22話
八月も中旬に入り、美影町の空気はさらに濃い熱を帯びていた。
代々神代家が主催する『例大祭』を目前に控え、神主見習いとしての壮一郎の忙しさはピークに達していた。
上旬からこの方、取引先や出店を希望する町民たちとの会合、奉賛会との調整……。
彼にとって、それはただの手伝いではない、次期当主としての本物の責任としての重圧だった。
ようやく一区切りついた日の午後四時過ぎ。
壮一郎は重い足取りで神社の石段を上がり、母屋の引き戸をガラガラと開けた。
「……ただいま」
「おかえりー、壮一郎!」
扉が閉まりきるより早く、奥から巴が弾けるような声で駆け寄ってきた。
掃除の途中だったのか、首からタオルをかけ、エプロンを身に纏った姿は、どこからどう見てもこの家の切り盛りを任された『若奥様』のそれだ。
「お疲れ様。鞄、預かるよ」
巴は慣れた手つきで壮一郎が抱えていた企画書入りの鞄を受け取ると、甲斐甲斐しく彼の背中に手を添えた。
「居間で待っててよ。すぐにお茶淹れるからさ」
「ん……。ありがとうな、巴」
低く、疲労の混じった声で答えた壮一郎だったが、巴の差し出した冷たい麦茶を啜り、居間の畳に腰を下ろすと、ようやく人心地がついた。
巴は彼がお茶を一口飲み干すのを見計らって、隣にぴたりと腰を下ろした。
「会合はどうだった?」
「んー? ……あぁ、何の問題もなく終わったよ。なんせ父さんも同席してたからな。手慣れたもんだよ」
「おぉ、厳さんが!? 元気にしてた? 暫く顔見てないからなぁ」
壮一郎の父、厳の話題に、巴が目を輝かせる。彼女にとって厳は、すでに「将来の義父」としての敬愛の対象だ。
「元気元気。……あぁ、そういえば、『孫はいつ頃できそうだ?』って聞かれたよ」
「……なんて答ええたのよ、それ」
巴の頬が、夕日を反射したように朱に染まる。壮一郎は茶請けの煎餅を口に放り込み、淡々と答えた。
「『来年には』って」
「……まぁ、そういう返ししかないか。……っていうか、現実的すぎるんだよ、あんたは」
巴は呆れたように(あるいは本気で照れ隠しをするように)溜息をついた。
かつては彼女の方から「来年は三人」などと吹っかけていたはずだが、いざ壮一郎が真顔で、しかも親を相手にそれを肯定したとなると、その言葉の「重さ」に少しばかり腰が引けてしまうらしい。
「あはは。……巴も最近は、来年には親になるって自覚が出てきたんじゃないか?」
「……あたしは一応、とっくにそのつもりだけどさ。壮一郎こそ、自覚してんの?」
「ん? そりゃあ、一応自覚はしてるが……」
不意に、壮一郎の視線が巴の身体をゆっくりと舐めるように動いた。
その瞳に宿った、神主見習いとしての『公』の顔を脱ぎ捨てた『男』の欲望に、巴は敏感に反応して身を竦ませた。
「……はぁ。自覚があるのに、あの水着を家で散々着せる人がいますかねぇ」
恨めしそうな巴の呟き。
七月下旬のプールデートで壮一郎が選んだ、あの際どいビキニ。
壮一郎はあの夜以来、それを心底気に入ってしまったらしい。
昨夜も、その前も。壮一郎は「仕事の疲れも、あれを見ると吹っ飛ぶから……」などともっともらしい理由を並べては、巴にその格好を強いていた。
本来なら年に一、二回程度で着るはずだったものが、今や週に四回。数えてみればすでに十回以上、この母屋の密室で披露させられているのだ。
「……巴」
「わかってるわかってる! 似合ってるだろ! 可愛いんだろ!? 聞き飽きたわ! このご主人様がよぉぉぉぉ!」
「……怒ってるか?」
「怒ってねぇわ! 恥ずかしいだけだボケェ!! ……あんなの、万が一にでも親に見られたら、なんて言われるか想像もしたくないわ!」
巴は頭を抱えて唸る。
かつては自分が誘惑することで、真面目な壮一郎を困らせる側だった。
