たことのない数の犬がいた。しかし思い描いていた物と違ったのは、そこには見る限り成犬しかいなかったのと、そのどれもが明らかに雑種だったことか。犬たちの毛並みに統一性はなく、ある者は斑らだったり、ある者は一部分だけ色が違っていたり──中には部分的に毛が禿げている者もいた──と、実に多様であった。が、見ていてあまり楽しいものでもなく、むしろ自分でも驚くほど不快だった。
その一因として、犬たちが軒並み痩せ細っていたことも挙げられるだろう。彼らの脚は殆ど骨と皮だけであり、みな一様に肋骨が浮いていた。相当飢えているのか瞳は爛々と光り、やつれた顔は獰猛な獣のそれだった。
多くの犬が黄ばんだ牙を剥き出しにてこちらを威嚇し、中には飛びかかろうとして、金網を組んで作られた柵にぶつかる者までいた。これではまるっきり、飢えた野犬の群れではないか。
幼なかった私は、スッカリ怖気付いてしまった。両親もまさかここまでは思っていなかったのだろう、二人とも絶句し、呆然と立ち尽くしていた。唯一弟だけは、母の手を握ったまま物珍しそうに犬たちを眺めており、その暢気さが私には羨ましかった。
この時点ですでに触れ合うどころではなく、私は早く車に戻りたいとさえ思っていた。が、しかし、ある出来事により、私たちはそのタイミングを逃してしまう。
「──あんたら、犬買いに来たのか?」
当然背後から聞こえた声に、私たち親子は跳び上がりそうになった。
家族と共に恐る恐る振り返ると、そこには野良着姿で薄汚れたキャップを目深に被った老人が、一人佇立していた。彼自身も犬たち同様の痩身であり、皺だらけの焼けた顔に落ちたキャップの陰が、得体の知れなさを助長している。
こちらの返事がないことに多少苛立ったのか、彼は声を硬くさせ、「違うのか」
「──あ、いや、買いに来たと言うか……車を走らせていたら看板が見えたものですから、ちょっと寄ってみたんですよ。出先から帰る途中なので、今日は見て行くだけのつもりなんですけどね」
シドロモドロになりながら、父が答える。老人からの反応はなく、黒すぎるほどの黒眼が陰の中から私たちを見据えていた。
「あの、経営者の方ですか?」
沈黙に耐え兼ねたように、父が尋ねる。老人は無言のまま首肯した。
「大変なんじゃないですか、これだけの数を世話するのは」
「ああ。全部俺が一人でやってるんだ」
「お一人で? すごいですね」
「そんなことより、買わないのか? そこにいるのならどれでも五千円でいい」
犬の値段としては破格だろう──が、そんなことより命を物としかみていないような口吻に、私はゾッとさせられた。
「随分と安いんですね。ただ、その……申し訳ありませんが、今日はやめておきます。持って帰れないので」
「住所を教えてくれれば、送ってやる。送料も取らん」
老人は食い下がる。人のいい父は、こいつは困ったなとばかりに苦笑を浮かべていた。
すると、その時。それまで指をしゃぶりながら、大人たちのやり取りを傍観していた弟が、不意にこんなことを言い出した。
「赤ちゃんは? 赤ちゃんの犬はいないの?」
大人たちは虚を衝かれたように、同時に小さな質問者を見下ろす。子供の私も、同じようにしていた。
「……こことは別のところにいるんだ。持って来てやるから待ってろ」
老人は父のことを見据えて答えると、言うが早いか踵を返し、畜舎の壁に備えられたドアの向こうに消えてしまった。この隙にコッソリ帰ってしまえばよかったのだが、私たち家族は要らぬ律儀さを発揮し、惚けたように立ち尽くしていた。
──結局、数分して老人が戻って来るまで、我々はそのままでいた。
そして、彼の腕の中にある物を見て、私はたいそう驚かされた。なんと、そこに抱かれていたのは、看板にあったのとよく似た仔犬ではないか! まさか、本当にいるだなんて。どうせ出て来たとしても、そこにいるのと同じ雑種犬だと思っていたが、間違いなくラブラドール・レトリーバーである。
