日本芸能史~戦前・戦中~終戦直後の名歌手たち、でも若い人は知らないし興味も無いのね、このままじゃ忘れ去られちゃうよ…。
【はじめに】
ここに登場する人物たちは、第二次世界大戦前後に、流行歌の歌手や作曲家として活躍された方々です。
規約に抵触するかどうかは微妙なところですが、特に問題が無ければこのまま掲載させていただきたいと、許可申請をよろしくお願いいたします。
我が日本国は、かつて無いほどの危機的状況となり、それを見るに見かねて、歴史上の人物たちが数多く集結しているところだ。
次に紹介する歴史上の人物は、この人物だ。
古賀政男という、昭和期の作曲家だ。
とはいっても、またもや近現代の人物なのだが。
近現代は、当時子供や若者だった人が、おじいさんやおばあさんになっているというくらいの時代。
あるいは、今生きている我々から見て、ひいおじいさん、ひいおばあさん、
あるいは、おじいさん、おばあさんの、そのまたおじいさん、おばあさんといった人たちの若かりし頃のお話。
『歴史』というより、親や祖父母世代の昔話、と受け取られるだろう。
それではあらためて、昭和の作曲家、古賀政男について紹介する。
古賀政男
1904年~1978年
日本歌謡史に燦然と輝く名曲を数多く残した作曲家である。
福岡県の、現在の大川市の出身で、マンドリンの演奏を得意としたことから、もともと音楽センスは卓越したものがあった。
代表作
『影を慕いて』
『酒は涙か溜息か』
『丘を越えて』
『東京ラブソティー』
『人生の並木路』
『誰か故郷を思わざる』『人生劇場』
『悲しい酒』
他多数
歌のタイトルにはそれぞれ、意味が込められている。歌詞の内容にも、それぞれ意味が込められている。
上記の楽曲の他、多数の代表曲がある。
藤山一郎
1911年~1993年
代表曲
『影を慕いて』
影を慕いてを作曲したのは古賀政男、歌唱したのは藤山一郎。
『丘を越えて』
昭和6年の歌だが、この時代の歌にしては明るいメロディーの歌。
そもそも、この時代の歌は暗い歌詞、暗いメロディーという印象があり、それがまさに暗い世相の時代であったということを示している。
『東京ラブソティー』
戦前を代表する、東京の歌といえばこの歌、という軽快なリズムの歌である。
『長崎の鐘』
原爆が投下された長崎の惨状を目の当たりにし、そして誕生した曲。
『青い山脈』
戦後まもなくのヒット曲。
敗戦の傷跡から立ち直っていこうという、この時代の空気を表すように、明るいメロディーの歌である。
淡谷のり子
1907年~1999年
代表曲
『別れのブルース』
戦時中は、いわゆる流行歌というのは軍部によって歌うことを禁じられ、軍部を称賛する軍歌を歌うことを、国民も歌手たちも強制されていた。
また映画なども、内容に関して、軍部の検閲を受け、軍部に対して批判的な内容のものは上映禁止になることもあった。
こんな時代を繰り返してしまっていいのか!?
