還(称えあう狩人/政務を放り出す領主)
還 引用1件
頼れる猟師 パートナーシップ 功利主義 斉哀公批判
子之還兮 遭我乎峱之閒兮
並驅從兩肩兮 揖我謂我儇兮
あなたのその素早さ。
わたしとは峱山のふもとで出会った。
馬首を並べ、二頭のイノシシを追う。
あなたは両胸に手を当て、会釈され、
「あなたも素早くいらっしゃる」と
わたしを讃えてくださった。
子之茂兮 遭我乎峱之道兮
並驅從兩牡兮 揖我謂我好兮
立派なる、あなた様よ。
わたしとは峱山の道中で出会った。
馬首を並べ、二頭の牡の猪を追う。
あなたは両胸に手を当て、会釈され、
「素晴らしい」と
わたしを讃えてくださった。
子之昌兮 遭我乎峱之陽兮
並驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮
あなたの輝かしささ。
わたしとは峱山の南で出会った。
馬首を並べ、二頭のオオカミを追う。
あなたは両胸に手を当て、会釈され、
「巧みな方である」と
わたしを讃えてくださった。
○国風 齊風 還
二人の狩人は峱山にて狩りをするなか巡り合い、協力して狩りをなすようになる。お互いがその腕前に感心する。「揖」が当時のあいさつの一形式なのだという。片手を胸に当ててあいさつするより、より「害意はない」ことを表明しやすそうであるな。それにしても巧みな技を持つ二人が認め合うさまは、こう、美しいものであるな。なお還を「せん」と呼ぶのになんでやねん、とツッコミたかったのだが、辞書を調べると、確かに漢音として「セン」が記載されておった。まったく用法が思いつかぬためきょとんとしておるのだが、まぁ、そんなものと思うより他ないのであろうな。
○儒家センセー のたまわく
「刺荒也。哀公好田獵,從禽獸而無厭。國人化之,遂成風俗,習於田獵謂之賢,閑於馳逐謂之好焉。」
表向きは狩人たちの腕前を褒め称える詩であるが、内容そのものが「功績をたたえ合う」ものであることに注意を払わねばならぬ! すなわち一種の功利主義的なものが見え隠れするわけであり、これは斉の哀公が政務を放り出して狩りにばかりうつつを抜かしておったことを謗るのである! なお斯様に表向きは批判でないように見せかけつつ批判を繰り広げるさまを、清後期の学者、方玉潤は「不刺の刺」と呼んだ!
○崔浩先生、無の顔
(ほとんどの詩が「不刺の刺」に当てはまってくる気もするのだが……?)
■別本では詩題も用字も違う
漢書28 地理
臨甾名營丘,故齊詩曰:「子之營兮,遭我虖嶩之間兮。」[三]師古曰:「齊國風營詩之辭也。毛詩作還,齊詩作營。」
詩経には漢代に毛詩以外に三つの異本があった、とは既にコラムでも述べたとおりである。そのうち「齊詩」では当詩を「営」と題し、しかも詩中の用字も違ったと書かれておるようである。これはおそらく音からの復元をなさんとしたときに誤差が生じたのであろう。毛詩では「こ・どう」、斉詩では「こ・のう」。漢音では差が出るが、顔師古音注に拠ればともに「乃高」、すなわち「のう」である、という。なお調べてみるとどちらも詩経以外ではほぼ姿を現さぬ。よって検証のしようがない。うぬぬ。
毛詩正義
https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AF%9B%E8%A9%A9%E6%AD%A3%E7%BE%A9/%E5%8D%B7%E4%BA%94#%E3%80%8A%E9%82%84%E3%80%8B