もしもこの人物を大河ドラマにするなら『一休宗純』
もしも本当に大河ドラマ『一休宗純』が制作されたら、という仮の話。
実現性は、もしかしたらあるかもしれない。
室町時代の中期、応仁の乱の前後を生きた人物でもあり、この時代の人物としては87歳という長寿だったという。
名前
一休宗純
よみかた
いっきゅう・そうじゅん
職業
幼少期はとんち坊主、晩年はさすらいのお坊さん
生没年
1394年~1481年
備考
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧であり、詩人でもあった。
一休さんが生まれてから亡くなるまでの、その間に、室町幕府の将軍さまは何人変わったことか…。
幼少期は、とんち坊主として名を馳せた。
最後は将軍、足利義満にも謁見を許され、将軍さまの前でとんちを披露する。
「はっはっは!実におもしろいぞ!この一休という坊主は!」
考えてみると一休さんの人生の中で、この頃が一番幸せだったのかもしれない。
1408年、最初に一休さんに目をかけてくれた義満が死去し、義持が後を継ぐ。
一休宗純と名乗ることになるのは1414年から1415年頃とされている。
一休宗純にはさまざまな説話がある。
この『説話』という言葉自体が、神話、伝説、民話、世間話などの総称として近代に誕生した造語とされる。
『狂雲集』という本にも書かれてある通り、実はかなり破天荒な人生を送ってきたようだ。
詩、狂歌、書画と風狂の生活を送ったという。
ちなみに『風狂』とは、仏教本来の常軌を逸した行動を取ること、また、その人という意味がある。
また、風雅に徹し、他を顧みないこと、また、その人という意味がある。
一休宗純とは、まさにそのような生涯を送ってきた人物らしい。
当時仏教の菩薩戒で禁止されていた、『飲酒』『肉食』『女犯』を平然と行っていたという説話もある。
1420年と1428年に歴史の表舞台に登場した後に、その後再び歴史の表舞台に登場するのは、なんと応仁の乱の頃。
その間、どこで何をしていたのかに関しては空白期間ともいわれる。詳しいことはわかっていない。
やはり詩、狂歌、書画と風狂の生活を送っていたのだろうか…。
やがて1467年の応仁の乱が始まり、虫ケラのように人が殺されていく世の無情を目の当たりにする。
その頃には、足利義政と日野富子の幕政を批判している。
それから、こんな言葉も実は一休宗純が残した言葉とされる。
門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし
正月を迎えることは、また一つ年をとり、冥土への旅立ちがまた一歩近づいた、その一里塚であるという意味と受け取れる。
だから、あけましておめでとうは、めでたくもありめでたくもなし、ということになる。
年をとってくるとそれだけ、冥土への旅立ちが近づいてくる、というものだということのようだ。
そして1481年、一休宗純は87歳で冥土へと旅立っていった。