だが今、自分がどこまで許容するのかを試すかのようにエスカレートしていく壮一郎の要求に、その「ツケ」を払わされているのは自分の方だった。
「……あはは、ありがとうな。おかげで、仕事も順調に進んだよ」
「……はぁ。嫁の面目躍如でございますねぇ……ぐっへへ」
巴は悔しまぎれにいつもの笑い声を上げたが、壮一郎の次の言葉にすぐさま言葉を詰まらせた。
「でも、着てる時のお前も、まんざらじゃなさそうだったが」
「時と場所を考えろ!!」
「……すまん」
「……はぁ。なんだか最近、普段と立場が逆だわ。壮一郎が今まであたしにされて苦労してたのが、よーーーーくわかった二週間でしたよ」
巴は観念したように肩の力を抜いた。
外の世界ではただの学生として振る舞い、家では「神代家の嫁」として家事を切り盛りし、夜には壮一郎の果てのない「願望」をすべて受け止める。
はたから見れば歪だが、二人にとっては他人が入り込む隙のない、完成された濃密な生活だ。
「……やり返しが終わったから、これでおしまい、ってわけには……いかないよな」
「……まぁ、その時の気分次第だな」
「うわぁん! 未来の子供たちよ、ごめんよぉ……。ママはこんなにパパに汚されちゃったよぉぉぉ!」
大げさに嘆いてみせる巴だったが、その顔には、彼に求められ、所有されていることへの隠しきれない幸福感が滲んでいた。
どこまで要求しても喜んで受け入れる巴と、その限界を試し続ける壮一郎。
噛み合わないようで完全に噛み合った二人の日常が、そこにはあった。
祭りの夜まで、あと数日。
神代家の長い夏は、静かに、けれど確実に熱を帯びていく。
*
例大祭当日。
美影神社の境内は、朝から熱狂の渦に包まれていた。
至る所に提灯が飾られ、立ち並ぶ出店の香ばしい匂いと、祭囃子の音が夏の空気を震わせている。
町民たちはもちろん、夏休み中の美影高校の生徒たちも浴衣姿で集まり、活気に目を輝かせていた。
神代家次期当主として、一点の曇りもない白装束に身を包んだ壮一郎は、本殿の奥で例大祭の神事を執り行っていた。
凛とした声で祝詞を読み上げながら、ふと境内に視線を向ける。
喧騒の中、少し離れた場所から、真っ直ぐにこちらを見つめる浴衣姿の巴がいた。
普段の母屋で見せる姿は微塵もない。
凛と背筋を伸ばし、涼やかな顔で立つその姿は、誰の目にも「神代の嫁」として映っていた。
「あれが次期神代の嫁か……」
「若いのに、しっかりしてるなぁ。神代さんも安泰だ」
町人たちの感嘆の声。
そして、祭りに来ていた美影高校の生徒たち――巴のクラスメイトたちの驚愕のざわめきが、風に乗って微かに届く。
「……うっそ……あれって、巴……?」
「普段のあのだらけきった表情からは信じられないな……」
「神代の次期当主を『未来の旦那』って、ずーっとのたまわっていたけど、あれ……マジだったのか……」
周囲の反応をよそに、巴は目の前に立つ現当主――壮一郎の父である厳と向かい合っていた。
「やぁ、巴。久しいね」
「お義父さん! お久しぶりです! お元気そうで安心しました」
巴は、いつものだらしなさを微塵も見せない、凛とした表情で深く頭を下げた。
そんな彼女の姿を、厳はしばらくの間、呆気に取られたように見つめていた。
「……どうかされましたか?」
「……いや……ははは。なんだか少し見ない間に、随分と頼もしくなったなぁ、と思ってね」
厳の言葉に込められた「神代家の嫁として相応しくなった」という最大級の評価に気づき、巴は奥ゆかしい微笑みを浮かべる。
「ふふっ……。これも全て壮一郎さんのおかげですよ」
「ははは。もう外面でも、しっかり壮一郎のサポートができるみたいだね。……幼い君が壮一郎の後ろをずっと付いて回っていたのが、まるで昨日のことのように感じるよ」
