Ep,5 孤独に浸れ
机の上に積まれた資料の束。その厚みは小説一冊分をゆうにこえるほど。「これだけ覚えて」と言われたらうげっと思うくらいの厚みだと思ってもらえばいい。一番上の紙には明朝体で「井瀬製薬 筆記試験用資料」とだけ印刷されていて、二枚目以降にはうってかわってびっしりと小さな文字が敷き詰められている。
製作者はもちろん俺、覚えるのはもちろん日永田。だから机の上を見た隣のこいつが顔面蒼白で固まっていようとも、俺には全く関係ない話なのだった。
「......まじで?」
石像、もとい日永田が視線はそのままに言う。心なしかイントネーションがおかしかった気がするけど、そこはまぁつっこまないでおいてやることにする。動揺の現れなのだろう、変な田舎訛りみたいな発音だった。
「うん、まじまじ」
軽く返して俺はキッチンに向かう。これ印刷するのも結構疲れるんだから、ちゃんと全部覚えてよね。そう言いながら炭酸飲料を冷蔵庫から取り出すと、嘘だろ、と若干引き気味に言われた。構わず俺はグラスにそれを注ぎ始める。あっちょっと溢れた、拭かなきゃ。適当に布巾を探し出そうとして、わりとあっさり諦めティッシュで拭き取る。黒い液体が染み込んだそれをゴミ箱に投げ入れてから、グラスとともにリビングに向かった。
ことん、と机の上にグラスを置いて、未だ呆然としている様子の日永田に聞く。
「何か飲み物いる?」
「......コーヒーが欲しいです」
「冷蔵庫にあるから勝手に入れてね」
「いやじゃあなんでわざわざ聞いたよ」
「嫌がらせ?」
「あからさまにひでぇ......」
大量の資料を目にしたことにより削られた日永田の体力ゲージをさらに削ってやった。もちろん意味などない。ちなみに俺はこのような言動を学校で連発した結果見事孤立した。クラスの女子曰く、「佐咲くんには関わらない方がいい」とのこと。正直、めっちゃそれなって感じだった。
うん、反論は無いけども。
それでも、自分が蒔いた種だということはわかってるんだけど、ちょっとだけ、傷ついた。
「嘘だよ、コーヒーね」
......勝手に嫌な気持ちになって、炭酸を喉に押し込み立ち上がった。立ったり座ったり忙しいやつだなと自分でも思う。
日永田はありがとう、と呟くと、とても嫌そうに資料をぺらぺらめくっていた。奴にも奴なりの「手伝わせていることへの責任感」みたいなものが存在していて、それ故にこんなふざけた資料も真面目に読み込もうとしているんだろうが、その行動、ハッキリ言って無駄だ。何故なら、実はその資料のうちの六割はほとんど要らない情報だから。覚えなくていいし、覚えたことにより脳のキャパは埋まってしまうし時間も無駄だしで、まったくもって無意味な行動でしかない。
じゃあなんでそんな無駄な資料を作ったんだよって?ミス?いやいや、そんなわけないだろう。ここの情報担当の俺が、資料に関してのミスなんてするわけがないのだから。
理由はたったひとつだけ。
考えるまでもない、くだらない私怨だ。
誤解されないように一応最初に断りを入れておくけど、俺は日永田に何かされたわけじゃないし、日永田を恨むようも理由はほとんどない。そもそも俺と日永田の関係性なんて、数ヶ月前に出会った中学生(不登校)と社会人(無職)レベルのものでしかなくて、それ以上の好意もそれ以上の因縁も、本来存在すらしないはずなのだ。証拠として、日永田は俺に対してそれらの感情を一切抱いていない。なんて、ただの憶測なんだけど。まぁ、少なくとも好かれているということはないだろう。現在進行形でちょっとずつ嫌がらせしているわけだし。
それでは何故俺がそこまで日永田に小さな嫌がらせをしているのかという話題になるのだろうが、そこには残念ながら俺のちょっと前までの人間関係みたいなものが結構濃密に絡んでくるので、あまり思い出すのに気は進まない。......困ったことに、日永田の顔を見たら嫌でもそれを思い出してしまうってのが現状なんだけど。
簡単に言うと、日永田がなんとなく俺のクラスメイトに似ていだのだ。友達でもいじめっこでもない、ただのクラスメイト。そこは勘違いしないでいただきたい。偶然席が——ちょうど俺が不登校になる前に席が隣になっただけの、それだけのクラスメイト。どうやら男女の人数上、どうしても男子同士で隣になる席というのがうちのクラスには存在していたらしく、運悪くそこに当たったのが俺とそのクラスメイトだったというわけ。
奴は優しかった。......名前?周りからはシノって呼ばれてたかな。苗字からとったのか下の名前から取ったのかは知らないけど、おそらくあだ名の一種なんだったのだと思う。本名という線もあり得なくはないんだろうけど、聞いている限りはなんとなく、あだ名のようなイントネーションだった気がする。
そのあだ名すら、俺は一度も呼ばなかったんだけど。逆に俺はさきるきと呼ばれていた。長いから名前でいいよとか言えるほどのコミュ力はもちろんなかった。
で、俺が何故「シノ」のことを覚えているのかというと、あいつが俺にしつこく勉強を教えろと迫ってきたからなのだった。人生を変えてくれた友人だとか、そういうのではない。当時の俺から見れば、「隣のうるさい馬鹿」だった。
でも、今ならわかる。それが、周りから手を差し伸べられることをあからさまに嫌っていた俺に対しての、奴なりの気遣いだったということが。自分が下から頼りに行けば自然と仲良くなれるんじゃないかとか、そんな感じの考えだったのだと思う。気付いた後、やっぱあいつ賢かったんじゃん、と思った。
しかし俺はそれでも「シノ」と友達にならなかった。
「お前友達沢山いるじゃん、あいつらに聞けば」
奴の優しい気遣いにさえ、俺はそう返したのだから。今思えば酷い話である。と同時に、何度あの状況を繰り返そうと絶対にあの返事しか返さない自信もあるんだけど。俺の素っ気なさと冷たさはそんな簡単には治らない。その後も「シノ」は根気強く俺に話しかけてくれていたんだけど、やっぱり俺もその度に突き放すような態度を取ってしまっていたので、次第に奴も俺から離れていった。当然の結果だ。報いと言った方が正しいか?
その件に関しては反省はしているし後悔もしているけど、その反省を今後に生かす気は無い。まったく無い。何度でもこんな失敗を繰り返そうとさえ思う。
だって、その失敗によって得られる冷たい孤独感が、どうしようもなく寂しくて、言いようもなく心地いいのだから。
今後もきっと俺は、友達なんて作れない。
自由と孤独に味をしめてしまった俺は、これからも近づいてくる他人を何気なく傷つけ、無意識に遠ざけていくだろう。今は気をつけているけど、胡桃にも来栖にも、七瀬にだっていつかは愛想をつかされてしまうかも知れない。
でも、それでいいのだ。
こうして今、俺みたいなやつがこんな不思議な連中となんだかんだで仲良くできている現状の方が、よっぽどおかしいのだから。




