英雄無き混迷の時代にこそ『応仁の乱』『北条早雲』を大河ドラマでやるべきでは?
『応仁の乱』といえば、室町時代にたしかそんな出来事があったな、くらいにしか思わないような人はいないだろうか。
『応仁の乱』は、戦国時代のきっかけとなった出来事だといわれる。
実は『応仁の乱』の時代は、驚くほど現代に酷似しているともいう。
まずは、スーパーヒーローが一人もいないということ。これは現代にもいえる。
『応仁の乱』の話に入る前に、まずは現代の日本を憂いているという話からだ。
現代の、いわゆる『偉い』人たちは、不祥事を起こすたび、災害対応やらいじめ対応やらの不手際を起こすたびに、謝罪会見を開いて頭を下げる、というイメージだ。
これが、現代の『偉い』人たちなんだよ。
しまいには、学生に無理矢理命令して危険タックルをさせたりする、そんな人たちばかりがニュースの主役、時代の主役、象徴となっている。
いわゆる『スター』と呼べる人がいないという点だ。
信長、秀吉、家康などのような歴史のスターがいない時代、まだ現れていない時代であること。
昭和なら、たとえばプロ野球なら沢村栄治、藤村富美男、景浦勝といった戦場に散った人たち、
戦後を迎え、川上哲治、大下弘、そして王貞治、長嶋茂雄、そして今年、星になった星野仙一や、衣笠祥雄や、他多数、
芸能界なら美空ひばり、石原裕次郎、坂本九、他多数、
相撲なら栃錦に若乃花の栃若時代、大鵬、柏戸、北の富士、北の湖、そして千代の富士、他多数の名横綱、名力士といった人たち。
それに比べて、平成のスターって、誰なんだろうね。
プロ野球のスターは、芸能界のスターは、そして相撲は?平成のスターは?
オリンピックや、サッカーW杯の日本代表選手くらいしか、誰もがスターと認めるような、誰もが認識するような、そんな平成のスターって、いないんじゃないか。
そこそこの人たち、それに人数は多くいるだろうが、この人は、っていう人がいるのか。
タレント名鑑や、プロ野球選手名鑑が毎年発売されて、タレント名鑑に載っている人たちだけでも、6500人はいるのだから、全貌は把握しきれないほどだ。
その一方で、凶悪事件と災害と、それらの事件、災害に対する不手際ばかりが目立つようなクソ時代の平成。
昔も凶悪事件や災害は数えきれないほどあったが、これらの凶悪事件や災害の印象ばかりが残ってしまうような時代として判断されてしまうのは、忍びない、やりきれない気持ちだ。
だから、スーパーヒーローが一人もいない、
『応仁の乱』の時代を、大河ドラマでやったらどうか、という話だ。
それではいよいよここから本題に入る。ここからが『応仁の乱』の時代の話だ。
この時代にも災害は数多くあった。一般庶民は、それらの災害に苦しめられる。
とりわけ水害では近くの河川が氾濫し、農作物が流され、年貢米はおろか、自分たちの食べる分も実らないありさま。
それなのに領主は年貢を納めるよう強いる。
それに対して百姓たちは土一揆と呼ばれる一揆を起こす。
一般庶民が貧困にあえぎ、一揆が各地で起きていた、それに対し幕府も朝廷も、適切な対処をしなかったような時代。
中でも1461年【寛正2年】に起きた寛正の大飢饉では、一説では京の都を流れる川である賀茂川【かもがわ】の流れが、餓死者の死骸で埋まり、止まってしまうというほどだったという。
そんな中で、将軍足利義政【あしかが・よしまさ】は豪華な御殿を建て、妻の日野富子【ひの・とみこ】とともに、優雅に過ごしていた。
そんな時代に応仁の乱は起こり、虫ケラのように人々が殺されていく、戦国の世の始まりだ。
そんな『応仁の乱』の時代を、あえて書いた作者がいる。
それが、呉座勇一という作者だ。
呉座勇一。
この作者が書いた『応仁の乱』がなぜか話題の一冊となった。
応仁の乱というのは戦国時代のきっかけになったという、11年も続いた大乱のことだ。
グダグダと11年もの間、この泥沼の大乱は続き、その結果京の都は荒れ果て、室町幕府の権威が失墜して、それをきっかけに戦国時代が始まったという。
この著書は単に学術的な文書、著書という意味合いだけでなく、応仁の乱という時代を、複雑に絡み合う人物たちの相関図や思惑などを分かりやすく、なおかつ詳しく書いたということで、これはもしかしたら、大河ドラマや歴史ドラマの原作本になるべき一冊では?と思った次第だ。
著書が大河ドラマ化した、となれば、ますますもって名声が高まるという話にもなる。
この『応仁の乱』というのは、戦国時代を生んだ大乱という話だが、実際のところは戦国時代の、それも信長、秀吉、家康が天下統一へと向かう時代の方に目が向く人たちがほとんどで、実際に何がきっかけで戦国時代に至ったのか、ということに関して、『応仁の乱』の頃の時代に関しては、これまであまり興味を持ってはこなかっただろうと思われる。
しかしこれは『応仁の乱』に対して興味を持つようになる、一つのきっかけになっただろうと思われる。
『応仁の乱』はグダグダと11年も続いたというが、