「……っ! ……そうですね。今はまさに、あの時思い描いていた夢が叶いました。本当にお義父さんには感謝してもしきれません」
巴の言葉には、嘘偽りのない誠実さがこもっていた。厳は優しく目を細める。
「あはは、そんなに畏まらなくてもいいよ。私も巴が神代家に……壮一郎の嫁として来てくれると分かって、心底安心しているんだ」
「お義父さん……」
「普段は生真面目なあいつも、巴の前ではなんだかんだ言いながら……いや、そもそも巴の前以外では、基本的に仏頂面か生真面目な顔しかできないからな。だから、本当のあの子の顔は巴の前でしか出ない。あいつも巴にだけは、本音で接することができるんだと分かっているから、安心なんだ」
厳のその言葉を聞いた瞬間、完璧だった巴の『外面』が、わずかに崩れた。
「……本音で………………いや、本当に……。えげつないくらい『本音』で来ますからね、壮一郎は……。特に最近は遠慮がないというか……いや、遠慮してもらわなくてもいいんですけど……」
数週間に及ぶ、密室での際どい水着の数々を思い出したのだろう。巴は急にモジモジと身体をよじらせ、耳まで赤く染め始めた。
厳はその様子を見て、何かを察したように愉快そうに笑った。
「……あはは。そうか、壮一郎にもそういう面があったんだな。……まぁ、本当に来てくれて、ありがとう。それが言いたかったんだ」
厳はそう言い残し、満足げな足取りでその場を去っていった。
巴は厳の姿が見えなくなるまで、深々と頭を下げ続けていた。
そして彼が去った後は、再び元の凛とした表情に戻り、じっと本殿の方へ視線を戻した。
*
本殿の奥。立ち込める玉串の香の匂いと、外の喧騒から切り離されたような微かな静寂の中で、壮一郎は滞りなく神事を進めていた。
薄闇が降り始めた境内に、厳かな祝詞が凛と響き渡る。
壮一郎は白装束の袖をわずかに揺らし、遠くの石段の端で自分を待ち続ける「完璧な嫁」の姿を静かに見下ろしていた。
揺らめく提灯の明かりに照らされた巴は、さっきまで厳と話をしていたはずだが、今はまた一人で凛と佇んでいる。
その横顔には、普段家で見せる締まりのない笑みはなく、神代家の次期当主の妻としての、一種の覚悟のようなものが漂っていた。
壮一郎は、そんな彼女の献身的な姿に、神事の最中であることも忘れて、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
一方、巴が壮一郎の仕事が終わるのをじっと待っていると、背後から再び見慣れた人物が近づいてきた。
「あれ? お父さん!」
驚きに声を上げた巴の前に立っていたのは、彼女の父、譲だった。
「おぉ、巴じゃないか。元気にやっているかい?」
「元気元気! 毎日壮一郎と一緒にいられて、あたしゃ幸せだよぉ」
父親の前でも隠そうとしないその惚気ぶりに、譲は苦笑いを浮かべて彼女の頭を軽く叩いた。
「お前は本当に変わらないなぁ」
「そう? ってか、お父さんがこういうところに来るの珍しいね。いつも仕事で忙しそうで来ないから、昔から壮一郎に連れてきてもらった記憶しかないよ」
譲は少しだけ寂しげに目を細めたが、すぐに実業家としての顔に戻った。
「……壮一郎くんには、昔から娘が世話になりっぱなしだな。……まぁ、今日も仕事だよ。厳さんに用があってね」
「お義父さんに?」
「巴も、紛らわしい言い回しをするようになったもんだね……」
譲は少し呆れたように言ったが、巴はどこ吹く風で笑い飛ばした。
「そんなこと言わないのー。厳さんならさっき挨拶したし、今は壮一郎のところにいるんじゃない? で、厳さんに用ってなに? あたし、関係ありそう?」
「あるっちゃあるし、無いと言えば無いかなぁ……」
「お父さん、回りくどいよ。いつもの悪い癖」
巴がジト目で促すと、譲は懐から一通の重みのある封筒を取り出し、それを軽く振ってみせた。