そんな中で、他の流行歌の歌手たちは、軍部の命令に従い軍歌を歌っていた。
自ら望んで歌っていた者もいれば、渋々、嫌々ながら歌っていた者もいただろう。
そんな中で、淡谷のり子は、軍部からどんなに軍歌を歌うことを強要されても、断固として軍歌を歌うことを拒否した。
今後の政権の移り変わり次第では、軍部を称賛するような大河ドラマを、強制的に作らされるということがあっても、おかしくない…。
他にも、戦前、戦中には、このような歌手の人たちがいる。
ディック・ミネ
『口説いた女は5000人』という伝説がある、そういう意味でも伝説の歌手。
代表曲
ディック・ミネの代表曲は、こちらとなる。
『人生の並木路』
『ダイナ』
『夜霧のブルース』
他多数
戦時中は、芸名で外国人名を名乗ることも禁止されていた。
つまり『ディック・ミネ』の『ディック』は外国人名だから、名乗ってはいけない、本名の日本人名で歌え、ということだった。
そもそも流行歌は歌うこと自体を禁止されていたのに、更なる軍部からの締め付けがあったのだ。
ディック・ミネの本名は、三根徳一。
戦時中は三根耕一という名で歌っていたが、軍部から禁止されていた『ディック・ミネ』を、あえて名乗って歌っていた。
軍部から禁止されたのに『ディック・ミネ』を名乗って歌っていた。
これは、ディック・ミネなりの、軍部への抵抗でもあったといえる。
他にもこんな歌手たちがいた。まだまだ紹介したいところだが、今回はここまで。次の話に移ります。
灰田勝彦
元々はハワイアンの曲などを歌っていた。
独特の歌い方で聴く者を魅了したという。
代表曲
『鈴懸の径』
『燦めく星座』
『野球小僧』
『東京の屋根の下』
他多数
伊藤久男
豪快な歌いっぷりで人気を博した。
代表曲
『イヨマンテの夜』
霧島昇・奈良光枝
この2人はよくデュエットで歌っていたという。
代表曲
『誰か故郷を思わざる』
古賀政男が幼少期に故郷で見た光景を思い浮かべながら作曲したという、古賀政男にとっても、また霧島昇にとっても、代表曲の一つ。
『乙女舟』
この曲を霧島昇と奈良光枝のデュエットで歌っていた。
奈良光枝は他にも近江俊郎などとのデュエット曲も歌っていた。
他多数
楠木繁夫
現在では知っているような人も少ないかと思われるが、本名は黒田進といい、かの有名な楠木正成【戦前は『大楠公』とよばれていた】から芸名を取り、『楠木繁夫』と名乗ったという。
それ以前は50もの変名を使い分けていたという。
代表曲
『緑の地平線』
『馬と兵隊』
『東京ラグタイム』
『紅燃ゆる地平線』
『ハルピン恋し』
他多数
東海林太郎
直立不動で、ロイド眼鏡に燕尾服で歌うスタイルが印象的な歌手だった。
代表曲
『赤城の子守唄』
『名月赤城山』
他多数
李香蘭【山口淑子】
日本と中国の2つの名を持ち、2つの祖国に翻弄された、波乱万丈の生涯を送った。
代表曲
『何日君再來』
これは中国語のタイトル。
他多数
田端義夫
『バタヤン』の愛称で知られ、戦前からの流行歌の歌手の中では、最も後の時代まで長生きした。
代表曲
『かえり船』
終戦直後に引き揚げ船に乗って帰ってくる復員兵たちの気持ちを歌った歌としてヒットした。
他多数
高峰美枝子
『歌う映画スター』の異名をとる。
『湖畔の宿』
『歌う映画スター』高峰美枝子の代表曲の中の代表曲。
出撃前の特攻隊の前でもリクエストがあり、歌われた。
菊池章子
『こんな女に誰がした』という歌詞が印象的な、『星の流れに』が代表曲。
敗戦直後の『こんな時代に誰がした』という時期にリリースされた。
今の時代も、ある意味『こんな時代に誰がした』と言いたいような時代かもしれない。
二葉あき子
広島に原爆が投下された瞬間に、トンネルの中で列車が止まったため、奇跡的に一命をとりとめた。
もしも列車がトンネルの中に入るのが1秒、2秒遅れていたら、原爆の直撃を受け、命は無かったという、嘘みたいな本当にあった恐ろしい話。
その後、二葉あき子は平成まで歌い続け、戦前からの歌手の中では最後の生き残りとなった。
『フランチェスカの鐘』
『夜のプラットホーム』『さよならルンバ』
『水色のワルツ』
渡辺はま子
代表曲
『桑港のチャイナ街』
『桑港』と書いて『サンフランシスコ』と読む。
『サンフランシスコのチャイナタウン』という曲。
『何日君再來』
李香蘭も歌った曲。渡辺はま子もカバーして歌った。
『蘇州夜曲』
渡辺はま子の一番の代表曲といっても過言ではない。
『ああ、モンテンルパの夜は更けて』
終戦後に、BC級戦犯としてモンテンルパ収用所に監禁された、元日本兵たちのことを思って作られ、歌われた歌。
他、多数の歌手たちが、時代をいろどった。