これを現代に置き換えて考えたら、
現代の混迷もやはり、今後3年やそこらでは解消しそうにもなく、
どうせ盛り上がるのは、オリンピックで日本代表がメダルを取った時だけ、
最近じゃ芸能情報なんて、往年のスターが死んだ時以外はバカらしい話ばかりで見ていられるか、
歌は売れない、ドラマも視聴率取れない、バラエティーも放送時間ばかりダラダラと長くて、テレビ版を見た瞬間に見る気が失せる、
最近は大した一芸も無いのに、芸能人という肩書き目当て、適当な相手を見つけて玉の輿目当て、
とりわけ最近の若いタレントは、全員同じような顔に見え、華もなければ個性もない、名前や顔を見てもピンとこない、
そんな奴らを『芸能界のスター』として持ち上げる気になれない、
という、芸能界もテレビ業界も、まさに『応仁の乱』の状況か。
といった感じになっている。というわけで、スーパーヒーローが一人もいない、『応仁の乱』を大河ドラマでやったら、という話になる。
ただしその人物たちの役を演じるのは現代の俳優、女優たちだから、果たしてそれを演じられる人がいるのかと、それも問題だ。
程度の違いこそあれ、現代のこのような状況に酷似しているという『応仁の乱』。
両軍の総大将、細川勝元と山名宗全が死んだ後にもなると、ますますもって戦の大義が失われ、
そうなると誰と誰が何のために戦っているのかすらわからなくなっていく。
1477年に戦いに疲れた両軍が和議を結ぶが、中国地方の大内政弘だけはなおも戦いを続ける構えだった。
そこで大内に広い領地を与えて納得してもらい、戦を終わらせることを考えたのが室町幕府8代将軍の、足利義政だった。
結局それで戦いはようやく終わるのだが、幕府、将軍、朝廷、守護大名らの権威は全く失われてしまったという。
中でも細川、畠山、斯波の三管領と、赤松、山名、一色、京極の四職の凋落が目立った。
斯波に至っては、尾張の斯波義統が、織田信友に殺害されると、守護職としての地位を完全に失ってしまう。
しかしその後織田信友も、信長によって討ち取られ、信長はそれをきっかけにして天下統一に乗り出し、一方で義統の子の義銀は、津田姓を名乗って信長の傘下に入ることで、ようやく生き延びることができたという。
それまで権勢を振るっていた守護大名たちが次々と倒されていく中で、代わって登場してくるのが、戦国大名たちだ。
その戦国大名たちの草分け的存在となったのが、伊勢宗瑞こと、北条早雲だった。
北条早雲はまず伊豆を奪い、領地とし、それに続いて相模の小田原に進出し、小田原を居城としたという経緯がある。
北条早雲という名前は、後の名前で、それまでは伊勢宗瑞、伊勢新九郎などと名乗っていたという。
実は応仁の乱の後も、室町幕府の権威はそれほど失墜してはいなかったともいわれる。
伊勢宗瑞が伊豆に進出したきっかけについては、これまでは幕府の権威が失墜したため、腐敗した京都の政治に嫌気がさして京都を離れ、伊豆や相模へと向かった。
というのが長らくの定説だったが、ここにきて実は中央の政治とつながっていた、幕府の命令を受け、伊豆を平定したら、そのまま伊豆の領主の地位をもらえるから、だから伊豆に向かった、という説が浮上している。
その頃の幕府は、9代将軍の義尚【よしひさ】が逝去し、10代将軍には、管領の畠山政長の後ろ楯で、義稙【よしたね】が将軍職に就任した。
この義稙【よしたね】は、足利義政が擁立しようとしていた弟の義視【よしみ】の忘れ形見であった。
もともと義視【よしみ】が義稙【よしたね】を将軍とし、自らは大御所となってバックアップを図るよていだったが、兄の義政が死去した1年後に、義視も後を追うように死去している。
そしてまたもや動乱が起こるのだった。
1493年【明応2年】に管領の細川政元が起こしたのが、明応の政変と呼ばれる事件で、
この時、室町幕府の将軍は義稙【よしたね】から義澄【よしずみ】にすげ替えられる。
将軍義稙【よしたね】と、管領畠山政長が、河内の畠山基家討伐に出陣中、元管領の細川政元が、日野富子の支持を取りつけ、義澄【よしずみ】を新将軍に擁立した。
細川政元が管領に復帰し、事実上幕府の実権を掌握することになった。
以降、義稙派と義澄派に分裂し、泥沼の戦が続くことになり、現在の定説では、これが戦国時代の幕開けになった、という流れになっているという。
一方の義稙【よしたね】はどうしたのかというと、
従っていた諸大名が次々に離脱してしまい、孤立した義稙【よしたね】は降伏して幽閉されるも、後に脱出する。
脱出した後に、中国地方の大内政弘【おおうちまさひろ】、義興【よしおき】に頼って山口まで向かうことにした。
こうして西では細川と大内の戦いになっていく。一方で東では伊勢宗瑞が伊豆を奪取しようと画策していた。
一方で畠山政長は、追いつめられ、ついには自刃して果てた。
細川、畠山、斯波の三管領による権力争いの構図が長らく続いていたのだが、これで畠山が脱落した形となった。