「まぁ、神代家の不動産管理を、うちが受け持つことになってね。その辺の確認資料を厳さんに渡すんだよ」
「……え? お父さん、そんな仕事してたっけ? IT関係で在宅ワークって言ってたから、不動産っていきなり言われてもピンとこないんだけど……」
譲は娘の呑気な顔を見つめ、少しだけ真面目なトーンで声を落とした。
夜風が火照った境内の熱をわずかに奪っていく。
「巴……。君が嫁ぐ先ってのは、一応、この美影町ではかなり影響力が大きい家柄の一つなんだよ? そこに娘を嫁に出すってことは……どういうことか、分かるかい?」
巴の動きが止まる。
父親の言葉の裏にある、大人たちの「契約」と「信頼」の重みが、祭囃子の音に混じって彼女の胸に染み込んでいった。
「うわっ! 汚っ!? あたしと壮一郎の純粋な愛を、政略結婚にしちゃうおつもりですか!?」
「あはは……。元からそういうもんだよ。特に今の神代家は、跡取りが壮一郎くんしかいないんだからね」
譲の言葉は、巴が今まで意識的に避けてきた「現実」の輪郭を浮き彫りにした。
「……え? あたしの責任って、もしかして、だいぶ重め? ……子供に勉強教える自信ないんだけど、あたしも教育ママにならないと駄目?」
急に不安げな顔をして、自分の平らなお腹をさする巴に、譲は声を上げて笑った。
「あはは! その辺は、あの壮一郎くんが『嫁に貰う』って言ってるくらいだから、別に大丈夫だと思うよ。それに普通は、いい塾とか家庭教師をつけるのが一般的だしね。お前の頭の出来なんて、壮一郎くんはとっくに織り込み済みだろうさ」
「……なんか、フォローになってない気がするんだけど」
巴は膨れっ面をしたが、視線は再び本殿の奥、凛々しく舞う壮一郎へと向けられた。
彼が背負っているものの大きさ。
そして、自分がその隣に立つということは、単なる「可愛い嫁」でいるだけでは足りないのだという事実。
巴は、昨夜、壮一郎が自分の腰に回した大きな手のひらの、あの力強い感触を思い出し、密かに背筋を伸ばした。
(……教育ママは無理だけど、壮一郎がいつでも帰ってこれる『家』を守るのだけは、誰にも負けないんだから)
夕闇が色濃く迫る境内。
遠くで響く祭囃子の音色が、夜風に乗って、巴の静かな決意を祝福するようにさらに高く響き渡った。
*
無事、祭事を終えた壮一郎は、神聖な白装束からいつもの私服へと着替えを済ませた。
張り詰めていた緊張が解け、心地よい疲労が身体の奥に染み渡るのを感じる。
関係者たちに次期当主として隙のない挨拶をして回りながらも、彼の意識は、無意識のうちに境内の隅で自分を待っているはずの巴の姿を探していた。
(俺の事をほおっておいて、桃瀬さん達と祭りを楽しめばいいのに…って、巴はそんな事できないか…)
壮一郎は人混みを縫って歩きながら、自嘲気味に、けれど確かな愛着を込めた確信を胸に抱き、そんな事を考えていた。
ふと、石段の端で夜風に吹かれていた巴と目が合う。
その瞬間、先程まで周囲を畏怖させていた「神代家の嫁」としての凛とした姿はどこへやら。
彼女はすぐに満面の笑みになると、子供のように大きく手を振り、迷いのない足取りでこちらに駆けてくる。
その姿は、この広い境内でただ一人の男のもとに帰る場所を求めている、一途な女のそれだった。
「すまん、待たせたな」
「いやいや、これくらいどうってことないって」
壮一郎は、周囲に人の気配がないか、誰かの視線がないかを素早く確認した。
そして、当たり前の習慣のように巴を腕の中に抱き寄せ、その柔らかい頭を大きな手でワシワシと撫でた。
「ぐへ…ぐへへっ」
相も変わらずくぐもった、巴独特の幸せそうな笑い声。
壮一郎の胸に顔を埋める彼女からは、微かに夏の夜の匂いと、すでにこの家の嫁として馴染みきった生活の香りがした。
