第16話:隣人の名簿
注記: 本作は史実をもとにした歴史フィクションです。
人物の会話、心理描写、一部の出来事の流れには創作を含みます。
史実そのものの解説は、本文最後の「櫻未來の歴史メモ」で補足します。
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今回の登場人物
ルシアン:仕立屋。家族と店を守るため、疑われない側に立とうとする。
マルグリット:洗濯女。王の処刑の日に泣いていたことで疑いの目を向けられる。
エティエンヌ:告発文を書き写す書記。言葉が人を救うより縛るものになっていくのを感じている。
ガスパール:処刑人の助手。増えていく名前を覚えないようにしている。
マドレーヌ:知っている人が疑われる場面を見て、自分の沈黙を恐れる。
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1793年秋、パリ。
革命を守るという名目で、反革命の疑いを受けた人々が次々と捕らえられていた。
昨日までの隣人が、今日には名簿の上で「疑わしい者」になる時代が始まっていた。
「疑わしい者はいないか」
区の委員が聞いた。
仕立屋ルシアンは帽子を握っていた。
「私の店には、まじめな客ばかりです」
「まじめな顔で裏切る者もいる」
「それは」
「家族はいるな」
ルシアンの喉が鳴った。
「娘が」
「店を失えば困るだろう」
「もちろんです」
委員は机を指で叩く。
「革命に協力する者は、店を守れる」
ルシアンはその意味を理解した。
理解したくなかった。
外ではマドレーヌが、母の古い服を直してもらうために待っていた。
マルグリットもいた。
「ルシアンさん、遅いね」
マルグリットが言う。
マドレーヌは頷く。
「この前、安くしてくれた」
「いい人だよ」
その言葉は、扉の向こうには届かなかった。
ルシアンは委員の前で汗を拭く。
「誰か、いないか」
「私は」
「沈黙は、疑いを呼ぶ」
ルシアンは妻と娘の顔を思い浮かべた。
店の棚。
未払いの布代。
熱を出した娘。
そして、王の処刑の日に泣いていた洗濯女の顔。
「マルグリットが」
声は自分のものではないようだった。
委員がペンを取る。
「続けろ」
「あの日、泣いていました」
「どの日だ」
「王の処刑の日です」
「理由は」
ルシアンは目を閉じた。
「知りません」
「なら、疑わしい」
扉が開いた。
マルグリットは最初、何もわかっていない顔をしていた。
兵が彼女の腕を取る。
「え」
マドレーヌが前へ出かける。
「違う」
声は喉で止まった。
マルグリットがマドレーヌを見た。
責める目ではなかった。
ただ、助けを求める目だった。
それが、いちばん苦しかった。
エティエンヌはその名を書いた。
マルグリット。
洗濯女。
疑い。
彼の手は止まらない。
隣の役人が言う。
「早くしろ。次がある」
「この人を知っています」
「知っているから何だ」
「知っている人の名を書くのは」
「知らない者ならよいのか」
エティエンヌは黙った。
その問いは、あまりにも正しかった。
夜、ガスパールは名簿を受け取った。
「今日は何人ですか」
「数えるな」
年上の助手が言った。
「覚えるからですか」
「いいや。数に慣れるからだ」
翌日、区の委員はまたルシアンを呼んだ。
「君の名も出ている」
ルシアンは青ざめた。
「なぜ」
「密告が遅すぎた。隠していたのではないか」
「そんな」
「革命への協力は、早さも大切だ」
ルシアンは椅子から立ち上がれなかった。
昨日、自分が他人へ向けた言葉が、今日は自分へ向いていた。
エティエンヌは新しい名を書いた。
ルシアン。
仕立屋。
疑い。
夜の広場で、ガスパールがつぶやく。
「名前を呼ばれる前の顔が、いちばん怖い」
エティエンヌが聞く。
「なぜです」
「まだ、自分だけは助かると思っている顔だからです」
マドレーヌは家へ戻り、籠を置いた。
その日はパンを買えた。
だが、何も食べたくなかった。
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櫻未來の歴史メモ
今回の出来事
1793年ごろ、革命政府は反革命の疑いを強め、密告や逮捕が広がっていきました。恐怖政治の時代には、正義の言葉と保身の気持ちが結びつき、人々は隣人を疑うようになります。
史実と創作
ルシアンとマルグリットは創作人物です。特定の実在事件ではなく、当時の空気を日常の隣人関係として描いています。
櫻からの問い
ルシアンは悪人だったのでしょうか。それとも、家族を守りたい普通の人が、恐怖の仕組みの中で他人を差し出してしまったのでしょうか。
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