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嫌悪博物館  作者: 若庭葉
7/8

展示番号7:「おまじない」

 狭いバスルーム中、蹲ってシャワーを浴びていた。ぬるま湯に溶けた汚れが、浴室のタイルの上を這い、排水口へと消えて行く。

 ──おまじない……おまじない。なんだっけ? 昔母さんが教えてくれたおまじない……。どんなに辛いことがあっても、グッスリ眠れるようになる、おまじない……。

 いつまで経っても答えは出ないまま、無機的な水音だけが、ひたすら響いた。


 ※


 近頃、慢性的な不眠症に悩まされていた。きっと仕事を辞めてから、あまり体が疲れることがなくなったせいろう。だからベッドに入っても眠気は訪れず、無意味に目が冴え頭は稼働し続ける。

 仕方なくスマートフォンでネットを見たりテレビを点けたりしてみるが、どれもこれも大して面白くはなかった。

 これで昼遅くまで寝ているのであれば、まだいいのかも知れない──働いていない点に目を瞑れば。しかし、どうしたことか、この頃は会社勤めをしていた頃よりも早く目が覚めしまうのである。お陰でベッドの近くに置いた目覚まし時計は、その大切な機能を半分ほど忘れてしまっていた。

 いつも朝五時半には寝ていられなくなり、取り敢えずシャワーを浴びて、下着だけは着替え、トーストにマーガリンを塗って食べることから、一日は始まった。そして、ほとんど何の意味もなく時間は過ぎて去って行く。

 さしてやりたいこともなく、やらなければならないこと──部屋の掃除など──は全く手に付かない。仕方なくスマートフォンでネットを見たりテレビを点けたりしてみるが、やはり、どれもこれも大して面白くはなかった。

 部屋の中には脱ぎ散らかした衣類と読みかけの古本、そして請求書が散乱し、足の踏み場もない。まるで頭の中の状態をそのまま現実に反映させたかのように、グチャグチャだった。

 ──ここにはどこを見ても、「現実」が転がっている。

 その事実から逃れるべく、手近なところに置いてあった服に袖を通し、財布と携帯とヘッドホンだけを持って、部屋を出た。


 街には人がいる。多種多様、十人十色の人間が。その中に紛れ込んでいる間だけは──誰でもない誰かを演じている間だけは、「現実」を忘れることができた。

 もう何千回と聴いたからわからない、売れないアーティストの代表曲で耳栓をしながら、しばらく通りをぶら付いた。

 途中、古本屋に立ち寄る。完全に顔馴染みとなった──しかし、会計の時以外にやり取りを交わしたことはない──男の店員の視線がやや痛かったが、気にせず立ち読みやら棚の中身の吟味やらをして時間を潰した。

 最近は特に、絵本のコーナーが気に入っていた。

 幼い頃、母に読み聴かせてもらった記憶のある懐かしい作品から、初めて手に取る物まで──優しさと希望、そして場合によっては含蓄に満ちた世界に、スッカリ魅力されていた。

 中でも佐野洋子氏の『100万回生きたねこ』は、何度読んでも自然と目頭が熱くなった。いい歳をして無職の人間が、児童向けの絵本を読んで涙ぐんでいる絵面など、客観的に見て異常な光景であることはわかっていた。それでも涙を流さずにはいられなかったのは、もうこれ以外に泣く機会がないからだろう。

 心が動かされるのは、こうした創作物に触れた時くらいだった。

「********」

 例の店員が、何か声をかけて来る。心配そうな様子にも、気味悪がっているようにも見えた。

 彼の姿を見返した時点で、すでに涙は乾いていた。なんとなく、()()()をしていたから。見るからに内気そうで、不細工で──それでいて助平そうな男だ。彼は、いつも鏡で見るのと同じ、昏い黒眼(まなこ)を向け来る。その視線も厭だった。

 何も答えずに、絵本を棚に戻し、体の向きを変えた。

 尚も何かボソボソと言って寄越す気配がしたが、無視して店を出た。


 その後も無目的に街を彷徨い、ファミリーレストランで安い飯を食べたり、ゲームセンターに寄ったりして過ごした。なんだかんだ時間は潰せたようで、帰路に就いたのは二十一時過ぎである。