「ここだと誰かが来てもおかしくないな。人気のいない場所にでも行こうか、巴」
「お…おぅ」
壮一郎は巴の華奢な手を握り、そのまま彼女を導くように神社の裏手へと回った。
立ち並ぶ杉の巨木が月明かりを遮り、祭りの喧騒が遠くの幻のように聞こえる。
ここならば、深い夜の闇が二人を完全に包み隠してくれるはずだ。
「そ、壮一郎もほんと大胆になったというか…」
「ん? なんのことだ?」
「な、なんでもないよぉ」
「ほら、とりあえずお前も座れ」
壮一郎は古い石段に腰を下ろすと、冷たくなった石の表面を掌で払い、自分のすぐ隣をポンポンと叩いた。
「んじゃぁ、失礼しまして…」
巴はそう言いながら、少しだけ緊張した面持ちで、壮一郎に寄り添うように静かに腰をおろした。
壮一郎は、空いた手を自然に伸ばし、隣に座った巴の腰――浴衣の帯の下、柔らかい部分にためらいなく手を回した。
日々の生活ですっかりその形を覚えている感触を確かめるように、そのまま巴を自分の方へと強く抱き寄せた。
「お前、父さんと何を話していたんだ?」
壮一郎は、巴の耳元でそう投げかけた。
「え? 大した事じゃないよ。まぁ、嫁に来てくれてありがとう。って言われたくらいかな、ぐっへっへ…正式に親公認でございますよ、壮一郎ぉ~」
巴は照れ隠しをするようにそう言いながら、特大の優越感と満足げな顔で自分の頭を壮一郎の肩に預け、安心して甘えるように何度もこすり付けてくるのだった。
*
杉の巨木に囲まれた神社の裏手には、祭りの喧騒も遠い幻のようにしか届かない。
頭上では風に揺れる木々の葉擦れが微かに響き、夏の夜特有の生温かい空気が二人を包み込んでいた。
静寂の中、自分にすり寄る巴の柔らかな体温と、浴衣越しに伝わる確かな重みを感じながら、壮一郎はふと、心に決めていた言葉を口にした。
「俺もお前が嫁に来てくれることになって嬉しいよ」
「…はい? ど、どうした壮一郎…急に改まって…」
からかい半分の惚気に対する、壮一郎のあまりにも直球な言葉に、巴の動きがぴたりと止まる。
壮一郎は、隣に座る彼女の腰を抱く腕にわずかに力を込め、視線を木立の向こうの暗がりに向けた。
「ちゃんと俺の気持ちは伝えておこうと思ってな」
「そ、壮一郎の気持ちを?」
「お前が俺の事を幼い時から慕ってくれてたのは知ってたが、まさか大人になっても好きでいてくれるとは思ってなくてなぁ」
「はい!? なんだなんだ、壮一郎、あたしの気持ちに疑いを持っていたというのか!? さすがに怒っちゃいますよぉ?」
口では怒る、と言いながらも、怒るような雰囲気など微塵もなさそうな巴の頭を撫でながら、壮一郎は続けた。
その大きな手のひらから伝わる慈しみと不器用な誠実さは、巴にとってどんな愛の言葉よりも甘いものだった。
「疑い、っていうか……。普通は都会に出て大学生活してみたい、とか、夢を追いたい、とか、そういう風に考えて地元を出ていくのが一般的だからさ」
巴はその言葉を聞き、朱音たちの事を思い浮かべた。
朱音、瑞希、美咲。いずれの三人とも来年の春から都会へ行こうと努力している。
他のクラスメイトも同様だ。青春のその先にある自由を求めて、皆が外の世界へ羽ばたこうとしている。
自分だけが、高校卒業後も、この大した産業もない美影町に残ろうとしている。
「…まぁ、確かに言われてみるとそうかもね」
「俺とか、この町で根付いているような代々の仕事を家業として継ぐ人以外は、一度は外に出ていくのが自然だしな」
壮一郎が言う通り、美影町は代々続く産業を系譜していくためだけにあるような田舎町だった。
現在、美影町に残って生活している若者は、家業に関わる人間か、地元愛に溢れた人間しかいない。
ジージーと遠くで鳴く夜の虫の音が響く。
都会の喧騒とは無縁の、この町特有の静かで穏やかな時間がそこには流れていた。
