第4話:軍靴の噂
注記: 本作は史実をもとにした歴史フィクションです。
人物の会話、心理描写、一部の出来事の流れには創作を含みます。
史実そのものの解説は、本文最後の「櫻未來の歴史メモ」で補足します。
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今回の登場人物
マルセル:若い兵士。街の騒ぎを抑える命令を受けるが、民衆の恐怖も理解している。
テレーズ:市場の女性。噂を疑いながらも、軍の気配に怒りと不安を抱く。
ジャン・ボーモン:パン屋。パンの列が政治の噂で荒れていくのを見ている。
アルマン:職人見習いの若者。革命を守らなければ潰されるという恐怖を抱き始める。
エティエンヌ:書記。議会の言葉が軍靴に踏まれるのではないかと怯える。
1789年7月12日ごろ、パリ。
ヴェルサイユでは国民議会が力を持ち始め、周辺には王の軍が集められているという噂が広がっていた。
パン屋の列でも、話題は値段だけでなく、軍と議会の行方へ移っていた。
「今日は、粉より噂の方が多いね」
テレーズが籠を腰に当てて言った。
ジャンは窯の前で汗を拭く。
「噂を焼けるなら、今ごろ俺は金持ちだ」
「王が軍を集めてるってさ」
「昨日も聞いた」
「昨日より近いってさ」
列の後ろで若い声がした。
「ネッケルが罷免された」
人々が振り向く。
アルマンだった。職人見習いの服は油で黒ずみ、目だけが妙に明るい。
「誰から聞いた」
「パレ・ロワイヤルで皆が叫んでた。王は議会を潰す気だ」
ジャンは低く言う。
「叫んでいる者が多いほど、確かな話とは限らない」
アルマンは食い下がる。
「確かになるまで待つんですか。軍が街に入ってから?」
テレーズが眉をひそめた。
「あんた、怖がってるね」
「怖いですよ」
「なら怖いと言いな。正義みたいに言うんじゃない」
アルマンは唇を噛んだ。
そこへマルセルが来た。
槍は持っているが、表情は硬い。
「店の前で集まるな。道を空けろ」
テレーズが笑う。
「またそれかい。兵隊さんは道が好きだね」
「命令だ」
「今度は誰の腹を守る命令だい」
マルセルは列の顔を見た。
怒りよりも、不安が多い。
「軍が来るという噂を広げるな」
アルマンが前へ出る。
「噂じゃないなら、なぜ兵が増える」
「俺に聞くな」
「兵のくせに」
「兵だから、知らされないこともある」
短い沈黙が落ちた。
ジャンがパンを並べながら言った。
「皆、今日は買うのか、戦うのか、どっちだ」
テレーズが答える。
「腹は買いたいと言ってる。耳は走れと言ってる」
エティエンヌが息を切らして路地から出てきた。
小さな包みを胸に抱えている。
「ジャンさん、水を」
「どうした」
「議会の写しを届ける途中です」
アルマンが目を輝かせた。
「何が書いてある」
エティエンヌは包みを押さえる。
「国のことです」
「俺たちのことか」
「そうでなければ、意味がありません」
テレーズが言う。
「なら、声に出しな」
エティエンヌは周囲を見た。
兵士もいる。
空腹の人々もいる。
怖がる若者もいる。
彼は小さく言った。
「代表たちは、憲法を作るまで引かない」
アルマンが笑う。
「なら、王も引かない」
マルセルが低く警告する。
「煽るな」
「煽ってるのは軍靴の音だ」
遠くで、群衆の声が上がった。
「武器を!」
「武器を探せ!」
テレーズの顔から笑みが消えた。
「嫌な音だね」
ジャンが扉を半分閉める。
「今日は早く帰れ。パンを持っている者は、なおさらだ」
アルマンは動かない。
「向こうが銃を持って来るなら、こっちは何で身を守るんだ」
マルセルは彼の前に立った。
「銃を持った瞬間、おまえは守る者にも殺す者にもなる」
「持たなければ、殺される者だけです」
誰も笑わなかった。
夜が近づくにつれ、通りの声は太くなった。
ジャンは火を落とし、扉にかんぬきを掛ける。
外では人々がまだ走っている。
マルセルは路地の暗がりに立ち、遠くの足音を聞いた。
「明日は」
彼は誰にも聞こえない声で言った。
「パンの列では済まない」
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