 アパートの最寄りの道は夜ともなると人通りが少なく、等間隔に並んだ街灯の明かりが、かえって侘しく感じられるほどだった。

 ほどなくして、歩いているうちに何か違和感を覚えた。背後の、そう遠くない場所から、ずっと人の気配がするのだ。

 ──誰かに、付けられている。

 振り返らずとも、またヘッドホンにより足音は聞こえずとも、何故だか確信することができた。

 ──逃げなくては。

 本能的が指令を下した。災害発生を告げるアラートが頭の中で鳴っているようだった。

 しかし、今はまだ気付いていないフリをする。そして、百メートルほど先に見える次の角を曲がった瞬間、全速力で駆け出して、アパートへ逃げ延びる作戦でいくことにした。

 あの角まで、残り五十、三十、十──

 灯りの点いていない民家のブロック塀の角沿って、左折した──

 刹那、靴音を鳴らして走り出した。

 数拍置いて、背後にいた人物も、同時に駆け出したのがわかった。今はヘッドホンから流れる音楽越しにも、相手の足音やら息遣いが聞こえて来るようだ。

 ただひたすら、無我夢中で走った。夜の道を、走りに走った。

 住まいである安アパートが見えて来ると、気が緩みそうになった。足をもつれさせながらどうにか階段を駆け上がり、もどかしげに自室のドアを鍵を開け、中に入るとすぐさま鍵とチェーンをかけた。

 一気に体中の力が抜ける。ドアに背中を付けたまま、その場にへたり込んでしまった。

 しばらくの間は、茫然自失としたまま、荒い息を整えるのに時間を費やす。慣れない運動をしためのだから、全身汗でグッショリだ。気持ちが悪い。取り敢えず、シャワーを浴びよう。

 そう決めて、ようやく重い体を上げた。


 結局ストーカーに遭ったのは、その日だけだった。それから何日間かは外に出るのが恐ろしく、極力部屋から出ないようにしていたが、ほどなくして恐怖は薄れて行き、再び元どおりに外出できるようになっていた。

 そして二週間ほどが経過し、ストーカーのことなどスッカリ忘れてしまったある日の夜のこと。

 普段滅多に鳴ることのないインターホンが、唐突に響いた。以外と大きな音で、いつも驚いてしまう。

 どうせ何かの勧誘とか営業とか、とにかくロクな訪問者ではないのだろう。そう思って居留守を使うつもりだったのだが、二度、三度と鳴らされるうちになんとなく気が変わり、取り敢えずどんな奴が来たのかだけでも、確かめてみることにした。

 ドアスコープを覗いてみると、円く切り取られた景色の中に、紺色の制服を着、帽子を目深に被った男が立っていた。警察官のようだ。

 ──警察がいったい何の用だろう? 好奇心と不安を同時に覚え、いよいよ無視するわけにはいかなくなった。

 チェーンはしたまま、薄くドアを開ける。

「……はい」

「夜分遅くに申し訳ありません。こちらのお部屋に盗聴器が仕掛けられていると通報があったので、調べに参りました」

 帽子のつばの陰に目元を隠したまま、警官は言った。──盗聴器? 突然そう言われても、困惑するばかりで現実味はなかった。

「詳しく調査致しますので、中に入れてください」

 この申し出により、一気に不信感が増した。いきなり訪ねて来て部屋に上げろなど、幾ら警察の捜査であっても、あり得ないはずだ。

 すぐに答えることができず、相手の姿見返す。何故だろう、どこかで見たことのある気がした。

「中へ、入れてください」

 彼がそう繰り返した時、本能的に確信した。

 この男を、部屋に上げてはいけないと。

 慌ててノブを引っ張りドアを閉じようとした──が、そうなるよりも先に相手が足を挟み込んで来る。男は左手でドアを掴みながら、もう一方の手で、ベルトに提げていたある物を取り出した。

 それは、大型のニッパーのような器具だった。男は左肩と左肘を隙間に捻り込むように体勢を変え、両手で器具を握り締めた。

 声を出す暇さえなかった。

 古いアパートのチェーンはあっけなく断ち切られ、難なく侵入を許してしまう。

 突き飛ばされたわけでもないのに、思わず尻餅を搗いた。見上げた男──巨人かと思えるほど大きく見えた──は、悠然とドアを閉め、後ろ手にサムターンを捻る。

 座り込んだ状態から体の向きを変え、這うようにして部屋の奥へと逃げようとした──が、しかし、抵抗虚しく、すぐに襟首を引っ掴まれてしまう。恐ろしいほどの力で無理矢理体を起こされ、そのまま部屋の中に放り込まれた。両手や膝を打ち付ける。痛みを感じながらもどうにか立ち上がろうとしたが、無駄であった。左の二の腕を掴まれたかと思うと、仰向けにさせられ、背中からベッドに倒れ込んだ。