「だから、正直……巴もいずれ都会に出ていくもんなんだろうな、と思っていたからなぁ」
「…壮一郎……。だから、あんたが上京中にメールの返信がやたら短いのは、そういう理由だったのね!?」
「人間二年もあれば、変わるには十分だからなぁ。特に巴くらいの年頃だとさ。俺も中学生くらいまでは、家業を継ぐのに抵抗があったしな」
「な、なるほど……。あたしは壮一郎と家族になるのが当たり前って考えてたから、思いもしなかったわぁ……」
「お前、ほんとにそういうとこは達観してるというか、なんというか……。おまえ、都会に興味とかないのか? 籍入れたら色々忙しくなると思うし、今のうちに遊びに行くのも手だと思うぞ?」
巴は頭を抱えた。
自分が『神代の嫁』として生きるという、太陽が昇るのと同じくらい「当たり前」のことが、肝心の壮一郎に伝わっていなかったことへのもどかしさ。
「なんか朱音たちからも似たような事を散々言われた記憶が……」
「そ、そうなのか? お前が普段話す学校の話で、そんな話一度もでなかったから」
「つまんなさすぎて話す気にもなれなかっただけだよ……。いい? 壮一郎、この際だからはっきり言っておくけど」
壮一郎は巴がいつになく真剣な眼差しをしているのに、驚いた。
冗談めかしたいつもの笑いは消え、そこには壮一郎の人生に寄り添う覚悟をとうの昔に決めていた、一人の女の瞳があった。
「あたしが行くとこには、壮一郎が居ないと、ダメなの。嫌なの。わかる? 都会は色々遊べる場所とかあるのは知ってる。でも、そこに壮一郎はいるの? いないでしょ? 壮一郎は神代の家業で中々ここを離れられないでしょ? だから、あたしもここにいるの。言ってる意味わかる?」
巴は言いながら、どんどん顔を赤らめていった。
木漏れ日のように僅かに差し込む月明かりの下でもはっきりと分かるほど、その頬は熱を帯びている。
それは今までしてきたどの愛の囁きよりも遥かに重く、壮一郎の胸を貫いた。
彼女の人生の中心には、常に壮一郎という太陽が居座り続けているのだ。都会の喧騒にも、若者の自由にも興味はない。
壮一郎の隣で、彼と共にこの町で家庭を築くことこそが、彼女にとって唯一にして絶対の価値観だった。
「…なんか…すまん…」
言われた意味の深さと、彼女の純粋で真っ直ぐな一途さを悟って、壮一郎は静かに答えた。
謝罪よりも深い感謝、そして自分のすべてを委ねてくれる彼女への愛着が、その短い一言に凝縮されていた。
「………わかればよろしい………さぁ、もうすぐ花火の時間でしょ。一緒に見に行こうよ」
そう言い、巴は少しだけ照れくさそうに立ち上がろうとした。
だが、壮一郎はその身体を許さなかった。彼女の腰に回していた腕に強い力を込め、そのまま自分の胸へと強引に引き戻す。
擦れ合う浴衣の小さな音が、夜の静寂に響いた。
壮一郎は、もはや逃げ場など与えないというように巴を力強く抱き寄せ、その唇を重ね、深い口づけを交わした。
それは「称号」としての高校生を卒業し、一人の女として彼女を永遠に神代の家へと繋ぎ止めるための、壮一郎なりの返答だった。
「…お前で良かったよ」
「…ぐへ、ぐへへ…ようやくあたしの本当の良さがわかったようだな…」
巴は壮一郎の腕の中で、誇らしげに、そして最高に幸せそうに目を細めた。
自分が彼に深く求められ、愛されていることを実感する、至福の表情だった。
「あぁ…」
そう言って、壮一郎は再び彼女の唇を奪うのだった。
ヒュルルル……という微かな風切り音の後、遠くで一発目の花火が打ち上がる音が夜空に大きく響き渡った。
杉の木立の隙間から色鮮やかな光が閃き、重なり合う二人のシルエットを淡く照らし出す。
だが、今の二人には、互いの吐息と目の前の相手の鼓動の音以外、何も聞こえてはいなかった。




