20 北部の女
王城でのあの一件から、一週間が経った。
様々な騒動が巻き起こった王都の空気はようやく落ち着きを取り戻しつつある。地下水路から溢れ出していたムジカどもは猟師団の手によって次々と仕留められ、その数は目に見えて減っていた。念のために要所に配置した匂い団子も、当分の間は効力を発揮し続けることだろう。
宿代わりの酒場《青兎亭》は、朝から晩まで活気に満ちている。仕留めた獲物を持ち込む猟師たちと、それを捌く女将の威勢のいい怒鳴り声。俺は窓際の席にどっかと腰を下ろし、湯気の立つ温かいシチューの皿をつついていた。
「……ふぅ。ようやく、まともな飯を食ってる気がするぜ」
「じーさんもあちこち駆り出されてたもんな。でも親父たちも喜ぶんじゃねぇの? そのまま是非公務に復帰してほしいってさ」
「ふざけんなっての。こっちはとっくに引退した身だ」
今回の騒動に関する賠償の席を思い出し、俺は鼻で笑ってしまう。身を縮こませてこちらの言い分を丸呑みしてくれる、随分と楽な交渉だった。
北部のムジカが数を減らしている今、北方部族を完全に呑み込む好機でもある。そのために必要な予算の再編を求め、顔を青くするニコラを徹底的に詰め、若王マチスに承諾させてきた。これでオルン砦に長く詰める兵たちの士気も、これまでにないほど上がるはずだ。
「……連中との争いに決着がつけば、親父たちも家に戻ってこられるんだもんな。長い戦いにようやく終わりが見えてきた気分だよ」
向かいの席で、ロベルトが安堵したように息を吐きながらパンを千切る。その隣には、すっかり北部の伝統服が馴染んだ様子のシーナが座っていた。
「オルン砦の皆さんも、きっと喜んでくれますね。……早く、本当の意味で戦いが終わるといいですね」
シーナが同意するように頷く。その表情には、あの雪山で死にかけていた時の弱々しさはもう微塵も残されていなかった。
「まったくだ。ダリウスからは北部の防衛予算十年分を賠償金として毟り取ってやるつもりだ。爵位返上だけで済むと思うなよってな」
元宰相ダリウスは、長年の密猟組織との癒着が白日の下に晒され、今は冷たい地下牢で震えている。奴の財産はすべて没収され、その多くが北部の未来のために回されることが決まっていた。
王妃だったメリンダも廃妃が決まり、わずかばかり残されたリー家の領土の隅っこへと送られる見込みだ。あの一件のあとも彼女は喚き散らすばかりで、シーナへ謝罪一つ寄越さなかった。
『どうする、シーナ。こいつらはお前の居場所を奪ったんだ。それなりの目に遭わせてやってもいいんだぜ?』
一週間前、俺がそう問いかけた時の彼女の答えを思い出す。シーナは不貞腐れたままの元王妃と元婚約者を一瞥すると、困ったように首を傾げていた。
『そんな、私は反省してもらえればそれで十分です』
『相変わらず甘いな。大体反省するような連中には見えねぇけどなぁ』
『それなら……北部流の躾をしていただければ、それで』
苦笑を交えたその提案には、思わず腹を抱えて笑ってしまったか。
シーナは言った。獣が「可愛い」だけではないと知ってもらう必要がある、と。だから連中にはそれぞれの刑に処される前に、北部の視察と洒落込んでもらうこととなった。
あの寒空の下の檻にでも突っ込んでおけば少しは目が覚めることだろう。多少囓られたところで誰も文句は言うまい。
「マチスの小僧も、あんな女との間に子をもうける前で良かったわけだ。乗りかかった船だ。今度はもうちっとマシな女を見繕ってやるか」
俺が皮肉たっぷりに笑うと、ロベルトが目を据わらせて「……シーナは駄目だからな」と釘を刺すように呟いた。あんな軟弱者にやるわけないだろうが、阿呆が。
共謀罪で捕らえられたデイヴの「出世したかった」という言い分にも呆れたが、北部の視察が終わったら牢の中から指を咥えて眺めることになるだろう。これから輝きを増していくであろう、シーナの姿を。