 男がどう言った目的で押し入ったのか、おかしな話だが、そこで初めて理解できた。

 体の上にのしかかって来るのを、必死き踠いて振り払おうとする。その拍子に手が帽子に当たり吹き飛ばした。

 そして、ようやく襲撃者の正体を知った。

 それは、いつも行く()()()()()()()()だった。以前、『100万回生きたねこ』を読んでいた時に声をかけて来た、あの──

「やっと気付いた? 俺のこと、気付いた? 俺はいつも見てたのに、君は無視するから……だからいけないんだよ!」

 狂ったようなモノスゴイ笑みを浮かべ、男はそんなことを言った。意味不明だった。

 男が猛悪な顔を近寄せた時、ちょうど右手が目覚まし時計に触れた。藁にも縋る思いでそれを掴み、力任せに相手の頭に叩き付ける。

 予想外の威力だったと見え、男は悲鳴を上げて仰け反った。すかさず追撃を加え、相手の体の下からどうにか逃れ出ることができた。

 ──ジリリリリリリリリリリリリリリ。

 右手から落ちた目覚まし時計はスッカリ壊れてしまったようで、ベルの音がけたたましく鳴り響く。ここ最近使われることのなかった機能を、ようやく思い出したように。

 背後から呪詛の言葉を怒鳴る声が聞こえて来た。恐怖は収まるどころか、加速し続けていた。

 再び散らかったカーペットに這いつくばる。

 すると、手を伸ばせば届くほどの位置に、例のニッパーのような器具が落ちているのを発見する。不要になったと判断し、男は手放してたのだろう。これまでにはなかった明確な殺気を背中に受け、迷うことなくそれを手に取った。

 体を捻り、振り返る。

 同時に男が襲いかかって来た。

 反射的に目を瞑り、顔を背ける。

 しかし、この時体は無意識に動いていたのだが──

 刹那、何か厚みのある物が破れる音が、目覚まし時計のアラーム越しにも、ハッキリと聞こえた。

 初めは何が起こったのかわからなかった。男の怒号が聞こえなくなり、代わりに腕にかかる重さが増して行く。

 顔に生暖かい雫が、ボタリボタリと落ちかかるのを感じ、恐る恐る、瞼を開けた。

 まず初めに、男の驚愕した表情が視界に飛び込んで来た。男は見開いた目玉を動かし、自らの喉を見下ろす。

 そこには、彼が侵入する為に用いた道具の刃が、深々と突き刺さっていた。──先ほど顔にかかったのは、彼の口の端から滴り落ちた血だったのだ。

 自分が何をしてしまったのか、すぐに理解できた。しかし、それ以上に生き延びることに必死だった。

「あ、う──ウアアア!」

 無茶苦茶に雄叫びを上げ、持ち手を握り締めた両手に力を込める。少しずつ体を起こしながら、どうにか相手を押し返して行った。

 その間、潰れた喉で声にならない声を漏らし、男はゴポゴポと血の塊を吐き出した。なかなかしぶとく、彼が完全に動かなくなるまで、気の遠くなるような時間を要した。

 無論、実際には五分も経っていなかったのかも知れない。

 男の喉の中で、刃が合わさる感触が伝わった時、彼はもうほとんど動かなくなっていた。トドメの一撃とばかりに中腹を蹴り飛ばすと、その拍子に刃が引き抜かれ、真っ赤な噴水が上がった。

 それを体の前面にマトモに浴びながら、男が()()()()()のを茫然と視界に捉えていた。

 彼の体は壊れた目覚ましの上に落ち、そのお陰でようやくアラームの音が消えた──時計は完全に壊れてしまったのだ。

 先ほどまでの阿鼻叫喚ぶりが嘘のように、部屋の中は静まり返る。

 しばらくの間その場に立ち尽くし、息を整えた。

 ──それからどれくらい経過したのか、よくわかなかった。いつの間にか荒い息遣いさえ聞こえなくなり、全てが生き絶えてしまったかのように、静かになっていた。

 体中が汚れている。

 シャワーを、浴びなくては。

 人間として至って正常な判断に従い、凶器を捨てると服を脱いで、バスルームへと向かった。


 ※


 狭いバスルーム中、蹲ってシャワーを浴びていた。ぬるま湯に溶けた汚れが、浴室のタイルの上を流れ、排水口に消えて行く。

 ──おまじない……おまじない。なんだっけ? 昔母さんが教えてくれたおまじない……。どんなに辛いことがあっても、グッスリ眠れるようになる、おまじない……。

 早急に思い出さなければ。

 このまま彼が、安眠できるように。

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