第1話:扉の向こうのパン
注記: 本作は史実をもとにした歴史フィクションです。
人物の会話、心理描写、一部の出来事の流れには創作を含みます。
史実そのものの解説は、本文最後の「櫻未來の歴史メモ」で補足します。
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今回の登場人物
ジャン・ボーモン:パリのパン屋。粉不足と客の怒り、貴族からの注文の間で板挟みになる。
テレーズ:市場で魚を売る女性。口は荒いが、飢えた人々の現実をよく見ている。
マドレーヌ:病気の母のためにパンを買いに来た少女。空の籠を抱えて列に並ぶ。
マルセル:若い兵士。群衆を散らす命令を受けるが、槍を向ける相手に迷う。
1789年初めごろ、パリのサントノレ通り近く。
前年からの不作と物価高騰で、パンは庶民の手に届きにくくなっていた。
夜明け前のパン屋には、空の籠を抱えた人々が扉の前に並んでいた。
「まだ開かないのかい、ジャン!」
「夜明け前だぞ、テレーズ。パンにも焼ける時刻ってもんがある」
「腹は鐘を待たないよ」
扉の向こうで、ジャン・ボーモンは粉袋の底を見ていた。
白い粉は、指でなぞれば木の目が見えるほど薄い。
「今日はどれだけ焼けたんだい」
外から声が飛ぶ。
「買えるだけだ」
「昨日もそう言った。買えたのは半分だよ」
「半分でも、ないよりはましだ」
小さな声が続いた。
「母さん、空き腹じゃ薬がきついって」
ジャンの手が止まった。
「マドレーヌか」
「うん」
「また来たのか。母さんは」
「立てない」
テレーズが扉越しに息を吐いた。
「ジャン、あんたの窯に文句があるんじゃない。空っぽの籠で帰るのが嫌なんだよ」
「俺だって空っぽの袋を抱えてる」
「粉屋に言いな」
「粉屋は商人に言えと言う。商人は税だ、道だ、天気だと言う。最後に怒鳴られるのは俺だ」
列の後ろがざわめいた。
「馬車だ」
「こんな朝に?」
「パン屋へ来る馬車なんて、いい匂いより先に腹が立つね」
裏口が叩かれた。
「ボーモン。侯爵家の注文を受け取りに来た」
ジャンは目を閉じた。
テレーズの声が低くなる。
「ほら来た。あたしたちの腹より、侯爵夫人の朝食が先らしい」
裏口の男が言う。
「支払いは済んでいる。白パンと菓子パンだ。遅れるな」
「こっちだって払うよ」
「では並べ」
「並んでも買えないから怒ってるんだ」
マドレーヌが籠を胸に抱いた。
「ジャンさん、今日は買える?」
「買える」
「みんな?」
ジャンは答えられなかった。
表の扉が押された。
木が、ぎしりと鳴る。
「隠してるんだろ!」
「貴族の分だ!」
「子どもに黒パンもないのに!」
通りの向こうで鉄の音がした。
若い兵士が2人、列の脇に立つ。先頭にいたのがマルセルだった。
「店の前に集まりすぎるな。道を空けろ」
テレーズが腕を組む。
「道を空けたら、腹も満ちるのかい」
「命令だ」
「誰の」
「上官の」
「上官の腹は鳴らないのかい」
マルセルは答えなかった。
隣の兵士が小声で言う。
「散らせ。騒ぎになる前に」
「まだ騒ぎじゃない」
「騒ぎになる顔をしている」
マドレーヌがマルセルを見上げた。
「兵隊さん」
「下がれ」
「槍でパンが出るの?」
マルセルの手が止まる。
表の扉がさらに押された。
「開けな!」
「ジャン、出てこい!」
ジャンは裏口の男を見た。
「侯爵家の分は、今日だけ半分にしてくれ」
「ふざけるな」
「外を見ろ」
「外など知らん。注文は注文だ」
「俺の店が壊れたら、明日から何も焼けない」
「それはおまえの責任だ」
ジャンは乾いた声で笑った。
「責任か。粉が来ないのも、税が高いのも、雨が麦を腐らせたのも、客が腹を空かせているのも、全部俺の責任に見えるか」
男は黙った。
ジャンは白いパンを取り、包丁を入れた。
「ジャン」
テレーズが扉の向こうで言う。
「それを切ったら、あんた、あとで困るよ」
「もう困ってる」
彼はパンを薄く切り、黒パンと一緒に板へ並べた。
扉を開けると、冷えた朝の空気と人々の息が流れ込む。
「今日は少しずつだ。文句は聞く。だが店を壊すな。店がなくなれば、明日は本当に何もない」
テレーズが最初に手を出した。
「聞いたかい。壊すなら、店じゃなくて別のものにしな」
「別のものって何だ」
「それがわかれば、とっくに壊してるよ」
マドレーヌの籠に、小さなパンが入った。
「足りるか」
「母さんと半分ずつにする」
ジャンは何か言いかけて、やめた。
マルセルは槍を下ろしていた。
隣の兵士が言う。
「おい、報告するぞ」
「報告しろ」
「命令に逆らったと書かれる」
マルセルは列を見た。
「槍を上げなかった、と書け」
遠くで鐘が鳴った。
人々は顔を上げる。
マドレーヌが籠を見下ろし、つぶやいた。
「これで、明日も並べば買えるの?」
誰も答えられなかった。
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櫻未來の歴史メモ
今回の出来事
この話は、フランス革命前夜のパン不足と物価高騰をもとにしています。1788年の不作や流通の混乱、税負担などが重なり、庶民にとってパンの値段は生活そのものを左右する問題でした。
史実と創作
ジャン、テレーズ、マドレーヌ、マルセルは創作人物です。貴族用のパンを分ける場面も創作ですが、パン屋が民衆の怒りを直接受ける立場にあったことは、当時の不安を描くうえで重要です。
櫻からの問い
人々はパン屋を責めていたのでしょうか。それとも、パン屋の向こうにある、まだ名前のつかない仕組みに怒っていたのでしょうか。
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旧ep1-6 について: 話の構成上、見直しが必要となったため、削除しています。
ご了承ください。