「……ところでだ。王立中央保管庫の証拠資料についてなんだが」
ふと、思い出した疑問を口にした。
オイゲンがあそこに資料を隠していたことについては何の疑問もない。あそこは聖域に等しく、いくらダリウスであろうと手が出せない場所だったからだ。
「ああ、あれな。シーナがさ、じっと待っているだけなんて出来ないって言うから、じーさんがヴィンターハルトを出てすぐに俺たちにできることを探してたんだ。鞄のこともその時に聞いたから、ついでのつもりだったんだけど……」
「ロベルトさんがムジカの巣穴をいくつか知っていたおかげで鞄を見つけられたんです。中に入っていた鍵も、中央保管庫のものだと気付いてくれて」
「なるほどな。あそこを開けるには王家の許可がいるはずだが……お前、中に何が入っていたのかはオイゲンに聞いていたのか?」
ダリウスを絶望に追い詰めたあの一打。保管庫に証拠があると断じた、あの揺るぎない確信。
あれは一体、どこから来たものだったのか。
「実際、ダリウスの関与をほのめかす代物が山ほど眠っていたらしい。失脚させるには十分すぎるほどにな」
もっとも、オイゲンは最初から告発する気はなかったのだろう。
協会の働きかけで密猟から手を引くなら、それで良しとしたに違いない。
仮にリー家を糾弾したとしても、逆恨みを買えばリンド家などひとたまりもない。
あいつは争いを好む男じゃなかったし、その判断も理解できなくはなかった。
だが――
シーナは、少なくとも北部にいる間、その件についてひと言も口にしなかった。
その違和感をそのまま投げかけると、シーナはシチューを口に運んでいた手を止め、ふっと、いたずらっぽく微笑んだ。
「本当に保管庫に証拠があったのなら……良かったです。お祖父様、そこまで用意周到な人だったんですね」
「……あ? どういう意味だ?」
ロベルトは呆れたように肩を竦める。シーナは「ふふっ」と声を漏らした。
「あの鍵が王立中央保管庫のものだってことは、分かりました。でも、証拠なんてものが本当にあるかどうかは知りませんでした」
「……ブラフだったってのか? 何が収められてるかも分からないのに、あの場で王とダリウスを相手に、あんな博打に出たってのかよ」
「ええ。ダリウス卿は後ろ暗いことばかりしていましたから。『証拠がある』と突きつければ、勝手に自滅してくれるだろうと思ったんです」
シーナはそう言って、悪戯が成功した子どものように笑った。
「俺は止めたんだぜ? でもまあ、こっちで握った証拠だけでも十分いけそうだったしさ。親父も『ダメだったら独立宣言してやろう!』なんて焚き付けるもんだから……ま、いいかって」
なんという度胸だ。証拠があろうとなかろうと、あの鍵をマチスに渡した時点でダリウスの心は折れていた。追い詰められた者の心理を完璧に突いた、最高の「罠」だったというわけだ。
「……ハッ。ハハハハハ!!」
俺は思わず、腹の底から笑い声を上げていた。
「面白いじゃねぇか! お前、いつの間にそんな食えねぇ女になったんだ? お前も立派に北部の女らしくなってきたじゃねぇか!」
俺の笑いに釣られるように、ノースが足元で楽しそうに「ガウッ!」と吠える。
シーナは照れたように頬を赤らめながらも、その瞳には強い意志が宿っていた。
「皆さんに鍛えていただいたおかげです、きっと」
「そいつは何よりだ。……それで、協会長の座に戻る準備は進んでいるのか?」
「はい。陛下からは正式に要請をいただきました。これからは『慈獣』なんて一方的な押し付けではなく、おじい様が目指した『人と獣の正しい境界』を守る協会に立て直すつもりです。……ですが、シグルドさん」
シーナが、覗き込むように俺の顔を見る。
「実は私、考えていることがあるんです――」
続く言葉に、俺はもう一度豪快に笑い、彼女の頭を乱暴に撫でてやった。
今年の北部の雪緩みの時期は例年よりもずっと早く、そして輝かしいものになりそうだった。