仔犬はよく眠っているのか、両目を閉じたまま微動だにしない。その愛らしい姿──穏やかに眠る表情や、老人の腕に乗せられた小さな前脚など──を見ているうちに、落胆していた気持ちが俄かに持ち直すのを感じた。
「坊主、撫でてみるか?」
老人は私に言った。現金なもので、彼に対する警戒心は、多少なりとも和らいでいた。得体の知れない風貌をしているだけで、本当は善良な大人なのかも知れない、と。
それでもやはり迷ってはいたが、同じく気が緩んでいるらしい父の後押しもあり、結局私はおずおずと頷いていた。
仔犬を撫でやすいよう、老人がしゃがんでくれる。私は恐々と──しかし、同時に、愛らしい動物と触れ合える喜びを感じながら──、前へ出る。
そして手を伸ばした──その途端、激烈な臭いを感じ取り、私は思わず動きを止めた。これまでに経験したことのないほどの悪臭に、数瞬思考が凍り付く。
しかし、この時の私はすぐに、それは柵の中の犬たちの発する物だと決め付けた。そう、私は結局最後まで、気付くことができなかったのだ。
その仔犬の、異常に。
私は再び手を伸ばし、ほどなくして、指の先が仔犬の頭に触れた。
私はようやく望みを叶えたのである。
指から伝わる感触は、想像していた物と全く異なっていた。そのことに違和感を覚えはしたが、それが何による物なのかまでは、すぐにはわからなかった。
だから、戸惑いはしたれものの、私はしばしそれを撫で続けていた。すると、閉じられていた仔犬の瞼がピクりと動く。どうやら、目を覚ましてくれたらしい。──私は不思議と嬉しさを感じ、その円らな瞳が開かれるのを、期待して待っていた。
が、しかし。
次の瞬間、瞼の下に現れたのは──
一匹の蛆虫だった。
その嫌らしくオゾマシイ姿を目にした時、私は自分が何を撫でているのか、否応なしに理解させられた。先ほど感じ取った激烈な臭気は、確かにこの仔犬から発せられた物だったのだ。目の前にいる老人は善人などではない、正真正銘の紛うかたなき発狂人だったのだ! ──犬の瞼から這い出た蛆虫が、地面に落下して行くのを見つめながら、私は心の中でそう確信した。
それから何をどうしたか、あまりよく覚えていない。気が付けば私は元どおり車に乗っており、父の運転で今度こそ帰路に就いていた。一見して何事もなかったかのような車内の様子に、今しがた味わった恐ろしい体験は全て悪夢だったのではないか──本当はどこにも寄り道などしておらず、旅館からまっすぐに帰宅しているのではないかと、私は考えた。
しかし、すぐにある異変に気付く。
ルームミラー越しに見た父の顔は、これまで目にしたことがないほど青褪めていた。それは恐怖を味わったことなよる物なのか、はたまた体の内側で煮え滾る怒りの為か、判然としない。あるいは、その両方か。
いずれにせよ、父は無言のままステアリングを握っており、険しい眼差しをフロントガラスの向こうがに向けていた。まるで、虚空に浮かぶ何かを睨み付けるように。
その様子を鏡越しに見ているうちに、私は体ぎガクガクと震え出すのを感じた。
あの恐ろしい出来事は、やはり現実だったのだ。
雑種犬の吠える畜舎も、得体の知れぬ経営者の老人も、そして仔犬の頭も……。なにもかもが、悪夢のような現実だったのである。
これで、君もわかったことだろう。私が犬や猫と言った可愛らしい生き物にさえ、手を触れられなくなってしまった理由が。
以来、私はペットを飼うどころか、なるだけ動物と接触する機会を減らすよう、心がけて生きて来た。どんなに可愛らしくとも、瞼の中から蛆が出て来たらと思うと、恐ろしくてタマラナイのだ…….。
──どうしてそんな話をしたのかって? ……別に、大した意味はない。ただ、ふと思い出しただけだよ。
それより、ほら、道路の右手に注目していてごらん? たぶん、もうすぐ見えて来るはずだから。
この緩やかなカーヴを曲がった先に、あの古い看板が──